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2016年11月30日
日韓寿司友対決
「何が起きているのか」続編。薄ら笑いを浮かべながら、隣国の混乱をこきおろす。果たして健全なのはどちらなのか? 再び、『田中龍作ジャーナル』より。
「青瓦台(大統領府)に出入りする記者たちは大統領に質問しろ」。マスコミ労組などからなる『言論団体非常時局会議』が声明を出した。「言論機関は崔スンシル・ゲートの共犯者ではないか、と言われている。それなのに(記者は)主犯格である大統領に何も質問しない。誰が青瓦台記者団を信頼するだろうか」。青瓦台詰め記者たちが権力に飼いならされていて、大統領を追及しないことへの怒りである。
青瓦台詰め新聞社の記者によれば、朴クネ大統領は予め出した質問しか答えない、という。安倍首相と全く同じではないか。日本では「アベ寿司友」という呼び名があるように、韓国には「親朴記者」という言葉がある。
朴政権のメディアコントロールは安倍政権と同じくらい巧妙だ。朴政権にすり寄るメディアには恩恵を与え、批判的なメディアには不利益を被らせる。親朴メディアが独立系や反体制のメディアをいじめたりする。
MBC(韓国文化放送)の記者は言う。
「崔スンシル・ゲートについては、知っていたのに書かなかったとまでは思わない。だが、政権を危うくするような事を報道したりはしない、構造上の問題がある」「過去の政権と比べ、朴政権は日が経つにつれ(報道への圧力が)酷くなっている。自分の首を賭けてまで追及しようとする記者は少ない」
今回の事件は、新興メディアと反体制新聞社から火が付いた。老舗の『朝鮮日報』では幹部が財閥系企業から豪華旅行の接待を受けていたことが明らかになり口をつぐんだ。日本の記者クラブが「3・11」の際、東電に中国旅行の接待を受けていたのと同じ。
日本だったら民衆がここまで激しくマスコミを、それも最大の発行部数を誇る新聞を批判するだろうか?
安倍寿司友と親朴記者。日韓のマスコミ事情は酷似。しかし、決定的な違いがある。それは読者・視聴者のメディアリテラシー。流行歌「これが国か」。大統領退陣を求める集会で、おなじみの曲。日本のテレビ番組ミヤネ屋などでも面白おかしく紹介された。だが、歌の3番に登場する「『朝鮮日報』は醜悪な共犯者ではなかったか」のフレーズには触れていない。
『朝鮮日報』は238万部を発行する、韓国の最大紙。日本で言えば『読売新聞』。『朝鮮日報』は幹部が財界から豪華旅行の接待を受けていたことを暴露され、口をつぐんだ。韓国最大紙は民衆の信頼を失ったばかりか、「共犯者」とまで批判されるようになった。東電幹部の接待を受け、中国旅行を楽しんでいた日本のマスコミ。それでも日本の民衆は批判をしなかった。
「対岸の火事」は騒ぎが大きいほど視聴率が取れる。日本のテレビ局はそれを当て込んでいる。それでも韓国マスコミは政権批判と会社批判ができる。少なくとも日本のマスコミよりはまともなのだ。
2016年11月29日
何が起きているのか
「韓国からの通信」。「世界」1973年5月号から1988年3月号にかけて連載。緊迫する韓国の政情、民主化を求める知識人の動き、そして民衆の声を伝えて反響を呼んだ。
そして今。興味本位の政治スキャンダルしか届けられないメディア。無知と偏見のコメントに惑わされてはいけない。「世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」を「メディア・リテラシー(media literacy)」という。以下、『田中龍作ジャーナル』より。
「退陣するまで毎日続ける」― ソウル最大のメインストリート沿いに建つフィナンシャル・センタービル前では、毎夕7時からキャンドル集会が始まる。
集会後、大統領府に向けてデモ隊が出発することもあって、警察のカマボコ(機動隊員輸送用バス)が会場周辺に配備される。今回のデモ・集会で目立つのは中高校生の姿だ。主催者発表で100万人が参加した12日の「朴退陣要求デモ」では、中高生の列が途切れることなく続いた。
キャンドル集会に参加していた中学生たちに話を聞いた。ソウル市内の中学校に通う14歳の男子生徒は、キャンドル集会に参加するのはこれで2回目だ。
「政治が間違っているのを変えるために来ている。崔スンシル容疑者の娘が裏口入学した事も正しくない」。言葉は正義感に溢れていたが、気負いはない。
女子中学生3人組は、ソウルのベッドタウン京畿道安養市から来た。この日が初めての参加だ。親からは「キャンドル集会に行っていいよ」と言われ、お金も貰った。
キャンドル集会で配られる風除けの紙コップには「降りて来いパク・クネ」と書かれている。退陣要求だ。ジャージ姿の女子中学生は、「昨日の(100万人)集会に来たかったけど、人が多過ぎたから」と、参加の理由を語った。
「たった一人のために国の政治が壟断されている、おかしい。パク・クネ(大統領)は、辞職してほしい」。少女たちは口々に最高権力者へ退陣要求を突き付けた。
日本では安保法制に反対する10代のグループが世の注目を集めたことは記憶に新しい。選挙権が18歳に引き下げられたこともあり、日本の文科省は昨年10月、高校生のデモ集会への参加を事実上規制する通知を出した。政治から距離を置くことが望ましいとする風潮が高校生たちに刷り込まれるのである。
韓国の少年少女が大人になった時、韓国国民の政治意識は日本よりも成熟したものになっているだろう。
「♪ ハヤ(下野)ハヤハヤ~ ♪」。リズムに乗った歌が流れる。市民たちはキャンドルを揺らし軽快なステップを踏む。耳をそばだてて聞いてみると、「パク・クネ大統領は下野せよ」という歌詞のプロテストソングだった。
もう一つ、デモ現場でよく流れるアップテンポの歌がある。高校生くらいの女の子の声で、「大韓民国は民主共和国だ。すべての権力は国民から来る・・・」。何のことかと調べたら、韓国憲法・第一条第一項と第二項の条文が歌詞になっているのだった。
労働組合や、ひと昔前の学生運動で歌われた暗く重苦しい歌はほとんど流れてこない。時代は確実に変化している。
「大学路」に近い大学の学生達が集まっていた。女子学生が多い。子供連れの母親もいる。みな目の周りに白い仮面を付け、顔が分からないようにしている。出発前の集会で、何人かの学生がマイクを握った。24歳の男子学生は、パク大統領の母校・西江(ソガン)大学の学生だ。
「この人の後輩として、恥ずかしく感じています。4年前、初めての大統領選挙で朴クネに投票したことも恥ずかしい」。男子学生は選挙でパク・クネ氏に期待したことも、後輩であることも恥ずかしいと言う。集まった女子学生から「気にするな~!」と声援が飛んだ。
男子学生は後輩として、パク大統領に真摯にアドバイスした。「心から反省して、責任があれば下野して罰を受けて下さい。歴史を逆行することはできません」。
ここが「大学路」と呼ばれるのは昔、ソウル大学のキャンパスがあったからだ。頻発する反政府デモに手を焼いたパク・クネ大統領の父、朴正煕大統領の時代、ほとんどの学部が山の上に移転させられた。今残っているのは医学部と付属病院だ。かつて「大学路」はデモのメッカとして知られていた。ここから行進を始めたデモ隊は大通りに出て、大統領府(青瓦台)方面に向かう。途中の大きな交差点にたどり着く前に、機動隊に阻まれるのがお決まりのコースだった。先頭に立つ学生が鉄パイプを持って対峙すると、機動隊は催涙弾を発射した。
そのような光景はすでに昔のものになっていた。同時多発デモ隊と車道の間には蛍光色のカッパを着た交通整理のおまわりさんが数人配置されていただけだ。新聞報道によれば、12日の100万人キャンドル集会でも鉄パイプは一つも確認されなかったという。暴力的ではないが、集まろうと思えば100万人以上が平和裏に「退陣」を叫ぶ。このほうが権力にとっては怖いことかもしれない。
国民の政治リテラシーは高い。高校生の一人スタンディング。「韓国の権力は国民にあるのか、(崔)スンシルにあるのか。大統領、これが国なんですか」
そして今。興味本位の政治スキャンダルしか届けられないメディア。無知と偏見のコメントに惑わされてはいけない。「世の中にある数え切れないほどの沢山の情報メディアを主体的に読み解いて必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」を「メディア・リテラシー(media literacy)」という。以下、『田中龍作ジャーナル』より。
「退陣するまで毎日続ける」― ソウル最大のメインストリート沿いに建つフィナンシャル・センタービル前では、毎夕7時からキャンドル集会が始まる。
集会後、大統領府に向けてデモ隊が出発することもあって、警察のカマボコ(機動隊員輸送用バス)が会場周辺に配備される。今回のデモ・集会で目立つのは中高校生の姿だ。主催者発表で100万人が参加した12日の「朴退陣要求デモ」では、中高生の列が途切れることなく続いた。
キャンドル集会に参加していた中学生たちに話を聞いた。ソウル市内の中学校に通う14歳の男子生徒は、キャンドル集会に参加するのはこれで2回目だ。
「政治が間違っているのを変えるために来ている。崔スンシル容疑者の娘が裏口入学した事も正しくない」。言葉は正義感に溢れていたが、気負いはない。
女子中学生3人組は、ソウルのベッドタウン京畿道安養市から来た。この日が初めての参加だ。親からは「キャンドル集会に行っていいよ」と言われ、お金も貰った。
キャンドル集会で配られる風除けの紙コップには「降りて来いパク・クネ」と書かれている。退陣要求だ。ジャージ姿の女子中学生は、「昨日の(100万人)集会に来たかったけど、人が多過ぎたから」と、参加の理由を語った。
「たった一人のために国の政治が壟断されている、おかしい。パク・クネ(大統領)は、辞職してほしい」。少女たちは口々に最高権力者へ退陣要求を突き付けた。
日本では安保法制に反対する10代のグループが世の注目を集めたことは記憶に新しい。選挙権が18歳に引き下げられたこともあり、日本の文科省は昨年10月、高校生のデモ集会への参加を事実上規制する通知を出した。政治から距離を置くことが望ましいとする風潮が高校生たちに刷り込まれるのである。
韓国の少年少女が大人になった時、韓国国民の政治意識は日本よりも成熟したものになっているだろう。
「♪ ハヤ(下野)ハヤハヤ~ ♪」。リズムに乗った歌が流れる。市民たちはキャンドルを揺らし軽快なステップを踏む。耳をそばだてて聞いてみると、「パク・クネ大統領は下野せよ」という歌詞のプロテストソングだった。
もう一つ、デモ現場でよく流れるアップテンポの歌がある。高校生くらいの女の子の声で、「大韓民国は民主共和国だ。すべての権力は国民から来る・・・」。何のことかと調べたら、韓国憲法・第一条第一項と第二項の条文が歌詞になっているのだった。
労働組合や、ひと昔前の学生運動で歌われた暗く重苦しい歌はほとんど流れてこない。時代は確実に変化している。
「大学路」に近い大学の学生達が集まっていた。女子学生が多い。子供連れの母親もいる。みな目の周りに白い仮面を付け、顔が分からないようにしている。出発前の集会で、何人かの学生がマイクを握った。24歳の男子学生は、パク大統領の母校・西江(ソガン)大学の学生だ。
「この人の後輩として、恥ずかしく感じています。4年前、初めての大統領選挙で朴クネに投票したことも恥ずかしい」。男子学生は選挙でパク・クネ氏に期待したことも、後輩であることも恥ずかしいと言う。集まった女子学生から「気にするな~!」と声援が飛んだ。
男子学生は後輩として、パク大統領に真摯にアドバイスした。「心から反省して、責任があれば下野して罰を受けて下さい。歴史を逆行することはできません」。
ここが「大学路」と呼ばれるのは昔、ソウル大学のキャンパスがあったからだ。頻発する反政府デモに手を焼いたパク・クネ大統領の父、朴正煕大統領の時代、ほとんどの学部が山の上に移転させられた。今残っているのは医学部と付属病院だ。かつて「大学路」はデモのメッカとして知られていた。ここから行進を始めたデモ隊は大通りに出て、大統領府(青瓦台)方面に向かう。途中の大きな交差点にたどり着く前に、機動隊に阻まれるのがお決まりのコースだった。先頭に立つ学生が鉄パイプを持って対峙すると、機動隊は催涙弾を発射した。
そのような光景はすでに昔のものになっていた。同時多発デモ隊と車道の間には蛍光色のカッパを着た交通整理のおまわりさんが数人配置されていただけだ。新聞報道によれば、12日の100万人キャンドル集会でも鉄パイプは一つも確認されなかったという。暴力的ではないが、集まろうと思えば100万人以上が平和裏に「退陣」を叫ぶ。このほうが権力にとっては怖いことかもしれない。
国民の政治リテラシーは高い。高校生の一人スタンディング。「韓国の権力は国民にあるのか、(崔)スンシルにあるのか。大統領、これが国なんですか」
2016年11月26日
通販生活の勇気
時勢に流されない勇気。それを見殺しにしない勇気。いや、せめて、それを知ることから。LITERAXより引用。
〈戦争、まっぴら御免。原発、まっぴら御免。言論圧力、まっぴら御免。沖縄差別、まっぴら御免。〉
〈こんな「まっぴら」を左翼だとおっしゃるのなら、左翼でけっこうです。〉
こんな文字が踊ったのは、11月15日発売の通販販売カタログ雑誌「通販生活」(カタログハウス)2016年冬号だ。これは読者に向けた強烈なメッセージだった。
これには少し説明が必要だろう。
その前号(2016年夏号)では同誌は直前に控えた参院選の特集を組み、安倍首相の写真と、安保法制に関する発言を掲載した上で、こう呼びかけている。
〈自民党支持の読者の皆さん、今回ばかりは野党に一票、考えていただけませんか。〉
しかし、このメッセージに対し172人の読者から批判や質問が相次いだという。その内容は、かなり強烈なものもあった。
〈今回届いた貴殿誌をみて驚きました。共産党や社民党の機関紙あるいは反日でしょうか。〉
〈通販生活は良い商品を売るための雑誌であって、特定の思想をスリ込むための雑誌ではないはずですが。〉
〈今回ばかりは貴社から何も購入したくありません。不愉快です。〉
〈今後、通販生活の送付、お断りします。〉
つまり、通販雑誌は政治的主張をするな、もしするなら両論併記せよ、お前は左翼雑誌か!? という読者からの批判だった。
同誌ではこれら読者の批判に答え、翌号となる冬号で一部の批判意見を掲載した上で、その答えをこう記している。
〈たとえば福島第一原発のメルトダウンがいい例ですが、日々の暮らしは政治に直接、影響を受けます。したがって、「お金儲けだけ考えて、政治の話には口をつぐむ企業」にはなりたくないと小社は考えています〉
また、両論併記しなかった理由についても〈憲法学者の約9割が違憲としたほどの「安倍内閣の集団的自衛権の行使容認に関する決め方」は両論併記以前の問題と考えた次第です〉と明確に答えた。
そして「通販生活」の考えとして、冒頭の“まっぴら御免”“左翼でけっこう”と啖呵をきったうえ、こう結んだのだ。
〈今後の購買を中止された方には、心からおわびいたします。永年のお買い物、本当にありがとうございました〉
編集方針に不満なら仕方がないという読者への決別宣言ともとれる衝撃の言葉だが、第二次安倍政権発足以来、萎縮しきっているメディア界で、ここまで毅然とした態度をとった雑誌はおそらくないだろう。
だが「通販生活」がこうした姿勢を取るのは今回が初めてではない。「通販生活」は通常のカタログ雑誌とは少し趣が違う。単に商品を売るのではなく、様々なルポやインタビューなど企画が掲載される“読み物ページ”が半分以上を占める。そしてその歴史を振り返ると、数々の政治的主張を繰り広げてきた“反骨”の雑誌なのだ。
たとえば、問題になった夏号の表紙は「私たちは怒っている。」という田原総一朗らジャーナリストたちの会見写真だった。これは高市早苗総務相の“電波停止発言”を受けての抗議会見だが、表紙には写真と共に会見で語られたメッセージも掲載されている。
また憲法に関しても以前から一貫して平和、護憲の立場を表明、それを具体的に誌面化するだけでなく、“付録”という形で読者への“メッセージ”としてきた。たとえば2000年春号では日本国憲法(全文)をとじ込み付録として掲載、また2005年秋号岩波ではブックレット『憲法を変えて戦争へ行こう という世の中にしないための18人の発言』を付録として配布するなどの試みを行ってきた。特に『憲法を変えて戦争へ行こう』付録に際しては、今回と同様「両論併記ではない一方的な押し付けは不愉快」といった読者からの批判も巻き起こったが、翌06年春号では創業者であり同社社長(当時)の斎藤駿氏自らが「通販生活」の編集方針、そしてジャーナリズムに対する信念を読者に対してこう表明したほどだ。
〈国論を二分するような重要なテーマについては、おのれの立場を鮮明にするのが媒体の使命で、読者はそれぞれの媒体を読み比べて読者自身の主張をつくっていく際の参考にする……これが媒体(ジャーリズム)と読者のあるべき関係ではないでしょうか。〉
〈私たちはカタログ雑誌がジャーナリズムとして機能してもいいのではないかと考えています。政治的なテーマは日々の暮しに影響を与えるものですから、避けずにとりあげるべきだと考えています。〉
〈「九条を変えないほうがいい」という主張は、まず通販生活発行人である私の信念です。〉
まさにジャーナリズムとしての“正論”だ。「政治は日々の暮らしに影響する」。同社の姿勢は、何度も表紙に記される“反原発”のメッセージにも込められている。
「一日も早く原発国民投票を」(2011年冬号)
「放射能汚染に苦しむ福島の母子なおざりで 原発再稼働に熱心なこの国のおかしさ。」(2012年夏号)
「どう考えても原発ゼロしかないよ。」(2013年秋冬号)
「原発が一基も動いていない二〇一五年のお正月」(2015年春号)
また2013年春号ではドイツの映画『みえない雲』のDVDを付録としてつけたことも。
その姿勢は誌面だけでなく「通販生活」のテレビCMにも表れている。原発国民投票を呼びかけた2011年冬号の30秒CMはこんなものだった。
黒い画面に流れる白い字幕メッセージ。それを俳優・大滝秀治氏が重厚な声で読み上げていく。
「原発、いつ、やめるのか、それとも いつ、再開するのか」。
そして冒頭特集が「原発国民投票」だと伝えるものだった。しかしこのCMはテレビ朝日から放映を拒否されてしまう。そのためカタログハウスは自社のホームページでこれを公開し、逆に大きな話題ともなった。また、2015年秋冬号、「戦争を知らない子どもたち」のテレビCMでも“反戦姿勢”を貫き話題にもなっている。
そのほか同誌では、沖縄、基地問題や環境問題など毎号のように“政治的話題”に積極的に取り組んでいる。まさに“反骨”の雑誌「通販生活」なのだが、その源流はなにか。現在はカタログハウス相談役である斎藤氏の著書『なぜ通販で買うのですか』(集英社新書)には、斎藤氏の商品、そしてジャーナリズムへの思いが描かれている。
そもそも斎藤氏が政治的問題を直視したのも、“商品”との関係からだ。それが創刊から4年目の1986年、当時世界最大の原発事故チェルノブイリ事故が起こったことだった。斎藤氏はこの事故に大きなショックを受けた。それは自身が電化製品を販売し、今後も売り続けなければならない人間だったからだ。
〈初めて私たちの目の前に現れたチェルノブイリの小さな被ばく者たちは、現代の私たちが享受している電気万能生活の行きつく果ての姿をその肉体で証明してくれていた。(略)ショックを受けた。わるいのは原発ではなくて、電気製品を売るまくることによって原発をつくらせてしまった私だった。批判されるべきは私であり、したがってチェルノブイリの子どもたちに責任をとらなくてはいけないのだった〉
その後斎藤氏は「チェルノブイリの母子支援金」を作り、読者にカンパを呼びかけ、集まった3692万円で医療器具などを送り、その使途明細を誌面で公表した。そして“反原発の騎手”広瀬隆氏を誌面に登場させ、原発批判を展開していった。
たとえば沖縄の雇用問題に対しては「沖縄ビーグ敷き」を販売することで、中国に押されていたビーグ(い草)農家を蘇らせ、憲法9条に関しては戦争放棄を憲法で宣言している「コスタリカ」のコーヒー豆を販売することで「憲法9条を守りたい人は、コスタリカさんの豆でコーヒーを飲まないといけない」とブチあげる。それは〈商品に託して小売の主張を伝える〉ためだ。
そして構築されたのが“商品を媒介にして小売の主張を展開する” “商品から社会を変える”という斎藤氏の“商売哲学”と“ジャーナリズム”の関係だった。
〈カタログという「小売店」がジャーナリズム化していけば、消費者への問題提起はとても大きい。商品を是々非々で批評・批判していくのが「商品ジャーナリズム」(たとえば『暮しの手帖』)なら、おのれが是とした商品の是とした理由を解説しながら販売していく方法を「小売ジャーナリズム」とよんでもかまわないのではないか。「販売する」は「報道する」に重なるのではないか。〉
〈私が小売ジャーナリズムに憧れるのは、それが小売の自己表現だからだ。それぞれの小売がそれぞれの自己表現(人間表現と言ってもいい)で競い合う。それぞれの自己表現が消費者における商品選択の標識になってく。そうなるといいなあ、と思う。〉
「小売ジャーナリズム」。それが斎藤氏が導き出した「通販生活」の基礎理念だった。
〈小売が憲法9条を考えて、なにがわるい〉
こうした斎藤氏の考えや姿勢が、「通販生活」という雑誌の方針を決定付けている。政治を、社会を考え、平和や差別なき社会の実現こそが“暮し”をそして“消費者”を守ることになるのだ、と。
Posted by biwap at
06:47
2016年11月24日
消された日の丸
1936年、ベルリン・オリンピック。2時間29分19秒2のマラソン五輪新記録で優勝した「日本人」選手。表彰台に立つ彼の表情はまるで敗残兵のようにうなだれていた。ベルリンから知人に送ったハガキには、たった一言、「悲しい」と書かれていた。
表彰台の上で「日の丸」が上げられるのを直視できず、「君が代」を聞きながらうつむかざるを得なかった。3位で銅メダルを首にかけた南昇竜(ナム・スンリョン)はこう語る。「孫基禎(ソン・キジョン)が1位になったことより、胸の日章旗を隠せる苗木を持っているのがうらやましかった」。表彰台で「君が代」を聞きながら孫基禎は「二度と日本のために走らない」と決心し、引退した。
孫選手が優勝した翌日、「東亜日報」は「朝鮮マラソン、孫・南両選手の偉績」と題する社説を掲げた。さらに、表彰台で月桂冠を戴く孫選手の写真を修正し、胸の日の丸を抹消して掲載した。2日後、「東亜日報」は無期限の発行停止処分を受ける。
孫基禎はベルリンで外国人からサインを求められた時は、すべてハングル文字で署名。傍らにKOREAと記し、「どこからきたのですか?」という質問にたいしては、「KOREAからです」と答えている。ベルリン市内を走る練習の時も、日の丸のついていないウェアを着用した。
1988年ソウルオリンピック開会式。誇らしげに聖火を持ってスタジアムに登場した人物。金メダルを獲得した時よりも、この時の方が嬉しかったという。孫基禎。2002年11月15日、ソウルの病院で90歳の生涯を閉じた。
2016年11月22日
紅葉の徳源院
紅葉シーズン。どこへ行っても人の山だが、ここはしっとりと落ち着いた気分になれる。米原市にある清瀧寺徳源院。中世、北近江を支配した京極家の菩提寺。
春は京極道誉が愛したと伝えられるしだれ桜(道誉桜)、秋は庭園のモミジが美しく紅葉。あまり有名になってほしくない隠れスポットだが、中国人がここにも登場。微笑ましい。
近江は本当に魅力的な所だ。歴史の深みを静かに漂わせている。人間もそうありたいものだ。
http://biwap.raindrop.jp/details1052.html
2016年11月20日
甘くない五輪
「IOCは、いかなる国別の世界ランキング表も作成してはならない」(オリンピック憲章第57条)。オリンピックの栄誉は、国の栄誉ではなくアスリートの栄誉。世界平和構築の場であり、決して国威発揚の場ではない。国別メダル獲得数の否定は、暴走するナショナリズムへの警鐘。しかし、現実はまさにその真逆に動いている。
国威発揚の片棒を担ぎ、メダル獲得競争にうつつを抜かすメディア。常識はすでに良識ではなくなってしまった。せめて、大きな流れに冷静な思考を対置するしかない。この大河ドラマは、果たして「常識」か、はたまた「良識」か。以下、LITERAXより引用。
<2019 年のNHK大河ドラマの脚本を宮藤官九郎が担当することが発表された。しかも、テーマは「東京とオリンピックの物語」。日本選手がたった2人で初めて参加した1912年のストックホルム大会から、1964年の東京オリンピック開催まで、52年にわたってオリンピックに関わった日本人を描くのだという。
大河が近現代を舞台にするのは33年ぶりらしいが、それよりもびっくりしたのは、なぜクドカンがこんなテーマのドラマをやる気になったのかということだ。クドカンというのは典型的な「小ネタ」の人で、「大きな物語」なんて興味がないと思っていた。それが、大きな物語の代表選手のような大河ドラマで、これまた、大きな物語でマッチョなオリンピックを描く。舞台もこれまでクドカンが好んで描いてきた木更津や三陸のような「周縁」ではなく、「中心」である東京だ。大丈夫なのか、クドカン。
さらに気になるのは、安倍サマのNHKがこのところ、2020年東京五輪を「国家の一大イベント」と位置付けて、並々ならぬ意欲を見せていることだ。リオ五輪が閉幕した直後の9月21日、同局の『おはよう日本』で、五輪開催のメリットとして、いの一番に「国威発揚」をあげる時代錯誤丸出しの解説をしていたが、この空気はいま、NHK全体を覆っている。
東京五輪の前年に放送されるクドカン大河も、このNHKのベタな「オリンピック=国威発揚」キャンペーンのひとつに組み込まれてしまうのではないか。そんな懸念がつい頭をもたげてしまうのだ。
いや、下手をしたら、クドカン大河は、ナチスドイツでレニ・リーフェンシュタールが監督したベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』のような役割まで演じてしまうかもしれない。
というのも、1912年のストックホルム大会から1964年東京五輪までを描くということは、日本が帝国主義・侵略戦争に突入していった時代、そしてオリンピックが、国家主義的イベントへと変質していった時代を避けては通れないからだ。
たとえば、1912年は明治最後の年であり、1925年には治安維持法が制定され、1931年には柳条湖事件、満州事変が起きた。1936年にはナチスドイツによるベルリンオリンピックが開催されている。そして1941年、太平洋戦争に突入していくのだが、その前年の1940年は、幻の東京五輪が開催される予定だった年だ。この1940年の東京五輪は、皇紀2600年を記念し、ベルリンオリンピックと同様、まさに国家主義イベントとして招致されたのだが、日本が日中戦争を引き起こしたことで世界中から非難を浴び、開催を返上している。
こうした出来事の描き方によっては、オリンピックを前にそれこそ安倍首相が大喜びしそうなナショナリズムを鼓舞するドラマになりかねないだろう。
しかし、一方では、クドカンなら絶対にそうはならない、という見方もある。宮藤官九郎は、オリンピックを描いたからといって、「国家の威信をかけてオリンピックに向き合った男たち」というような浅薄でわかりやすい物語をつくる脚本家ではないからだ。
たとえば、あの『あまちゃん』だって、アイドルを描いていたけれど、いわゆるアイドルドラマでなかった。主人公・天野アキは、日本の芸能界の中心たる東京ではアイドルとして成功しない形で物語は終わる。むしろ、昨今のアイドルブームに対する批評であり、アイドルを解体・脱構築して、既存のアイドルを乗り越えたオルタナティブなあり方を示していた。
そして、『あまちゃん』は東日本大震災についても、定番の「絆」のような物語とはまったく別の、新しい描き方で、視聴者に勇気を与えた。
そんなクドカンがオリンピックを題材にするのだから、むしろ、「オリンピック=ナショナリズム」という構造を解体してくれるのではないか、という期待もある。
実際、今回の制作発表でNHKは「オリンピックをめぐるスポーツマンや関係者の奮闘ぶりなどが、東京の歴史とあわせて描かれる予定」とドラマを紹介していたが、当のクドカンは「戦争と政治と景気に振り回された人々の群像劇」と語っていた。
クドカンは明らかに、戦争の時代を描くということに意識的だ。しかも、クドカンは今年7月に発売されたみうらじゅんとの対談本のなかでも、戦争をどうやって伝えるべきかを考えていることを明かし、こう語っていた。
「憲法を変えるとか、戦争できる国になるとかならないとか、ちょっと勘弁してほしいなって思います」
「僕が“戦争”っていう言葉を聞いたときに一番最初に思い浮かべるのって、やっぱり子供のことなんですよね。万が一、戦争が将来起こったときに、僕たちはもう老人になってるから戦場に行くことはないと思いますけど、子供たちの世代が戦わなきゃいけなくなる可能性があるわけじゃないですか」
こうしたことを考え合わせると、クドカンはすでに、国威発揚と逆ベクトルのドラマを構想している可能性もある。1910年代は、一方で民衆の時代の幕開けでもあった。オリンピックにしても、ベルリン五輪に「日本代表」として出場した当時日本の植民地支配下にあった朝鮮の選手たちやオリンピック開催に反対していた人々など、大河的な英雄史観ではとらえきれないエピソードはいくつもある。
クドカンはこうした史実を得意の小ネタとして散りばめ、いままでにないやり方で戦争の恐怖や国家の残酷さ、そして国家に忠誠を誓うことのバカバカしさを描こうとしているのかもしれない。
ただ、安倍政権や極右勢力が、帝国主義時代・侵略戦争を正当化しようという歴史修正主義の動きを強めているいま、安倍さまのNHKで、「オリンピックのメリットは国威発揚」と言ってはばからないNHKで、どこまでそれができるのか、という問題はある。
しかも、この時代を描くというのは、一歩間違えれば、右派勢力やネトウヨの炎上を招くことを意味する。
それでも、クドカンにはチャレンジしてほしい。安倍やNHKにはそうとは気づかせないやり方で、左翼にはできないやり方で、戦争の恐怖を訴え、オリンピックナショナリズムを乗り越える方法を提示してほしい。そう願わずにはいられない。>
Posted by biwap at
06:34
2016年11月18日
百人一首の暗号
文暦二年(1235年)5月27日、友人の宇都宮頼綱に依頼された藤原定家は、自ら選んだ和歌百首を色紙に書いて嵯峨の小倉山荘の障子に貼った。「小倉百人一首」。
藤原定家の才能を高く評価した後鳥羽上皇。しかし、二人は些細な事で仲違いをしてしまう。その後、後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒の「承久の乱」に失敗。隠岐へ流罪となる。藤原定家は保身に走った。
隠岐に幽閉された後鳥羽の「生怨霊」。ついにある日、定家のもとへ後鳥羽の死が知らされる。定家は何かにとりつかれたように山荘にこもる。何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった。
後鳥羽上皇の歌「人も惜し 人も恨めし 味気なく 世を思ふゆゑに もの思ふには」
藤原定家の歌「来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びつく。その中の合わせ言葉や歌詞を絵に置き換えていくと、水無瀬の里が浮かび上がるという。京都の西南、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地。後鳥羽の隠岐配流とともに、水無瀬離宮も荒廃していった。歌織物と水無瀬絵図のジグソーパズル。「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「定家コード」。
2016年11月16日
ガラスの天井を打ち破る日
逆境の中で、人は試される。逆境の中で、人の真価は現れる。
ヒラリー・クリントンの敗北演説。アメリカという国の体質は、どうしても馴染めない。確かに、ウォール街経済エリートを代表する政治家でもある。しかし、この演説にこの国の「知性」と「良心」を見た。いかなる国であれ、民族であれ、社会集団であれ、そこに生きる「良心」の存在を見失ってはいけない。以下、抜粋引用。
<わたしたちが奉じる立憲民主主義は、わたしたちに四年おきの選挙ごとではなく、常に政治へ参加することを定めています。そしてだからこそ、わたしたちが尊重する主張や価値観を推し進めるべく、なすべきことを続けていきましょう。一部の最富裕層のためだけでない、あらゆる人々のための経済活動を。わたしたちの国、わたしたちの星を守り維持し続けることを。そして夢を叶えようと努力し続ける人のために障壁を打ち破ることを、続けてゆくのです。
わたしたちは1年半の時を費やして、この国のあらゆる場所から、ひとつの主張とともに数百万の人々を集めてきました。それは、「アメリカン・ドリーム」とはすべての人(あらゆる人種、あらゆる宗教、男、女、移民、LGBT、障害者)に恩寵をもたらすことができる、という信念なのだと。だからこそ、わたしたちアメリカ市民は、わたしたちが目指す「公平なるアメリカ」を、よりよく、より力強く、推し進めていく責任があるのです。そしてわたしは皆さんがその責任を全うし続けることを信じているし、そうした皆さんと共にここに立っていることを誇りに思います。
そして特にすべての若者たちに、ぜひ伝えたいことがあります。わたしは生涯にわたり、自らが信じるもののために戦ってきました。時に成功を収め、時に挫折を味わい、手酷い痛手に打ちのめされたこともあります。多くの皆さんが、この先ご自身の人生キャリアを積んでいくでしょうし、その先には成功も、また挫折もあるでしょう。
今回の敗戦は大きな痛手です。けれどどうか、どうか「正しさのために戦うのは、価値があるんだ」ということを、信じ続けてください。そう、それは常に価値があることなのです。そして今も、この先もずっと、わたしたちはあなたがたが人生を通じて戦い続けることを望みます。
すべての女性、とりわけ今回の選挙キャンペーンとわたしに信頼を置いてくださった若い女性の方々へ、ぜひ知っておいていただきたいのは、皆さんの声を代弁できたことは、これ以上ないほどのわたしの誇りです。
わたしたちは、いまだあの最も高い「ガラスの天井」を打ち破るに至っていません。それは認めざるを得ない。しかしいつの日か、誰かがきっと、叶うならばわたしたちが考えるよりも早く、成し遂げてくれるでしょう。
それからこれはすべての少女たちへ。ぜひ聞いてください。あなたたちには価値があり、力強いことを決して疑わないでください。あなたたちはこの世界のどんなチャンスにも、どんな機会にも、挑むことができるのですから。
皆さんご承知のとおり、わたしたちが手を取り合い共に歩めば、より強くなれると信じています。そしてそのために戦ったことを決して後悔しないでください。
友よ、どうかお互いを信頼しあってください。どうか飽くことなく、どうか失意に沈むことなく。いずれ来たる新たな時のために。そしていずれ来たるなすべき仕事のために。>
2016年11月14日
ソリ姫、信州へ
やっぱり、信州を走ってみたい。朝、草津を出発し、昼には信州。ソリ姫は意外とやんちゃで、高速もスイスイ加速していく。小さく、軽く、賢い。これが、これからのスタイルだ。今回の米大統領選挙で、つくづくそう思った。原発もそうだが、威圧的な巨大さは、もう“うんざり”である。
今回は、ビーナスラインを登って白樺湖へ。季節が変わると、風景は別の表情を見せてくれる。
この秋、久しぶりの快晴。向こうに富士山が垣間見える。
翌朝の散歩。空気がツンと張り詰めて、すがすがしい。
八島湿原。ここも、夏に来た時とは違う風情がある。でも、鳥の声が聞こえなかったのは残念だ。
帰路、すっかりお気に入りになった「くだものの里」松川町へ。
夏は桃の食べ放題に挑戦したが、今は林檎がたわわに実っている。アダムとイヴがエデンの園で、ヘビにそそのかされて食べた禁断の実。林檎は、どことなく神秘的である。
八ヶ岳連峰を背景に果樹園が広がる。
めぐりあい、そして次第に馴染んでいく。人も物も風景も。
そして、”大切なもの”が、一つ一つ心の中に積み重ねられていく。
2016年11月11日
道草百人一首一覧
1「秋の田のかりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」
天智天皇
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2「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干すてふ天の香具山」
持統天皇
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3「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む」
柿本人麻呂
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4「田子の浦にうち出でて見れば白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」
山辺赤人
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5「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の 声聞く時ぞ秋は悲しき」
猿丸大夫
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6「鵲の渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける」
中納言家持
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7「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも」
安倍仲麿
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8「わが庵は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり」
喜撰法師
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9「花の色は移りにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに」
小野小町
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10「これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬもあふ坂の関」
蝉丸
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11「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船」
参議篁
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12「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」
僧正遍昭
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13「筑波嶺の峰より落つるみなの川 恋ぞ積もりて淵となりぬる」
陽成院
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14「陸奥のしのぶもぢずりたれゆえに 乱れそめにしわれならなくに」
河原左大臣
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15「君がため春の野に出でて若菜摘む わが衣手に雪は降りつつ」
光孝天皇
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16「立ち別れいなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば今帰り来む」
中納言行平
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17「ちはやぶる神代も聞かず竜田川 からくれなゐに水くくるとは」
在原業平朝臣
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18「住の江の岸に寄る波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ」
藤原敏行朝臣
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19「難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや」
伊勢
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20「わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ」
元良親王
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21「今来むといひしばかりに長月の 有明の月を待ち出でつるかな」
素性法師
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22 「吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ」
文屋康秀
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23「月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど」
大江千里
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24「このたびは幣も取りあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」
菅家
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25「名にし負はば逢う坂山のさねかずら 人に知られで来るよしもがな」
三条右大臣
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26「小倉山峰の紅葉葉心あらば いまひとたびのみゆき待たなむ」
貞信公
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27「みかの原わきて流るるいづみ川 いつ見きとてか恋しかるらむ」
中納言兼輔
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28「山里は冬ぞ寂しさまさりける 人目も草もかれぬと思へば」
源宗于朝臣
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29「心あてに折らばや折らむ初霜の 置きまどはせる白菊の花」
凡河内躬恒
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30「有明のつれなく見えし別れより 暁ばかり憂きものはなし」
壬生忠岑
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31「朝ぼらけ有明の月と見るまでに 吉野の里に降れる白雪」
坂上是則
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32「山川に風のかけたるしがらみは 流れもあへぬ紅葉なりけり」
春道列樹
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33「ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ」
紀友則
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34「誰をかも知る人にせむ高砂の 松も昔の友ならなくに」
藤原興風
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35「人はいさ心も知らずふるさとは 花ぞ昔の香に匂ひける」
紀貫之
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36「夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを 雲のいずこに月宿るらむ」
清原深養父
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37「白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける」
文屋朝康
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38「忘らるる身をば思はず誓ひてし 人の命の惜しくもあるかな」
右近
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39「浅茅生の小野の篠原忍ぶれど あまりてなどか人の恋しき」
参議等
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40「忍ぶれど色に出でにけりわが恋は ものや思ふと人の問ふまで」
平兼盛
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41「恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか」
壬生忠見
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42「契りきなかたみに袖をしぼりつつ 末の松山波越さじとは」
清原元輔
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43「逢ひ見てののちの心にくらぶれば 昔はものを思はざりけり」
権中納言敦忠
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44「逢ふことの絶えてしなくはなかなかに 人をも身をも恨みざらまし」
中納言朝忠
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45「あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたずらになりぬべきかな」
謙徳公
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46「由良の門を渡る舟人かぢを絶え ゆくへも知らぬ恋のみちかな」
曾禰好忠
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47「八重むぐら茂れる宿の寂しきに 人こそ見えね秋は来にけり」
恵慶法師
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48「風をいたみ岩打つ波のおのれのみ くだけてものを思ふころかな」
源重之
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49「御垣守衛士のたく火の夜は燃え 昼は消えつつものをこそ思へ」
大中臣能宣朝臣
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50「君がため惜しからざりし命さへ 長くもがなと思ひけるかな」
藤原義孝
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51「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを」
藤原実方朝臣
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52「明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしき朝ぼらけかな」
藤原道信朝臣
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53「嘆きつつひとり寝る夜の明くる間は いかに久しきものとかは知る」
右大将道綱母
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54「忘れじのゆく末まではかたければ 今日を限りの命ともがな」
儀同三司母
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55「滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ」
大納言公任
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56「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな」
和泉式部
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57「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月影」
紫式部
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58「有馬山猪名の篠原風吹けば いでそよ人を忘れやはする」
大弐三位
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59「やすらはで寝なましものをさ夜更けて かたぶくまでの月を見しかな」
赤染衛門
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60「大江山いく野の道の遠ければ まだふみも見ず天の橋立」
小式部内侍
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61「いにしへの奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬるかな」
伊勢大輔
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62「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ」
清少納言
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63「今はただ思ひ絶えなむとばかりを 人づてならでいふよしもがな」
左京大夫道雅
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64「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木」
権中納言定頼
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65「恨みわび干さぬ袖だにあるものを 恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」
相模
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66「もろともにあはれと思え山桜 花よりほかに知る人もなし」
前大僧正行尊
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67「春の夜の夢ばかりなる手枕に かひなく立たむ名こそをしけれ」
周防内侍
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68「心にもあらで憂き夜に長らへば 恋しかるべき夜半の月かな」
三条院
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69「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり」
能因法師
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70「寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづくも同じ秋の夕暮れ」
良暹法師
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71「夕されば門田の稲葉訪れて 蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く」
大納言経信
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72「音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ」
祐子内親王家紀伊
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73「高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみ立たずもあらなむ」
前権中納言匡房
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74「憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを」
源俊頼朝臣
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75「契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり」
藤原基俊
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76「わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波」
法性寺入道前関白太政大臣
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77「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ」
崇徳院
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78「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守」
源兼昌
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79「秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる月の影のさやけさ」
左京大夫顕輔
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80「ながからむ心も知らず黒髪の 乱れてけさはものをこそ思へ」
待賢門院堀河
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81「ほととぎす鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる」
後徳大寺左大臣
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82「思ひわびさても命はあるものを 憂きに堪へぬは涙なりけり」
道因法師
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83「世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
皇太后宮大夫俊成
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84「長らへばまたこのごろやしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき」
藤原清輔朝臣
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85「夜もすがらもの思ふころは明けやらぬ ねやのひまさへつれなかりけり」
俊恵法師
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86「嘆けとて月やはものを思はする かこちがほなるわが涙かな」
西行法師
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87「村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮」
寂蓮法師
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88「難波江の蘆のかりねのひとよゆゑ 身を尽くしてや恋ひわたるべき」
皇嘉門院別当
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89「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする」
式子内親王
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90「見せばやな雄島の海人の袖だにも 濡れにぞ濡れし色は変はらず」
殷富門院大輔
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91「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む」
後京極摂政前太政大臣
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92「わが袖は潮干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわく間もなし」
二条院讃岐
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93「世の中は常にもがもな渚漕ぐ 海人の小舟の綱手かなしも」
鎌倉右大臣
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94「み吉野の山の秋風さよ更けて ふるさと寒く衣打つなり」
参議雅経
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95「おほけなく憂き世の民におほふかな わが立つ杣にすみ染の袖」
前大僧正慈円
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96「花さそふ嵐の庭の雪ならで ふりゆくものはわが身なりけり」
入道前太政大臣
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97「来ぬ人を松帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」
権中納言定家
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98「風そよぐ楢の小川の夕暮は 御禊ぞ夏のしるしなりける」
従二位家隆
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99「人も愛し人も恨めしあじきなく 世を思ふゆゑにもの思ふ身は」
後鳥羽院
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100「百敷や古き軒端のしのぶにも なほ余りある昔なりけり」
順徳院
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