› 近江大好きbiwap › 2016年05月

2016年05月30日

日本で一番美しい本屋さん



 京都御所東の駐車場に車を置き、積んできた自転車で曼殊院へ向かった。時折、雨がぱらついたが道草を食べながらのサイクリングはサイコーだ。徒歩ではできない距離感と車ではできない寄り道走行。
 曼殊院道に沿って叡山電鉄一乗寺駅を少し行ったところにそのお店があった。本屋さんだ。買うつもりもないのに入ってみたくなる。


 恵文社一乗寺店。2010年7月、イギリスの新聞社ガーディアン紙は、「The world’s 10 best bookshops」と題して、世界で一番美しい本屋を発表した。日本からも1店舗が選ばれた。それがこの店だったと後で知った。


 近頃はAmazonで本を買うことも多い。しかし、本屋さんの存在意義を改めて感じさせられた。本の並べ方もユニーク。出版社やジャンルで分けてあるわけでなない。一冊の本を手にする。興味の導線はジャンル違いの隣の本に移っていく。


 購入したのは、塩見鮮一郎「部落史入門」(河出文庫)。突如、部落史の本が置かれていた。一冊一冊スタッフが納得いくものだけを丁寧に紹介したいというコンセプト通り、興味津々、ワクワクする内容。
 「情報伝達の速度が増していくばかりの昨今、本の持つアナログ感、情報伝達のスローさなどを大事にしていきたい、そんな願いを感じ取っていただければ幸いです」「ただ機能的に本を棚に並べるのではなく、思わぬ出会いにぶつかるような提案がしたい」「何気なく棚を見ていて、最高の一冊を見つける事がねらいです」
 偶然、素晴らしいものに出会った感覚。小さく、スローで、アナログで、威圧的でないもの。素敵なものを素敵だと感じられる感性こそ、今の私たちには必要なのだ。
  


Posted by biwap at 06:38旅行記

2016年05月29日

見事な言説


天木直人(アマキ ナオト)氏のブログから。

<オバマの広島演説は見事だった。
 よくもここまで謝罪を避け、核廃絶は皆の責任であることにすり替え て、米国の原爆投下責任を回避したものだ。
 
 安倍首相のオバマ歓迎の言葉は見事だった。  
 よくもここまで、安倍首相は、自分のやってることと言ってる事の違 いを、平気で口に出来たものだ。  

 日本国民のオバマ歓迎は見事だった。  
 よくもここまであの時と同じ事を再現できたものだ。マッカーサー司令官が日本を離れる時に、何十万人もの日本国民が沿 道に並んでありがとうと感謝して別離を惜しんだ、あの時と同じだ。
 
 日本政府の今回のオバマ優遇は見事だった。  
 よくもここまで、その他のG7の首脳との差別化が出来たものだ。

 オバマ広島訪問を伝えるテレビ報道の徹底ぶりは見事だった。  
 よくもここまで、オバマ歓迎の画像を流し、オバマ広島訪問劇場を演出したものだ。  

 と、ここまで書いてきて、私のいう「見事」とは、もちろん皮肉を込 めて、「見事」であると言っているのだ。  
 しかし、これから書く事は、本当の意味で「見事」だ。
 
 きょう5月28日の日経新聞に、前広島市長である秋葉忠利氏の言葉 が掲載されていた。  
 秋葉氏は次のように語っている。  
 今回が最後ではなく、最初になってほしいと。  
 この言葉こそ、今度のオバマの広島訪問を正しく評価する見事な意見だ。  
 今度のオバマの広島訪問実現によって、今後はそれが、もはや当たり 前の行事にするのだ。これからは、米国の大統領が誰になろうとも、日本の首相が誰になろうと も、新しい指導者が日米両国で誕生するたびに、広島訪問を日米間の恒例の行事にするのだ。
 そうすることによってのみ原爆投下の風化が防げる。  
 そうすることによってのみ核廃絶の気運が高められる。  
 オバマの広島訪問は、始まりに過ぎないのである。>

天木直人(あまき なおと)。1947年、山口県下関市生まれ。京都大学法学部中退後、上級職として外務省入省。在マレーシア日本国公使、在オーストラリア日本国公使、在デトロイト日本国総領事などを経て、2001年2月から駐レバノン日本国特命全権大使。2003年8月、イラク戦争に反対し事実上解雇処分を受ける。現在は評論・執筆活動を続ける。
  


Posted by biwap at 06:21

2016年05月28日

ヒロシマというとき


 機能不全に陥った日本のジャーナリズム。そんな中、キラッと「意地」を見せた記事。
<原爆の被害と戦争の加害の両面を見すえた原爆詩人の作品が再評価されている。11年前に亡くなった広島の栗原貞子。英語やフランス語などに続き、韓国で今年、詩集が翻訳出版された。オバマ米大統領の広島訪問とも重なり、国境を超えた和解の祈りが注目されている。
 栗原の代表作の一つにあげられる詩集「ヒロシマというとき」は、1976年の発表から40年が過ぎた今年1月、韓国で翻訳版が出版された。表題作は、原爆に対して、ハワイの真珠湾攻撃や中国での南京事件など日本軍による加害の歴史を挙げ、和解のためには、「わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」と、自らに問いかける。
 訳者で、日本文学を研究する李英和(イヨンファ)・城西国際大助教は、2013年の栗原の生誕100年を祝って発行された記念誌で、この作品に出会った。韓国にとって、日本は植民地支配の加害者。だが、栗原の作品に触れて「被爆しながらも加害の歴史に目を向けた日本人詩人の存在を、韓国に伝えたくなった」という。
 栗原を作詩に向かわせたのは、韓国側の原爆観だった。ある国際会合で韓国代表が「(戦争を終結させた)原爆が私たちを解放してくれた」と語ったと知り、「衝撃を感じないではいられなかった」と82年のエッセー「核時代に生きる」に記している。
 原爆文学に詳しい水島裕雅・広島大名誉教授は「70年代において、いち早く加害の問題に取り組んでいた」と先駆性を指摘する。「原爆に対する強い怒りと同時に、日本や自分も突き放して見る詩人の感性が、加害に目を向かわせたのでしょう」とみる。
 栗原と原民喜、峠三吉ら被爆作家の資料をユネスコの世界記憶遺産に登録する運動も進んでおり、栗原の創作ノートは今月から広島市の原爆資料館で保管されることになった。
 広島市立大広島平和研究所の元所長、浅井基文さん(74)は、「負の歴史に向き合う姿勢と作品は、40年が過ぎたいまも意義がある」と指摘する。
 浅井さんはオバマ氏の広島訪問について、栗原が思い描いた「和解」ではないと感じている。「現実には、中国や北朝鮮を意識した日米同盟強化の儀式。原爆投下の非人道性を反省し、核廃絶に向かわないのなら、訪問を願った被爆者は片思いに終わる。栗原さんだったら怒りで憤死するでしょう」(朝日新聞5月25日夕刊)>

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

<栗原貞子> 1913年、広島市生まれ。45年に被爆。人々が避難する地下室で、新たな命が誕生するさまを描いた原爆詩「生ましめんかな」を翌年に公表。のちに教科書に収録され、女優の吉永小百合さんが朗読を続ける。2005年に死去。
  


Posted by biwap at 06:03辛口政治批評

2016年05月25日

トランプがやって来る


琉球新聞社説(5月24日)
<その冷淡ぶりに寒々しい思いを禁じ得ない。うるま市の女性会社員遺体遺棄事件を受け、翁長雄志知事は安倍晋三首相との会談でオバマ大統領と直接話す機会を与えてほしいと要請した。だが首相はこれに答えず、会談後に菅義偉官房長官は「外交は中央政府間で協議すべきだ」と要望を一蹴した。
 沖縄に犠牲を強いるのは誰か。米国との意見交換を仲介し、沖縄の民意が実現するよう動くべきはずなのに、仲介どころか積極的に阻んでいる日本政府ではないか。
 会談では、首相に対する発言としては極めて異例の、厳しい文言が並んだ。翁長知事はこう述べた。
 「安倍内閣は『できることは全てやる』と枕ことばのように言うが、『できないことは全てやらない』という意味にしか聞こえない」
 「基地問題に関して『県民に寄り添う』とも言うが、そばにいたとは一度も感じられない」>

毎日新聞(5月24日)
<自民党の小島健一・神奈川県議(53)が東京都内で開かれた集会で、沖縄の米軍基地反対運動の参加者について「基地外(きちがい)」と発言したことが分かった。小島氏は毎日新聞の取材に「発言はあくまで『基地の外にいる』という意味」と説明した。
 東京都千代田区の靖国会館で今月8日、沖縄の本土復帰記念集会に小島県議は出席し、あいさつで「沖縄の基地の周りには、基地反対だとかオスプレイ反対だとか毎日のように騒いでいる人たちがいる。基地の外にいる方ということで『基地外』の方と私は呼んでいる」と述べた。
 また「沖縄には琉球新報と沖縄タイムスという明らかにおかしな新聞がある。つぶれろと言って非難を浴びた有名な作家の方もいたが、本当につぶれた方がいいと思っている」とも語った。小島県議は新聞批判について「会場にいる方々の気持ちの代弁でもある」と話し、撤回や修正はしないという。>

LITERAX(5月25日)
<「問題は米軍が米兵や軍属にどのような教育をしているかだ。これが大問題。僕が突っ込んで質問したら、ビーチバレーやバーベキューでストレス発散をしています、だって。だから僕はふざけんな!!と怒ったんだ。米兵等の猛者に対して、バーベキューやビーチバレーでストレス発散などできるのか。建前ばかりの綺麗ごと。そこで風俗の活用でも検討したらどうだ、と言ってやった。まあこれは言い過ぎたとして発言撤回したけど、やっぱり撤回しない方がよかったかも。きれいごとばかり言わず本気で解決策を考えろ!」
 日本の風俗をもっと活用してほしい。周知のように、これは今から3年前、橋下氏が米軍普天間基地を視察し、米軍司令官に向かって言った言葉だ。橋下氏から“提案”を受けた普天間基地の米軍司令官は凍りついたような表情になり、「米軍では禁止している。これ以上、この話はやめよう」と打ち切ったという。
 そして、橋下氏は「戦争当時、従軍慰安婦が必要だったのは誰でもわかる」と発言して波紋を広げると、大阪市役所で聞かれもしないのに自ら記者団にこの話を持ち出したのだ。
 本人は「アメリカに対してずばっと本音で切り込んだ俺ってすごいだろ」と自慢したかったようだが、女性の人権や売春を禁止している法律、国際関係上のマナー、相手の文化的背景などをすべて無視したこんな発言が問題にならないわけがない。当然、国民やマスコミ、国際社会からも厳しい批判を浴びた。
 とくに、アメリカは慰安婦発言よりもむしろ、この風俗活用発言に強い不快感を示した。姉妹都市サンフランシスコ市への訪問を拒否されるなど国際関係に支障をきたし、橋下氏は最終的に「米軍と米国民へ向けて」謝罪と撤回を強いられた。大阪府知事~市長の約8年間に橋下氏の暴言・問題発言は多々あったが、これほど危機的状況に陥り、全面謝罪をしたことはない。
 ところが、橋下氏は今回、リベンジとばかりにまったく同じ話を持ち出し「撤回しない方がよかった」などとうそぶいたのだ。あれだけの騒ぎを起こしていながらなんの反省もしていなかったことにはびっくりだが、そもそも、橋下氏には根っから、女性差別の感情が身に染み付いているのだろう。
 橋下氏には、国民の安全や幸福を守るために、という目的なんてつゆほどもない。建前を叩き壊し、きれいごとを打ち破り、大向こうをうならせたい。そんな三流のお笑い芸人のような動機でしか政治を考えていないのだ。ただ、残念ながら、大阪では、この三流お笑い芸人の手法にマスコミも有権者もすっかり騙され、熱狂してきた。
 おそらく、橋下氏が都知事選に出馬すれば、今度は東京で同じことが起きるのだろう。そして、性犯罪者の欲望処理は風俗の女性が引き受けろ、というような人権感覚と国際感覚の持ち主が、2020年五輪開催地の長になる。まさに悪夢としか思えないのだが…>
  


Posted by biwap at 20:24辛口政治批評

2016年05月24日

差別と闘う韓国ドラマ


 朝鮮王朝時代。日本の部落差別に似た差別があった。白丁(ペクチョン)。屠殺業・柳器製造・肉類販売などで生活を営んだ人々。近代に入り身分制は廃止されたが、根強い差別意識や慣習はその後も続く。
 白丁差別を真正面から描いたドラマが作られている。


 「白丁の娘」(SBS・2000年)。時代は19世紀末から20世紀初頭。主人公の少女オンニョンの家族は、白丁だからと差別を受けながら暮らしていた。オンニョンはそんな身の上が悲しく、幼い弟に屠殺を教える父が憎くてたまらなかった。だが、転機が訪れる。ある日、コレラに罹って重体だった母親を、通りがかりの西洋人宣教師が見つけて病院に入院させてくれた。それがきっかけで、オンニョンは病院と同じ敷地内にある梨花(イファ)学堂に入ることになった。
 梨花学堂(現在の梨花女子大)は、1886年に米国人宣教師が建てた朝鮮で初めての女子教育機関。オンニョンはすっかりそこが気に入る。学校はオンニョンの母親に、費用は一切心配ないから、子どもを預けなさいと説得した。こうしてオンニョンは梨花学堂で学び始める。コレラが治った母親。ある日、町の運動会で「白丁の女に跨って走る」競技に狩り出され見世物になる。辱めを受けた母親は、それを苦に自殺する。
 ユノはオンニョンの近所に住んでいた。白丁に同情的で開明的な考えの持ち主。やがてオンニョンとユノは相思相愛となる。それを知ったユノの父親は怒り狂い、オンニョンの父親を半殺しにする。
 そんな苦労をしながらも、オンニョンは卒業式を迎え、総代として答辞を述べることになった。その場で彼女は堂々と語り始める。「私は白丁の娘です」。幼い頃は父親のことを恥ずかしく思い、憎悪し、恨んできた。けれど、それは私の間違った考えであった。蔑視と差別の中で自分を愛し大切に育ててくれた父親への感謝の気持ちを述べた。父親にオンニョンが角帽を被せ、祝福を受けながらドラマは終わる。
 このドラマは、実在した朴氏一家をモデルにしている。朴氏とは、もう一つのドラマ「済衆院(チェジュンウォン)」の主人公ファン・ジョンのモデルとなったパク・ソヤン一家のこと。ドラマ「済衆院」には登場しないが、パク・ソヤンには妹のパク・ヤンムがいた。このパク・ヤンムこそオンニョンのモデルとなった女性。つまり、「白丁の娘」は朴家の娘を、「済衆院」(SBS・2010年)は同じ朴家の息子を扱ったドラマなのだ。


 この二人の父親であるパク・ソンチュン。1862年にソウルで生まれる。ソンチュンは、同じ白丁の娘と結婚し、3人の子どもができる。近所の教会で誰にでも文字を教えてくれることを知り、息子を通わせた。また、自らも息子を通して文字を学び、キリスト教の教えに接するようになる。
 1893年、ソンチュンはチフスに罹り生死の境をさまよった。息子ソヤンは父親を助けたくて、教会のムア牧師に相談した。ソウルには朝鮮で最初の西洋医学機関「済衆院」(現在の延世大学校医療院)があった。牧師は済衆院の院長エビソン博士を連れてきて治療してくれた。これをきっかけに、ソンチュンはエビソン博士に頼み息子ソヤンを済衆院で働かせた。ソヤンは病院の下働きを経て、医学校に入学することが許される。そしてついに第1回卒業生となる。
 ドラマ「済衆院」は、朝鮮時代初の近代西洋式病院「済衆院」を舞台に、差別を乗り越え、近代医学の医師を目指し、激動の時代を生き抜いた人々を描いていく。
  


Posted by biwap at 06:18芸術と人間KOREAへの関心

2016年05月22日

韓国トキメキ市場


 そうでなくても市場を歩くとワクワクするのだが、このテンションの入り方は格別。ソウルにあるマジャンシジャン(馬場市場)。地下鉄5号線マジャン駅を出て、西へ進む。



 馬場(マジャン)畜産物市場を通り抜け、北門へ出る。


左手に馬場洞食い倒れ通りがある。奥へ入って行くと。


 ヨンムンチッ本店。


 中国語は通じるが、日本語は通じない。


 「焼き肉盛り合わせ」を注文すると、新鮮な韓牛と共につけ合わせもたっぷり。なんと、ご禁制の「生レバー」までお代わり自由。


 横でガシガシとする金属音。店の入り口で肉をさばいているのだ。なんだか楽しそう。
 
 「マジャンシジャン(馬場市場)」とは何か。「ソウルナビ」から引用する。
<馬場畜産物市場(マジャンチュクサンムルシジャン)-ソウル最大規模の畜産物専門市場。
 ソウルの焼肉屋さんの多くがここから仕入れています。地下鉄5号線マジャン(馬場)駅から徒歩10~15分のところにあり。1963年ごろまで運営されていた鍾路区のスンイン洞の屠殺場が自然にこの馬場洞に移ってきて誕生したのがここ"馬場畜産物市場"。1990年代までは実際に屠殺場がこの場所にあったそう。でも市場のリニューアルと共に屠殺場はなくなり、卸売市場とモクチャコルモッ(食い倒れ通り)が残っています。
 建物も新しくなり、一般の人々も行きやすくなったものの、こういった牛や豚のぶつ切り?!が転がっている光景が苦手な人は抵抗を感じるかも。主に卸売りなので、午後2時以降は閉めるお店もありますが、市場内の店舗数は約1600店ほど。>

 上原善広「コリアン部落」(ミリオン出版)を読むと、馬場市場へ入って行ったルポが書かれていた。夢中になってカメラのシャッターを切っていた上原氏のところへ、おばさんやおじさんたちが取り囲んできた。案内してくれた韓国人に「彼らは何て言ってるんですか。いらっしゃいませって言ってるんですか」と尋ねると、「いや、『お前ら何しに来た、とっとと出て行かないとブチ殺すぞ』と言ってるんですよ」と答えたそうだ。
 同じようにカメラのシャッターを切っていた私は、そうだったのかと後で思ったが、いやそんな雰囲気はちっともなかった。なぜか素直に楽しくて仕方がなかった。人が生きている、その「原色の生活感」が心をときめかせる。人の表情がとても素敵だ。だからここは私の「トキメキ市場」。












  


Posted by biwap at 07:28旅行記KOREAへの関心

2016年05月20日

韓国大邱の旅


 韓国旅行。今回、ピーチは帰路のみ。往路は、韓国LCC(格安航空会社)ティーウェイ(tway)航空で大邱へ向かった。関西空港から約1時間半で大邱空港。


 国際空港とはいえ、小さな地方空港。降り立った9割以上は韓国人。おかげで外国人専用入国窓口はガラスキ。日本人観光客など、そんなに来ないのだろうか。


 大邱(テグ)は、ソウル・プサンに次ぐ韓国第三の都市。韓国南部にあり、人口約250万人。広々とした道路に街路樹が美しい。


 街の中は地下鉄と共にモノレールが走っている。大邱に来たのは、十数年来の友人L氏夫妻宅にホームステイするため。


 最初に案内してもらったのが鹿洞書院(ノクトンソウォン)。市内から車で約30分。前から一度、来てみたかったところ。


 もっと山奥の辺鄙なところかと思っていたが、意外と整備されていた。横に韓日友好館が建っている。この場所は、実は日本と深い因縁がある。


 秀吉の朝鮮侵略。加藤清正の配下にいた「沙也可」と呼ばれた武将が、3千人の部下と共に朝鮮側に寝返った。その後、火縄銃の製作技術を伝授し、多くの戦功をあげ、王から金忠善(キム・チュソン)の名が与えられる。晩年は、この友鹿里(ウロンニ)の地に定住し、住民の教育に励んだという。その金忠善の子孫と称する人たちがこの地に住む。「沙也加(サヤカ)」は、紀州の鉄砲衆「雑賀(サイガ)」から転じたとも言われ、和歌山県とも交流がある。


 ロープウェイでアップ山展望台へ上ると大邱市街が一望できる。アップとは「前」のこと。テグは古代タボルと呼ばれ、大きな野原を意味した。川を挟み右側が新市街、左側が旧市街になる。L氏の高校時代、新市街は一面の田園地帯だったそうだ。大邱は朝鮮戦争時の激戦地でもあった。


 寿城池(スソンモッ)と新市街。岐阜県加納町の町長だった水崎林太郎は、1914年に開拓農民として朝鮮へ渡った。花栽培などで成功した後、貯水池を造るために私財を投じ、十年の歳月をかけて寿城池を築造したと紹介されている。


 2002年日韓W杯の会場でもあった大邱スタジアム。2011年国際陸上の会場にもなった。


 夕食は韓定食。韓国料理はひたすら赤くて辛いイメージだが、そんなことはない。韓国料理の基本は、「五味五色」の食文化。五味とは「辛味・甘味・塩味・酸味・苦味」、五色とは「赤・青(緑)・白・黒・黄」。「宮廷料理」は、トウガラシが朝鮮半島に伝わる前の料理で、彩り豊か、しかも体にとても良い。


 夜はモノレールに乗り、西門市場(ソンムンシジャン)へ。ソウル南大門市場に次ぐ賑やかさだそうだ。


 朝、L氏のマンション(韓国ではアパートと呼ぶ)の窓から見た景色。L氏のマンションは、大邱の東・慶山(キョンサン)市にある。10数年前まで田園地帯だったところに、次々とマンションが建っていった。


 朝食の前に付近を散歩する。田園風景が残っていてすがすがしい。「外国」というより、まるで「故郷」。








 朝ごはん。パンとコーヒーの生活とは雲泥の差。こりゃパワーが違う訳だ。


 大邱の中心部へ。防川市場。若くして亡くなった歌手・金光石(キム・グァンソク)の故郷。


 金光石(キム・グァンソク)通りは、多くの若者たちが集まる文化と芸術の場。


 日本風の建物は、日本軍「慰安婦」歴史館。The Museum of Military Sexual Slavery by Japan。日曜日で休館だった。河野談話・村山談話で謝罪しながらそれを否定するのは信義に反することだと言うと、L氏はABEですねと答えた。韓国人は意外とよく見ているのかもしれない。


 薬令市韓医薬博物館。隣接する通りには、韓方薬局・韓方医療・韓方薬剤店などが立ち並び、多くの人々が訪れる。


 桂山聖堂(ケサンソンダン)。フランス人神父によって建てられたロマネスク様式の教会。



 教会へ続くこの道は「三・一運動路」と呼ばれる。


 三・一独立運動の際、市民や学生たちが西門市場に向かってこの階段を降りていった。


 チョンナの丘は、大邱に入ってきたキリスト教宣教師たちの布教の中心地だった。宣教師の生活した住宅が今は博物館になっている。


 駆け足の「大邱」。L氏夫妻は、東大邱駅のプラットフォームまで見送ってくれた。「今度はもっと長い時間で来てください、今回行けなかった所を案内します」「シンセ マニ ジョッソヨ(お世話になりました)また、滋賀県にも来てください」。KTXに乗り韓国旅行後半のソウルへ向かった。
 違うから面白い。物事は接すれば半分解決する。「嫌韓反日」などという「妄想の世界」は、ここにはない。「日本が好き=韓国が嫌い」ではないし、「韓国が好き=日本が嫌い」でもない。大切なのは、自分の目で確かめ、自分の頭で考えること。「解放」とは、自分を縛る「思い込み」から解き放たれ、自分が自由になっていく過程なのだ。
  


Posted by biwap at 06:28旅行記KOREAへの関心

2016年05月11日

闇に浮かぶ炎

道草百人一首・その76
「御垣守 衛士の焚く火の 夜は燃え 昼は消えつつ ものをこそ思へ」(大中臣能宣)【49番】


 宮中の諸門を警護する御垣守(ミカキモリ)である衛士(エジ)の燃やす篝火。夜は燃え昼は消えているように、私の心も夜は恋の炎に身を焦がし、昼は消えいるように物思いにふけっている。「もの思ふ」とは、当然「恋情」。しかし、深い漆黒の闇に燃え上がる篝火には、もっと別の情念が感じられる。恋の心情は一つの味付け。この歌の真骨頂は「夜の闇に浮かぶ炎の美しさ」なのかもしれない。
 大中臣能宣(オオナカトミノヨシノブ)。百人一首61番「いにしへの奈良の都の八重桜」伊勢大輔(イセノタイフ)の祖父に当たる。宮中の夜、諸国から集められた「御垣守」の衛士達が、篝火をあかあかと焚いている。「はかなき恋の嘆き」とは、趣(オモムキ)を異にしている。「昼間」が支配する「秩序」。夜の深い闇は、解き放たれた炎の世界へ。
  


Posted by biwap at 06:22道草百人一首

2016年05月09日

砕け散るこころ

道草百人一首・その75
「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな」(源重之)【48番】


 風がとても激しく、海に顔を出した岩に波がぶち当たって砕けている。岩は何も動じないのに、波は何度も岩に当たり、そして粉々に散っていく。ちょうど、振り向いてくれない彼女に想いを寄せて心砕ける私のように。
 源重之(シゲユキ)。清和天皇の曾孫。地方官歴任ののち、陸奥に下りその地で没した。出自と官職の落差。不遇を嘆く歌がたくさん詠まれている。
 「砕けてもの思ふ」は、平安時代に使われた恋の表現。ある種ありきたり。ところが、嵐の海の情景を詠み込んだことで、激情を語る鮮烈なイメージの一首となった。千々に思い悩む男の恋心。いや、それは人生の荒波に打ち砕かれる、自分の姿そのものかもしれない。
  


Posted by biwap at 11:40道草百人一首

2016年05月06日

国民を洗脳するプロパガンダ


 「原子力発電を批判するような人たちは、すぐに『もし地震が起きて原子炉が壊れたらどうなるんだ』とか言うじやないですか。ということは、逆に原子力発電所としては、地震が起きても大丈夫なように、他の施設以上に気を使っているはず。だから、地震が起きたら、本当はここへ逃げるのが一番安全だったりする(笑)。」
 「相変わらず原子力発電に反対する人もいるけど、交通事故の年間の死者の数を考えて、自動車に乗るのを止めましょうとは言わない。やっぱり使ったほうが便利だからね。どうも原子力発電というとリスクばかり言う傾向があるけれど、実際、おいらたちはもっとリスクのある社会に生きている。変質者に刺される確率のほうがよほど高いって(笑)」 
 超有名お笑いタレントの発言。この1年後、「3・11」が起こっている。こんな例を挙げればキリがない。原子力の専門家と呼ばれる人たちがワイドショーでどんな発言をしていたのか、是非再現してもらいたいものだ。
 原子力ムラは、2兆円とも3兆円ともいわれる莫大な金を使い原発礼賛の宣伝広告活動を展開してきた。岩波新書「原発プロパガンダ」(本間龍)に掲載されている資料を引用する。
 1991年、科学技術庁が原子力文化振興財団に委託し、「原子力PA方策の考え方」という指針を作らせた。PAとは、「パブリック・アクセプタンス(社会的受容のための施策)」のこと。数十頁にわたる報告書の一部を抜粋引用。

<父親層がオピニオンリーダーとなった時、効果は大きい。父親層を重要ターゲットと位置付ける。 女性層には、訴求点を絞り、信頼ある学者や文化人等が連呼方式で訴える方式をとる。 不安感の薄い子供向けには、マンガを使うなどして必要性に重点を置いた方がよい。 繰り返し繰り返し広報が必要である。新聞記事も、読者も三日すれば忘れる。繰り返し書くことによって、刷り込み効果が出る。 政府が原子力を支持しているとう姿勢を国民に見せることが大事だ。 広報の中心を“原子力発電”に置きすぎる。放射線やその他の分野から理解を深める手法も考える余地がある。放射線や放射能が日常的な存在であることを周知させる必要がある。 原子力広報は、まず“安全だ”と打ち出すのではなく、“核分裂という現象は危険だ、その危険をどう安全に変えているか”という手法を探る。 世の中に危険でないものはない。原子力だけは「安全でなければ」ということがおかしいのだ。 必要性を訴える場合、主婦層には現在の生活レベル維持の可否が切り口となる。 サラリーマン層には、“三分の一は原子力”、これを訴えるのが最適。 電力会社や関連機関の広告に、必ず“三分の一は原子力”を入れる。小さくともどこかに入れる。いやでも頭に残っている。 NHKは政府広報をやっているのだから、原子力広報も流してくれるのではないか。 原子力に好意的な文化人を常に抱えていて、何かの時にコメンテーターとしてマスコミに推薦出来るようにしておく。 反対派が出す書物に対して推進派の手に成る書物は絶対量が少ない。採算度外視の覚悟で出版数を増やす。>

 原発に関心のある人でも、まさか原発ゼロでやっていけるなどとは、想像もしなかったはず。情報は操作されている。わかってはいても、愕然とする思いだ。これは「原発」だけの問題なのだろうか。
  


Posted by biwap at 10:05辛口政治批評