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2016年10月31日

台湾の脱原発


朝日新聞デジタル版から
<台湾の蔡英文(ツァイインウェン)政権が2025年に「原発ゼロ」にすることを決め、行政院(内閣)は、再生エネルギー事業への民間参画を促す電気事業法の改正案を閣議決定した。太陽光と風力発電を中心に再生エネの割合を20%まで高めることを目指す。東日本大震災後の反原発の民意を受けたもので、改正案は近く立法院(国会)で審議に入り、年内の可決を目指す。
 世界的にはドイツが2022年までの原発全廃を決めるなど、欧州を中心に脱原発の動きがある。一方、増える電力需要に応えるため中国やインドが原発を増設させており、アジアでは台湾の取り組みは珍しい。
 改正案は20日に閣議決定され、6~9年かけて発送電分離も行う。蔡総統は「改正は原発ゼロを進め、電源構成を転換する決意を示すもの」としている。
 台湾では原発が発電容量の14・1%を占め、現在は第一~第三原発で計3基が稼働中。だが、東京電力福島第一原発の事故で台湾でも反原発の世論が高まり、原発ゼロを公約に5月に就任した蔡氏が政策のかじを切った。台湾も日本と同様に地震が多い。稼働中の全原発は25年までに40年の稼働期間満了となる。同法改正案では25年までに全原発停止と明記し、期間延長の道を閉ざす。
 改正案では再生エネルギーの発電と売電事業をまず民間に開放。送電は公営企業の台湾電力が引き受ける。これまでは台湾電力が電力事業を基本的に独占してきたが、同社を発電会社と送売電会社に分割。再度法改正を行い、再生エネ以外の電力事業も将来開放する方針だ。>
 
 台湾で脱原発を求める声が強くなったのは福島原発の事故から。蔡英文総統は脱原発を公約に大統領選を戦った。蔡英文総統は経済についても並々ならぬ関心を抱いている。それも大企業ではなく、中小企業を重視し、女性らしい細やかさで企業や工場を観察している。台湾という国の在り方は、民主化の進展とともに、とても興味深いものがある。
 日本の凶暴な人たちを見ていると、「女性政治家」と一括りにするのはよくないような気がする。生活に密着したリベラルな市民派がもっともっと育ってほしいものだ。よその国を見下しているうちに、わが国の民主主義はとんでもなく後退しているのかもしれない。 
  


Posted by biwap at 15:30

2016年10月30日

ソリ姫デビュー


 使い慣れたものは、もうすっかり私たちの仲間。愛車ラクティスも買い換える時期が来た。
 とにかく自転車2台が積める収納スペースが必須。畑仕事にも肥料や道具を運ばなければならない。時には高速で遠出もするので、軽自動車の形をした小型普通車があったらいいのにと。意外とこれがみつからない。
 比較検討した結果、徹底的に実用性を重視したちょうどよい車「スズキ・ソリオ」。
 ライバルのトヨタ・シェンタやホンダ・フリードと比べ、50㎝短く、200~300㎏軽い。しかも室内は遜色なく広く、背も高い。小さく軽いことは、日常的には大きなメリットだ。自転車2台もOKで、しかも小回りも利く。遠くから見ると軽自動車のようだが、近づくと量感があり大きく感じる。
 乗った感じは、静かで軽やか。マイルド・ハイブリッドという独特の形式。走行中モーターに蓄電し、必要な時にエンジンをサポートする。安価で軽量な合理的ハイブリッドといえる。燃費もよい。
 室内の収納は女性目線が行き届き、細かいところまで気が配られている。どうもクルマ社会というのは、男原理のような気がして仕方がない。男のステータスという臭いまで感じることがある。服装が自己主張であるように、車もそうなのかもしれない。生活スタイルや価値観が現れていて面白い。
 そんな訳で今回デビューするのは、クォーツピンクのソリ姫。風を切って郊外を走るかと思えば、もんぺ姿で畑仕事にも駆り出される。私たちの新しい仲間。
  


Posted by biwap at 06:44

2016年10月29日

ある歴史学者の死


 「元号についてはどうですか」「西暦にしたらよいですよ。(元号は)なにかにつけ、とても不便です」と彼は笑っていた。昭和天皇の末弟・三笠宮崇仁(タカヒト)。「もしも2月11日を紀元節と国で決めたなら、小学校の先生は生徒に何と説明するでしょう。せっかく考古学者や歴史学者が命がけで積み上げてきた日本古代の年代体系はどうなることでしょう。ほんとうに恐ろしいことだと思います」
 10月27日、心不全により死去。享年100歳。「人間が人間を拝むなどバカなことはできない」と松本治一郎は言った。彼の思いも同じだったのだろう。戦争を体験した一人の歴史学者。それで何がいけないのか。
 以下、LITERAXより抜粋引用。
 1915年生まれの崇仁(タカヒト)親王は、陸軍士官学校に進み、軍人となり、日中戦争時の1934年1月から1年間、「若杉参謀」の名で参謀として中国・南京に派遣された。1994年、月刊誌のインタビューで「南京大虐殺はなかった」という論についてどう思うか聞かれ、このように述べている。
 「最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から『新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる』という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体なんだったのかという疑義に駆られました」
 このインタビューが収録された当時は、永野法相が毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」「太平洋戦争を侵略戦争というのは間違っている」などと発言するなど、戦中日本の戦争犯罪を公然と否定する流れが、すでに一部の右派だけでなくかなりの勢いを持ち始めていた時期である。
 とくに、日中戦争初期の1937年12月の首都・南京陥落以降に日本軍が行った捕虜や民間人の殺害行為については、論者・研究者によってその人数に20万人から数百人、そして「そもそも虐殺は存在しなかった」といういわゆる“マボロシ論”まで論じられていた。その“数字”をとりたてる流れは現在も続き、現日本政府もまた「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難である」としている。
 だが、崇仁親王はこうした“数字”の論に対して“むごたらしく殺せば人数は関係ありません”と、はっきりと批判したのだ。さらに同インタビューでは、自身の南京での従軍経験としてこうも述べている。
 「また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これこそ虐殺以外の何ものでもないでしょう」
 言うまでもなく、崇仁親王が戦争犯罪を正視し、歴史修正主義をけん制したのは、再びこの国が戦争をすることがないようにという強い思いがあったからだ。1956年の著書の中でも、南京に配属された当時を振り返り、こう記している。
 「わたしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば『聖戦』というものの実態に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない。かかる事変当初の一部の将兵の残虐行為は、中国人の対日敵愾心をいやがうえにもあおりたて、およそ聖戦とはおもいつかない結果を招いてしまった」
 「わたしがここで言いたいのは、聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないかということである」
 昨年、ユネスコの世界記憶遺産に「南京大虐殺」が登録されたことに対して、ユネスコへの分担金を留保するという“報復”に出た安倍首相にこそ聞かせたい言葉だ。だが、そうした誠実な態度を貫き通した崇仁親王に対し、これまで右派は「赤い宮様」などと揶揄し、「左翼」と批判してきた。前述した著書の一部が新聞で紹介されたときには、「これは日本軍を傷つけるものだ」という趣旨の脅迫まがいの手紙が当時品川区にあった三笠宮邸に届いたこともあったという。
 しかし、崇仁親王はイデオロギーから発言したわけではない。崇仁親王がオリエント史などの歴史研究を愛し、大学の教壇にも立ったことはよく知られているが、その根本には、たとえそれがどれほど自分にとって正視し難い事実であったとしても、歴史には真摯に向き合わなければならないという覚悟があった。そしてなにより、崇仁親王自身が皇族という極めて特殊な立場にありながら、“権威”が大衆を惑わすこと、そして、自由な言論が封鎖されることこそ、民主主義にとって一番の障壁であると、60年以上前から指摘してきた。
 マスコミはあまり取り上げないが、崇仁親王の思いが、皇室と国民の垣根を越える“民主主義”にあったことは明らかだ。たとえば1952年の「婦人公論」2月号に掲載された「皇族と自由」と題した聞き書きのなかで、崇仁親王は、昭和天皇の地方巡幸の際に警官が万歳しない人に対して叱りつけたという話を受けて、「これでは少しも人間と人間との感情が流れてきません。こんなとき号令をかけられた人がなぜ抗議しないのでしょう」「同じ人間同しなのですからハダカとハダカでぶつかり合ってほしい」としたうえで、「これが民主主義の基礎であることはいうまでもありません」と語っている。
 あるいは1966年の「女性自身」のインタビューでは、皇室の民主化の停滞を嘆きながら、侵略戦争の認識についてこう述べている。
 「太平洋戦争が終わったときには、もうこれで地球上から悲惨な戦争はいっさいなくなったのだと思いましたが、現状をみると、まことにあさはかな考えだったことがわかります。どんな大義名分をつけても、しょせん戦争は殺人です。人を殺すことは最大の罪悪です。戦争放棄を明記した新憲法の精神は、いつまでも大切にしなければなりません」
 しかし、2016年の日本はどうか。安倍政権はメディアに圧力を加え、言論弾圧まがいの行為を繰り返し、さらに憲法を変えてこの国を戦争へと導こうとしている。そして、天皇の「生前退位」についても一代限りの特別法でお茶を濁し、抜本的な天皇や皇族の人権問題には決して触れようとしない。さらには、国民の多くはそんな安倍政権を支持し続け、歴史修正やその強権政治への国内外の批判に対しては、束になって「反日」だと襲いかかる。まるで、みずから民主主義を手放そうとしているかのようだ。
 非民主的な存在である皇族のほうが国民や政治家よりよっぽど自由や人権、民主主義について考えを巡らし、また、負の歴史を正面から見据えていた。その歪(イビツ)な現実を、わたしたちはよく受け止めなくてはならない。
  


Posted by biwap at 06:12歴史の部屋

2016年10月28日

きりぎりすの哀悼歌

道草百人一首・その96
「きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む」(後京極摂政前太政大臣)【91番】


 きりぎりすは現在のコオロギのこと。コオロギが鳴いている、こんな霜の降る寒い夜に、むしろの上に衣の片袖を自分で敷いて、独りさびしく寝るのだろうか。
 平安時代、男性と女性が一緒に寝る場合は、お互いの着物の袖を枕代わりに敷いた。「片敷き」は自分の袖しかなく、寂しい独り寝のことを言う。霜が降る本当に寒々とした「わびしさ」が心に伝わってくる。
 後京極摂政前太政大臣。本名、藤原良経(ヨシツネ)。関白藤原兼実(カネザネ)の子供で、摂政・太政大臣まで登りつめた権力者。この歌のわびしさとはそぐわないが、実は妻に先立たれた哀しみを謳ったもの。確かに、コオロギの声が切なくしみ込んできそうである。その良経も、わずか38歳で夭折。
  


Posted by biwap at 06:16道草百人一首

2016年10月25日

ビワイチ完走


 念願のビワイチに挑戦。


 琵琶湖一周、約200km。前回は南湖を一周。今回は、北湖を2泊3日で回る。


 草津を出発。三上山を右に見ながら北上。三上山は、そんなに高くないのにどこからでも見える山だ。


 湖岸道路に沿ってひたすら走っていく。道を迷うことはまずない。


 沖島が見えてきた。淡水湖の中に人が住む島は国内唯一。世界的にも珍しいそうだ。140世帯、人口約400人。


 長命寺港付近。近江八幡へ入った。


 彦根を目指し、旧道を走る。集落を通り抜けるのは楽しい。


 自転車はクロスバイク。オフロード用マウンテンバイクとスピード系ロードバイクの中間。スピードではなく、軽く走るのに適している。さすがにママチャリでは難しい。


 朝妻港付近。旧米原町は「まいはら」と読むが、2005年米原市発足時、駅名に合わせて「まいばら」とした。


 今日の宿泊地・長浜が見えてきた。風呂に入ってゆっくり足を延ばそう。


 朝、ホテルから見た長浜港。幸い天気予報は外れてくれた。


 長浜城を横に見ながら出発。湖北を反時計回りに回っていく。


 湖南・湖東・湖北・湖西。湖国は、それぞれに違った表情を見せてくれる。湖北の田園地帯はのびやかで美しい。


 竹生島が見える。琵琶湖最北端へと進んでいく。


 旧賤ヶ岳隧道を登りきり、長いトンネルを抜けると・・・


 奥びわ湖が眼下に広がる。


 雄大な景色を一気に下っていく。塩津街道を進み、岩熊トンネルに向かう急坂が一番の難所。


 海津への湖岸は再び平坦な道をたどる。ビワイチのコースで急な坂は、2か所以外ほとんどない。でも、時計回りのコースを取ると結構だらだらとした登坂が続き大変そうだ。常に湖側の「反時計回り」が絶対おすすめだ。


 高島へ向かう道で、絶滅危機にあるコウノトリと遭遇。中国南部へ越冬する渡りの途中に、少数が日本を通過することもあるそうだ。


 登坂はギアチェンジで解決したが、意外な難所が白髭神社付近。通過する所がこの自動車道しかない。しかも、途中で歩道がなくなる。車の渋滞が幸いし、自転車はスイスイと潜り抜けた。


 全国にある白鬚神社の総本社。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。祭神は、猿田彦命(サルタヒコノミコト)。白髭の正体は、猿田彦だったのか。


 日が暮れてくる。2日目の宿、近江舞子へ急ごう。


 3日目。草津までは、あとわずか。お昼には到着しそうだ。JR湖西線を横に見ながら走る。


 湖西路を南へ下っていく。サイクリングウェアに身を包んだロードバイクの若いグループに何度も会った。スポーツとして楽しんでいるようで、とてもいいことだと思った。のんびりグループも含めて、もっともっといろんな年代の人たちが楽しめればいいのだが。


 びわ湖大橋を渡り、湖南へ帰っていく。少し感慨深げに北湖を見渡す。滋賀県は、まさに自転車にぴったりの場所だ。未来の為にも、先進的なサイクル立県を目指してほしいものだ。知恵(resource)は、最大の資源(resource)なのだ。


 湖岸道路を草津へ南下。出発した時の三上山が出迎えてくれた。
 ビワイチ完走。とても大きな達成感と充実感。自動車ではスルーしてしまう風景を抱きしめることもできた。何よりも自分の足で実感した「湖国」が、明日への「生きる糧」となっていくような気がする。大きなものに包まれた安らぎと喜びのようなものを感じながら。
  


Posted by biwap at 18:15近江大好き旅行記

2016年10月21日

「土人発言」の深淵


 10月18日、午前11時半。沖縄県東村高江。米軍ヘリパッド建設への抗議行動をしていた芥川賞作家・目取真俊さんが、機動隊員4人に押さえつけられる場面。この2時間前、目取真さんら市民数人は、ゲートそばでフェンス越しに工事用トラックの台数を確認していた。機動隊員3人がフェンスから離れるよう指示した際、1人が「触るなくそ。どこつかんどんじゃボケ。土人が」と発言。沖縄タイムスは、「驚きを禁じ得ない暴言だ」と社説(2016年10月20日)を掲載。 
 <米軍北部訓練場のヘリパッド建設現場に通じるゲート付近で、フェンスを挟んで工事に抗議していた市民らに、大阪府警の機動隊員が「土人」などと暴言を吐いた。
 沖縄県民への差別意識が露骨に出た言葉である。県民を愚弄するもので、許せない。
 大阪府警の20代の機動隊員は18日午前、フェンスを揺らすなどして抗議していた市民らに「触るなくそ。どこつかんどんじゃボケ。土人が」と発言した。
 その直前にも、大阪府警の別の20代機動隊員が「黙れ、こら、シナ人」と差別的発言を浴びせた。
 まるで暴力団か、街頭でヘイトスピーチを繰り返す団体のような耳を疑う発言である。
 「土人」も「シナ人」も明らかな差別用語である。そういう言葉が公務中の機動隊の口から平然と飛び出すこと自体が異常だ。
 県警は「差別用語で不適切な発言だった」などと謝罪したが、当然である。だが、それで済むわけではない。
 2人の機動隊員は事実関係を認め、「不適切と承知している」、「右翼関係者につられて思わず言ってしまった」などと県警の事情聴取に 答えているようだが、本当にそうなのだろうか。
 6都府県から派遣された約500人の機動隊員のうち、たまたまこの2人が暴言を吐いたのだろうか。
 機動隊の派遣を要請した金城棟啓県公安委員長にも説明を求めたい。
 翁長雄志知事は急きょ会見し、「言語道断で到底許されない」と強い憤りを表明した。20日に池田克史県警本部長に抗議する。
 翁長知事が那覇市長だった2013年1月、沖縄の全市町村長らがオスプレイ配備反対を安倍晋三首相に訴えるため「建白書」を携えて上京。東京・銀座をデモ行進した際のことが思い出される。
 沿道からは「非国民」「売国奴」などの罵声が上がり、「中国のスパイ」「日本から出て行け」などの暴言が飛び交った。
 底流には沖縄を見下し、「植民地」扱いする意識がいまだにあると考えざるを得ない。だが、これだけではない。基地問題をきっかけに出てきた沖縄バッシングの空気が渦巻いている背景もある。
 ネット空間の影響を受けたかのように、機動隊員が「土人」や「シナ人」など日常生活では使わない差別用語を吐くことが「嫌沖」の根の深さを示している。
 民意を無視してヘリパッド建設を強行する安倍政権と、市民を強制排除するなど権力をむき出しにする機動隊は一体である。
 「不偏不党且つ公平中正を旨とする」と警察法はうたうが、工事車両に表示番号がないなど違反が相次いでも機動隊は警備している。抗議する市民からは多くの負傷者が出ており、対応が公平でないのは歴然としている。
 安倍首相は今回の暴言を国会で謝罪するとともに、応援機動隊を引き揚げさせ、工事をやめるべきだ。>
 松井一郎大阪府知事、「ネットでの映像を見ましたが、表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」とネットに投稿。おぞましいスタンディングオベーションを思いだした。
 9月30日の衆院予算委員会。「我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます。現場では夜を徹して、そして、いまこの瞬間も海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら強い責任感と誇りをもって任務を全うする。その彼らに対し、いまこの場所から、心からの敬意を表そうではありませんか」。安倍首相がそう言い終わるや否や、自民党議員たちがゾロゾロと立ち上り、壇上で拍手を始めた安倍首相とともに、10秒近く盛大な拍手を始めた。懸命に生きているのは、この人たちだけではない。国家への忠誠を賛美する全体主義国家のおぞましい映像だった。
 何が問題なのかを問わない謝罪や処分は、隠蔽でしかない。かの百田尚樹が「沖縄の二つの新聞は潰してしまえ」と叫んだ、そのもう一つの新聞に何が問題なのか解説してもらおう。
 琉球新報社説(2016年10月20日)警察「土人」発言「構造的差別」責任は政府に。
 <米軍北部訓練場内のヘリパッド建設で基地のフェンス越しに建設反対を訴える市民に対し、大阪府警の機動隊員が「土人」の暴言を発した。県警は事実を認め、「発言は遺憾」と表明した。
 「土人」発言は、反対運動の市民だけでなく、県民の心を深く傷つけた。警察への信頼も大きく失墜させた。機動隊員の監督責任者は県民に対し明確に謝罪し、発言した隊員を警察法や侮辱罪などの法令に基づき厳正に処罰すべきだ。
 現場の機動隊員は全国から招集されている。隊員の差別発言は、監督者の責任も問われる。隊員に対し、沖縄の基地問題や建設に反対する民情を理解させ、公正中立の立場で職務を行わせる指導、監督をおろそかにした責任は大きい。
 フェンスを挟んで向き合う市民への「土人」の暴言は、行動を抑制するのでなく挑発そのものだ。工事を邪魔する者は排除すればいいという、安倍政権、沖縄防衛局の意思を反映したものだろう。
 訓練場内のフェンスの鉄線を切断したとされる沖縄平和運動センターの山城博治議長は、防衛局職員の通報で逮捕された。反対運動を萎縮させたい防衛局の意を酌む「狙い撃ち」と批判されている。
 反対行動を抑圧する警察活動の、事実上の指揮者は防衛局、政府である。大規模な機動隊投入、不当な車両検閲、市民や新聞記者の排除、自衛隊ヘリの投入と、ヘリパッド建設のため政府はあらゆる手段を取っている。
 建設を至上命題とする政府の意を受け、あるいは指揮の下に、警察法が規定する「公平中正」を逸脱する警察活動が行われているのは明白だ。
 沖縄差別は歴史的な問題だ。琉球処分、大戦時には沖縄を本土防衛の防波堤にし、戦後は米軍占領を許し、米軍基地を集中させた。
 政府の沖縄に対する歴史に根差した「構造的差別」の延長線上に、辺野古新基地建設、ヘリパッド建設がある。
 県知事選、名護市長選、県議選ほか幾たびの国政選挙で県民は基地反対の民意を示してきた。民意を踏みにじり基地建設を強行する国家政策そのものが「構造的差別」と言わざるを得ない。
 沖縄は日本の植民地ではない。沖縄差別、今回の「土人発言」の責任は政府の差別政策にある。沖縄に対する構造的差別を改めぬ限り、不毛な対立は終わらない。>
 松井大阪府知事、「国民すべてが1人の警察官をたたきまくると本当に落ち込む。だから一生懸命やっていたことは認めようということだ」。翁長沖縄県知事、「不適切な発言と認めた上で『よく頑張った』ということになると、筋が違う。沖縄県民への配慮が足りない」。沖縄県警、「今回の発言は極めて遺憾。以後そのようなことがないようあらためて指導する」。
 問題を把握できていない大阪府知事から、まず指導した方がよろしいのではないか。いや、そんなことを言いだせば・・・


  


Posted by biwap at 06:17辛口政治批評

2016年10月18日

百年の時を超え

道草百人一首・その95
「見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変はらず」(殷富門院大輔)【90番】


 百人一首48番「風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな」の作者・源重之。彼が100年前に詠んだ「松島や 雄島の磯にあさりせし あまの袖こそ かくは濡れしか」の歌を、本歌取りしたのがこの歌。昔の有名な歌の一部を引用したりさまざまにアレンジして新しい歌を作る「本歌取り」は、藤原定家の時代に流行った粋なテクニック。
 「松島の雄島の磯で漁をしている漁師の袖が濡れるのと同じほど、私の袖は哀しみの涙で濡れているのですよ」と男が無情な恋人をなじると、「あなたに見せたいものです。松島にある雄島の漁師の袖でさえ、波をかぶって濡れに濡れても色は変わらないというのに(私は涙を流しすぎて血の涙が出て、涙を拭く袖の色が変わってしまいました)」と激しく切り返す。百年の時を超えた男女の贈答歌。
 殷富門院大輔(インプモンインノタイフ)。藤原信成の娘。後白河天皇の第一皇女(式子内親王の姉)に仕えた。たくさんの歌を詠み、「千首大輔」と言われた。「袖の色が変わる」とは、涙が枯れて血の涙が出るほど激しく泣いたことを暗示。「血涙」は、もともと中国の古典から来た言葉。さすが中国流、ハードな表現だ。
  


Posted by biwap at 06:21道草百人一首

2016年10月16日

江口の遊女

道草百人一首・その94
「難波江の 芦のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき」(皇嘉門院別当)【88番】


 かって、淀川両岸は渡船で結ばれていた。幼少の頃、祖母に連れられて渡し船に乗り、淀川の対岸へ渡ったことがある。ヨモギを取っただけの野原。後に気がついたが、その一帯は「江口」と呼ばれ、古代から近世にかけての水上交通の要所だった。旅人で賑わい「遊女の里」としても知られた。西行と遊女との歌問答は、観阿弥の謡曲「江口」の題材となる。この歌の舞台は、その「江口」。遊女の立場に自分を置き、はかない恋を謳ったもの。
 淀川の河口近い難波の入江では、秋ごとに芦を根元から刈る。その風景の見えるここ江口の里。気まぐれに立ち寄って私との仮寝の一夜を過ごしたにすぎないあなたのことが忘れられず、舟路を示して波に浮き沈みするあの澪標(ミオツクシ)さながら、この身が尽きるまであなたを恋いつづけることになるのでしょうか。
 皇嘉門院別当(コウカモンインベットウ)。源俊隆(トシタカ)の娘で崇徳院皇后に仕えた女房。後に出家して尼となる。貴族社会。宮廷に仕える女性の遊女への深い共感。その意味するものは何なのか。
  


Posted by biwap at 06:19道草百人一首

2016年10月14日

眠れない夜

道草百人一首・その93
「夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり」(俊恵法師)【85番】


 祖父・源経信「夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く」【71番】。父・源俊頼「うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを」【74番】。百人一首に登場する直系男子三代目。17歳の時に、父と死別し出家。東大寺の僧となり、俊恵法師と呼ばれた。
 京都白川の坊を「歌林苑(カリンエン)」と名付け、歌人たちのサロンとした。身分・立場を問わず多くの人が集まった。「方丈記」鴨長明も俊恵法師の弟子だった。
 「夜もすがら」の歌は、俊恵が女性の立場に立って詠んだ歌。毎晩毎晩恋する人を想い続け、夜も眠れないくらい。早く辛い夜が明けないかなあと思っていてもなかなか朝の光は射してくれない。朝日が射してくる寝室の隙間でさえ、白んでくる様子もなく、つれないものだ。
 同じように法師の身で、待ちわびる女性の立場の歌を詠んだのが200年前の素性法師。「今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」【21番】。
 いつの世も「眠れぬ夜」は人を悩ませるもの。眠れない夜と雨の日には♪♪
  


Posted by biwap at 06:16道草百人一首

2016年10月10日

傘がなくても信州へ


 日照時間が心配な畑仕事。雨の合間を縫って信州へ。


 長野県諏訪郡富士見町にある富士見パノラマリゾート。冬はスキー場、夏季はマウンテンバイクのコース。ゴンドラにマウンテンバイクを積み込み山頂駅へ、そこから一気に駆け降りる。爽快そうだが、今回はおとなしく。


 ゴンドラで入笠山山頂駅まで登っていく。八ヶ岳を前方に視界がどんどん広がる。


 山頂駅で電動アシスト自転車をレンタル。上り坂もラクラクで雲の上のサイクリングを楽しむことができるはず。意外と苦戦した。


 目的の入笠湿原まで走り、散策。入笠山山頂まで登れば360度のパノラマが広がるので、天気の良い日に再挑戦してみたい。


 ホテルへ向かう途中、立ち寄った牧場。空模様が怪しくなってきた。


 八ヶ岳南麓に広がる山梨県立八ヶ岳牧場。


 雄大な自然と緑の牧草地。何とか天気はもったが、夜の星空観察は中止だった。


 中山道木曽路を馬籠宿から妻籠宿まで歩く予定だったが、朝から雨模様。馬籠宿を散策。


 実は約半世紀ぶり。今は見違えるほど賑やかで外国人の姿も目に付く。
 時が何重にも積み重ねられた場所。その「時の旅人」の中に自分もいた。雨の日もいいものだ。
 「木曾路はすべて山の中である」(島崎藤村「夜明け前」)
  


Posted by biwap at 15:44旅行記