2024年04月23日
天皇の妻スベクヒャン
2013年から2014年までMBCで放送された韓国ドラマ『帝王の娘 スベクヒャン』。
物語の始まりは6世紀初め百済、24代・東城(トンソン)王の時代。
東城(トンソン)王
チェファは王の従弟であるユン(のちの武寧王)と恋仲になり身籠る。そのことをユンに告げる間もなく、チェファの父親は東城王を暗殺。
チェファ
ユン(のちの武寧王)
逆賊となったチェファの父は自殺。チェファも父の後を追おうとするが、父の家来で聾唖者のクチョンに救出され伽耶に逃れる。
クチョン
チェファを心配するユンだが、忠臣ペ・ネスクから彼女は死んだと聞かされる。強大な百済を築くことを決意したユンは25代王・武寧(ムリョン)王として即位。
武寧(ムリョン)王
東城王の息子を守るため、武寧王は自らの息子と彼の息子を入れ替えてしまう。
一方、伽耶に逃れたチェファはクチョンに助けられて娘を出産。ユンと約束した娘の名前はスベクヒャンだったが、チェファはソルランと名付けた。
ソルラン
その後も献身的に尽くすクチョンに助けられ、なんとか暮らしていくことができた。
クチョンが自分に恋心を抱いていることを知りながらも、彼を受け入れられないでいたチェファ。クチョンが父の遺骨を手に入れてくれたことを契機に彼を夫として受け入れることになる。そして、2人の間にも娘が生まれ、ソルヒと名付けた。
ソルヒ
そして平和に暮らす4人。ソルランとソルヒは年頃の娘に育っていった。偶然クチョンを見つけたネスクはチェファの姿も確認し、王にチェファが生きていることを告げる。
チェファと会おうとする王だが、チェファは遠くから見るだけで逢いには行かなかった。
一方、チェファが生きていることはチンム公の耳にも入る。彼は実は武寧王の息子なのだが、東城王の息子として育てられる。彼は父と思っている東城王の敵を討つために伽耶の地までやって来た。
チンム
チェファもまた、父の敵の娘。人を使ってソルランたち一家を襲わせる。クチョンは敵の刃に倒れ、近隣の住民たちも殺され、瀕死のチェファと二人の娘が残される。息を引き取る真際、チェファはソルヒをソルランと間違え、ソルランが王の娘であることをソルヒに告げてしまう。すぐに間違いに気づくのだが、ソルランにはそのことを伝えないままに亡くなってしまう。
姉ソルランの出自が羨ましいソルヒは、ソルランには母の話を伝えないまま、盗賊に連れ去られたように装ってソルランと離れ、一人百済の王宮を訪れ、王の娘として暮らし始める。
ソルヒ
一方、ソルランは偶然武寧王の世子のミョンノン(実は入れ替えられた東城王の息子)と出会い、妹を探すため、彼の統括する百済の諜報組織の一員となり、宮殿へと入ることになる。
ミョンノン
そのソルランの姿を見つけたソルヒは自分の身分を守るため、ソルランを危険に陥れ、また、彼女の秘密を知る者の命を奪って行くことに…。
そして惹かれ合うソルランとミョンノン、ソルヒとチンム公。ともに別人に成り代わった男女二人ずつが、運命に翻弄されていく。
このドラマは終盤になって急に12話分も短縮されている。全く違うラスト・ストーリーが用意されていたようなのだ。
スベクヒャンの漢字表記も当初「手白香」だったものが「守白香」に変えられた。「手白香」は継体天皇の妃の名前として歴史資料に記されている。歴史歪曲議論が起こり、表記が変えられ、倭国との関連も描かないことになったようだ。フィクションとはいえ、どのようなストーリー展開だったか興味深い。
実は武寧王と継体天皇、百済と倭国には、調べれば調べるほど深い関係があることがわかる。
日本書紀によると、武寧王(461~523)は佐賀県唐津市にある加唐島で生まれたと記されている。生母は妊娠した体で渡海し、大和に向かう途中の筑紫で彼を出産。島で生まれたため嶋王と名付けられる。倭国で成長した後、百済に帰国。「末多王(東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王とした」と日本書紀は記している。百済中興のため数多くの業績を積み上げた聖君とされている。
武寧王陵の棺は1400年以上を耐えた木棺である。その木棺のかけらを採取した結果、高野槙であることがわかった。高野槙とは、その種類が世界でも一種しかない近畿地方南部の特産物であるとされている。
2001年12月18日、平成天皇は自らの誕生日に際し記者会見を行い、その中で有名な韓国との「ゆかり発言」を行っている。最後にその下りを全文引用しておく。
「日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。
私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。
しかし、残念なことに、韓国との交流は、このような交流ばかりではありませんでした。このことを、私どもは忘れてはならないと思います。
ワールドカップを控え、両国民の交流が盛んになってきていますが、それが良い方向に向かうためには、両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を、個々の出来事において正確に知ることに努め、個人個人として、互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ、このことを通して、両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております」
Posted by biwap at 11:57
│KOREAへの関心