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2020年09月16日

星を見つめる少年たち


 長浜市国友町にある「星を見つめる少年」像。
 江戸時代後期、自作の望遠鏡で天体観測を続けた人物がいた。国友一貫斎。
 元々幕府御用達の鉄砲鍛冶だった一貫斎だが、江戸で反射望遠鏡を見るなり自作の望遠鏡を作り上げた。改良を重ねた望遠鏡は当時の世界最高水準の域に達す。月、土星、太陽の黒点などの天体観測を行った。国友村は「日本天文学発祥の地」とも称されるようになる。
 一貫斎の邸宅址前に建てられたのが「星を見つめる少年」像。子どものような好奇心と探究心。一貫斎の心の中には、この「少年」が生き続けていたのだろう。


 福井県小浜市にある杉田玄白像。同じ時代を生きた玄白の心の中にも「少年」がいた。
 江戸屋敷に勤めていた越前小浜藩の医師杉田玄白の所へ同じ藩の医師中川淳庵がやってくる。「オランダ人から預かったのだが」。大事そうに持ってきたのが「ターヘルアナトミア」。


 玄白は何が書いてあるのかわからない。しかし、その解剖図に驚かされる。中国のとは全然違う。欲しくてたまらない。藩の役人に頼み込み、やっと買ってもらう。高価な本だが、でも読めない。
 その頃、江戸で死刑になった罪人の腑分けを見学する機会ができた。さっそく前野良沢を誘って出かける。懐に「ターヘルアナトミア」。ところがなんと前野良沢も同じ物を持っていた。長崎で買ったそうだ。やがて解剖が始まる。「ターヘルアナトミア」の図と同じだ。「自分たちは体の内部を知らずに病気を治そうとしていたのか」。そこで是非この「ターヘルアナトミア」を翻訳してみたいと考えた。


 玄白は全くオランダ語がわからない。良沢は今で言う中1英語くらいの実力。辞書も参考書もない。とにかく議論しながら読み始める。
 鼻の説明のところで「フルヘッヘンド」と言う言葉が出てくる。わからない。別の所で、庭で箒を掃いて枯葉にフルヘッヘンドするとある。1日中何のことかと思案。突如ひらめく。うずたかく盛り上がるという意味では。確かめていくと、間違いない。天にも上るような喜びよう。
 こんな調子で読み進め、4年余りかけてやっと翻訳を完成したのが「解体新書」。「小船で大海に乗り出したようなものだ」

 83歳で息を引き取った玄白は長命の秘訣を語っている。
 昨日の非は恨悔すべからず(昨日の失敗を悔やまないこと)
 明日の是は慮念すべからず(明日のことは過度に心配しないこと)

 「己上手と思わば、はや下手になるの兆(キザシ)としるべし」
 誰にとっても人生は未完でしかない。でも、いつまでも星を追い求めていたいものだ。
  


Posted by biwap at 06:35biwap哲学歴史の部屋

2020年05月21日

解放の哲学


 一人の友人がアポロン神殿の神託を知らせにやってきた。「ソクラテスにまさる知者はいない」。ソクラテスは首を傾げた。自分はそんなに知恵があるとは思っていない、でも神が偽るわけはない。そこで、当時アテネで評判の知者たちを訪ね歩いた。「ほら、この人の方が私より知恵がある」。真偽はほどなく明らかになるだろう。しかし彼らと問答している内にソクラテスは気づいた。彼らは自分では知っていると思っているくせに、本当はよく知らない。自分も知らないのだが、そのことを自覚している点では相手よりすぐれている。
 では、知らないことを知っている方が賢いということなのか。いや、知識の量ではない。「何を知らないか」が問題なのだ。たしかに相手はたくさんの事を知っている。でも、「物知り」であることと「賢い」ことは違う。人間にとって本当に大切なことが何なのか。それに気づいているかどうかだ。一番危険なのは、大切なことを知らないのに知っていると思い込んでいること(ドクサ=臆見)。
 ドクサが、なぜ危険なのか。自動車の運転を知らない人は、運転することが危険なことを知っている。でも、人間がどう生きるべきかについては、改めて問い直そうともしない。大切なことを何でもないと思い込み、何でもないつまらないことを大切なことだと考えてしまう。
 本当に大切なこととは何か。そんなものは人それぞれだ。人間の判断は各人のおかれている条件によって異なり、認識や価値は相対的なものだ。そうソフィストたちは主張する。しかし、そこに落とし穴はないのか。
 多様な価値観を認めるとは、みんなそれなりに正しいということ。でも例えば、明らかな差別やヘイトが行われている時に、どちらの立場も尊重されなければならないのか。「表現の自由」「多様性」という言葉が、「ヘイトの自由」「差別する自由」を容認してしまうことだってある。何が間違っているのか。
 人を傷つける自由はないはずだ。どっちもどっち、何をしようとその人の勝手だという相対主義は、自由に見えて、実は欲望や感情の奴隷となっていることがある。正義が相対化されると強者が正義となってしまう。普遍的価値を追い求めるのをやめた時、そこに待っているのは人間の存在を根底から蝕むニヒリズムという病だ。それは、絶望や暴力の源泉となり、自由な社会の本当の「自由」を破壊する。
 ドクサが、なぜ危険なのか。それは私たちが本当に大切なことをわかっていないのに、わかっていると思い込んでしまうことだ。相対主義の中に、思考停止してしまうことだ。ソクラテスは永遠の問いかけをしているに過ぎない。ドクサに微睡(マドロ)もうとする耳元で、うるさく音を立てる「虻(アブ)」なのだ。哲学とは、ひたすら知を愛し求める営みだと言われる。
  


Posted by biwap at 23:41biwap哲学

2019年09月29日

ガンジーの知恵


 指導者のレベルが違い過ぎる。絶望に向きあった人たちの希望。甘っちょろい諦念や安っぽいニヒリズムはそこにはない。美しいしっかりとした言葉を持たなければ!
<文大統領「平和こそが道というガンジーの言葉が朝鮮半島平和の羅針盤」
 国連総会に出席するため、米ニューヨークを訪問中の文在寅大統領が24日、「平和こそが道というガンジーの言葉が朝鮮半島平和の羅針盤」だと述べた。
 文大統領は同日午後、国連本部で開かれたマハトマ・ガンジー誕生150周年記念行事での演説で、「『平和への道はない。平和こそが道なのだ』というガンジーの教えは、国連の精神や朝鮮半島平和の羅針盤になった」とし、「恒久的な平和時代を切り開いている韓国人にとって、ガンジーは知恵と勇気を与える偉大な師匠だ」と述べた。文大統領はこれに先立ち、何度も「平和こそが唯一の望み」だと述べ、朝鮮半島和平プロセスへの意志を強調してきた。彼は同日、国連総会の演説でも、「南と北、国際社会が参加し、非武装地帯を国際平和地帯にしよう」と提案した。
 文大統領は、「ガンジーが韓国の独立運動にも大きな関心を示し、力になった」と評価した。彼は「ガンジーは1927年1月5日、『絶対的に真に無抵抗的な手段によって、朝鮮が朝鮮のものになることを願う』という激励のメッセージを送ったこともあった」とし、「韓国人たちはガンジーが率いるインドの非暴力・不服従運動に深く共感した」と述べた。文大統領は「希望を持たなければ何も得られない」というガンジーの言葉のように、「すべての人が日常の中で希望を抱いて育んでこそ、幸せになれる」とし、「平凡な人々が自分と共同体の運命を自ら決める権利を享受できるようにするのが民主主義の出発点だ」と強調した。>(ハンギョレ新聞2019年9月26日)
  


Posted by biwap at 06:50biwap哲学

2019年09月15日

グラムシはお好きですか


 2004年に放送された韓国ドラマ「バリでの出来事」


 このドラマの主人公は、財閥の御曹司ジェミン、別の財閥の娘ヨンジュ、母と2人の貧しい家で育ったカン・イヌク、孤児院で育ったイ・スジョン。持てる者の「壁」を乗り越えられないイヌクは、財閥の御曹司ジェミンと親しくなった貧しい女スジョンを見守る。自分がそうであったように、彼女がズタズタにされるかもしれないと。恋愛劇の伏線にある階級対立。


 第7話。「グラムシって知ってますか?」イヌクが唐突に投げかけた質問に、スジョンは「はい?」と反問する。驚いて目を丸くしたスジョン。わけがわからない。イヌクの意味深長な言葉が続く。「階級は中世にだけあったわけじゃないんです。ヘゲモニーって奴が僕らの目と耳を塞いでしまっているだけ。もちろん、そのイデオロギーの中で幸せだと感じているなら、それはそれでいいんだけど…」


 スジョンは夕方になってから、また質問する。「今日一日中気になってたんですけど、グラムシって何です?」イヌクはニッコリと笑いながら、一冊の本を差し出した。「寝る前に少しずつ読んだら、よく眠れると思いますよ」


 放送終了後、多くの掲示板で「グラムシって何ですか?」という質問が殺到した。カン・イヌクの愛読書が「グラムシの獄中ノート」と「グラムシのヘゲモニー論」。バリへ逃亡する時にも大事に持って行く。ドラマ終了後、本屋さんに注文が殺到した。


 若い頃に傾倒したグラムシが韓国ドラマの中にさりげなく登場する。いったいこの国はどうなっているのだ。
 イタリアの思想家グラムシ(1891~1937)。1926年11月、ファシスト政権によって逮捕され南イタリアの監獄に投獄。1937年に死亡するまでの10年間、3000ページ余りにわたる「獄中ノート」を執筆した。
 レーニンが指導したロシア革命は、軍隊・行政機関・警察・裁判所などの国家機関を暴力的に奪取した。ロシアでは権力の大部分は国家のもとに集中し「市民社会」は萌芽状態だった。
 一方、西欧では「市民社会」が発達し自立している。権力奪取以前に市民社会における合意形成が必要だとグラムシは考えた。合意形成への指導力を「ヘゲモニー」と言う。政権交代だけで社会変革できるほど国家は脆弱ではない。市民社会の中に社会運動相互の「自立と連帯」という有機的な関係が構築されなければならない。グラムシはこれを「陣地戦」と呼んだ。
 合意形成のためには支配的なイデオロギーに対し、知的にも道徳的にも優位にたつ必要がある。「知的・道徳的ヘゲモニー」という用語だ。新しい文化・芸術・科学技術・暮らし方・生き方を地域の中に根付かせ、それらをネットワークするソーシャル・デザイナーが必要だ。それを「有機的知識人」と呼んだ。人間の自由で自立的な連帯社会の構想。それがグラムシの教えてくれたものだ。


 ソウル市の教育長はなんとグラムシの研究者だった人物。Googleで韓国・グラムシと検索したら、おどろおどろしい極右の記事ばかり出てきて驚いた。彼らは韓国民主化運動をグラムシ理論に基づく共産主義革命だと非難する。彼らにとってその思想がいかに脅威なのかが逆によくわかる。陣地戦、知的道徳的ヘゲモニー。民主主義を求める市民たちにとって、「グラムシ」は大きな支柱なんだと反面教師たちに教えられた。  


Posted by biwap at 22:39biwap哲学KOREAへの関心

2018年05月07日

Look!Costa Rica


 大阪十三まではるばる足を運んだ。淀川文化創造館「シアターセブン」で上映している映画「コスタリカの奇跡」を見るため。狭い会場には、
草津イオンシネマよりたくさんの人がいたのでは。
 高校生の時、「憲法9条」こそ最も現実的な安全保障だと考えた。今も少しもその思いは変わっていない。変わったのは時代状況。戦争を知らない、戦争への想像力を持たない人々が「非武装」などお花畑の夢物語だと嘲笑する。
 「世の中の常識」は、本当に「常識」なのか。年を重ねるにつれ、益々そうは思えなくなっていく。少なくとも、今ある「思い込み」を突き放してみる作業が必要だ。
 この映画に流れているのは、人間の理性や知性や道徳への信頼。格差や差別や貧困と闘っていくことと「非武装」の理念は分かちがたく結びついている。人間性豊かな文化や教育が、憎悪や敵意や侮蔑を退けていく。「平和」は人為的な努力によって作り出されていくものだ。
 真理は意外とシンプルだ。戦争がなくなると困るのは、巨大化した軍需産業。飢餓や貧困の解決に回されるべき富が人殺しの道具に浪費される。自衛の名のもとに軍拡競争が進められ、緊張と敵対関係が煽られる。
 いつの頃からか、この国の政治家の口から「軍縮」という言葉が消えた。そんな今、東アジア情勢は融和へと大きく変化しようとしている。相も変わらず憎悪と敵対を煽る陰湿で醜い姿。もう見るのも嫌だとテレビのチャンネルを切ってしまう。もっとカラッと明るく、隣国との友情や信頼を育てていきたいものだ。明るく楽天的なコスタリカの人々のように。本当の意味で、私たちの国を「美しい国」として誇れるように。

東京新聞2018年5月6日朝刊より


 日本の憲法九条と同様、憲法に軍隊の保有を禁じる条文がある中米コスタリカの歩みを紹介するドキュメンタリー映画「コスタリカの奇跡~積極的平和国家のつくり方」(2016年、米国・コスタリカ合作)の自主上映会が各地で開かれている。関係者は、軍隊を持たない意味を考えてほしいと、鑑賞や上映会への協力を呼びかけている。
 映画は、1948年の内戦終了後、軍隊廃止で浮いた国家予算を教育や福祉に振り向け、中南米屈指の識字率や平均余命を誇る民生国家に生まれ変わっていく姿を紹介。近隣国の紛争を終わらせた功績で87年にノーベル平和賞を受賞したアリアス元大統領が登場し「無防備こそ最大の防御。軍を持たないことで強くなった」と訴える。
 日本では昨年夏に公開されたが、上映した映画館はわずか。「多くの人に見てほしい」と、映画関係者や有志が上映サポートの会「プラ・ヴィダ!」を立ち上げ、今年一月から試写会を開いたり、著名人に賛同を働きかけたりしてきた。
 賛同したコメディアン松元ヒロさんはソロライブで映画を紹介。ツイッターで「(日本の)平和憲法をたった70年で変えようという人たちにみてほしい」と発信する。松元さんのライブを見た音楽評論家湯川れい子さんはプラ・ヴィダ!の会報で「何と美しい、素晴らしい現実でしょう。自主上映の輪を広げていきましょう」と呼びかける。
 これまでに同会がサポートした上映会は、東京や沖縄など六カ所で開催。夏までに中野区や新宿区など都内を中心に計二十カ所で決定、さらに約二十カ所で開催を検討しているという。
 配給会社のユナイテッドピープルの関根健次社長は「ここまで(上映の輪が)広がるとは思わなかった」と話している。
◆エディー共同監督「9条を世界に発信して。日本もっとやれる」


 軍隊のないコスタリカから何を学ぶか。映画「コスタリカの奇跡」共同監督で、脚本も手がけた米国の社会学者マシュー・エディーさんが四月に来日した際に話を聞いた。
-映画を撮ろうと思ったきっかけは。
 「私は非暴力や平和学を学んできた。コスタリカのような、軍国主義とは違う道があることを、米国人に知ってもらいたいと映画を作った。米国では軍隊がない社会を現実と受け止めることが難しかったようで、『学べることはない』という意見が多かった」
-軍隊を持たない選択は、小さな国だからできるという指摘がある。
 「それは違う。小さい国でも外交力や国際法で国は守れると考えるべきだ。大国は貿易相手国が多く、国際社会でも影響力があるから、もっとできるはずだ」
-日本の憲法九条をどう評価するか。
 「九条はコスタリカの非武装憲法より世界に広く知られている。世界平和を実現するため、積極的に発信してほしい。コスタリカのように初等教育から戦争放棄や人権を素晴らしいこととして学ぶなど、もっとやれることがある」
-日本には自衛隊の存在を憲法に明記すべきだとの意見がある。
 「政治指導者が憲法をごく一部でも書き換えようとする際は、その先にもっと抜本的な変化を起こそうとしていると考えるべきだ。大切なのは憲法が成立したときの理念などの原点に戻ること。成文憲法の素晴らしさは、いつでもそこに戻れる点だ」


 映画については以前のブログを参照
 http://biwap.shiga-saku.net/e1392580.html
  


Posted by biwap at 21:37biwap哲学辛口政治批評

2018年04月06日

なぜ怒らない!


 <京都府舞鶴市で開催された大相撲の春巡業で4日、土俵上で気を失った男性に応急処置を施そうと駆け寄った女性に対して、土俵を出るようアナウンスが繰り返された。女性は土俵に入ることを禁止されている。大相撲において、土俵は神聖な場所と位置づけられている。さらに日本では伝統的に女性を「穢れ」のある存在とみなしてきたため、相撲の世界は女性が土俵に入ることを禁止している>(イギリスBBC)
 日本のメディアは「伝統か人命か」という問題に話をすり替えている。「伝統も大事だけれど、人命の方が大事でしょう」などという小学生レベルの話ではない。人命という場面ですら「差別意識」が頭をもたげてくるという「差別の現実」になぜ切り込まないのか。なぜ怒らないのか。
 救急隊によって市長が運び出され、女性たちがその場を離れた後、土俵に大量の塩がまかれたことに対しても、女性に対する穢れ意識とは関係ないと言っている。ならばなぜ、「女性の方は土俵から下りてください」などと繰り返したのか。こんな強弁がまかり通ってしまう無責任社会。なぜ怒らないのか。


 文書を改竄し隠蔽しウソを突き通す。それでも内閣はつぶれない。これぞ腐敗堕落した社会の元凶。なぜ怒らないのか。
 私の運転免許証の期限は「平成33年」と書かれている。事ほど左様に明らかに不合理なことも、平然とまかり通り、是正しようともしない。行きつく先は高度官僚ロボット社会。
 「人間としての矜持」を自ら捨て去ったロボットだけには決してなりたくない。

  


Posted by biwap at 11:17biwap哲学

2018年03月29日

「空気読む社会」の危うさ


 強いものに従順で、弱いものに強圧的。偏見や差別意識にとらわれやすい。絵にかいたような「権威主義的パーソナリティー」の蔓延。強権政治の広がり。
 
 以下、毎日新聞3月27日夕刊より文章のみ抜粋引用


 書店には「反中・嫌韓本」とともに「日本礼賛本」が並ぶ。排他的な雰囲気が漂う現代日本。社会学者のエーリッヒ・フロムがナチズムに傾倒したドイツを考察した名著「自由からの逃走」で解き明かした社会に似てきていないか。


 ドイツ出身のフロムが、亡命先の米国でこの本を著したのは、欧州でファシズムが猛威をふるった1941年。第一次大戦で敗戦後、経済的に多くの人が苦しんでいる時にナチスが勢力を伸ばした背景を考察した。
 <近代社会において、個人が自動機械となったことは、一般のひとびとの無力と不安とを増大した。そのために、かれは安定をあたえ、疑いから救ってくれるような新しい権威にたやすく従属しようとしている>
 フロムはこうしたドイツ国民の傾向を「権威主義的パーソナリティー」と名付けた。自由を持て余し、不安や孤独から強い権威(=ナチス)に身を委ねていったというのだ。


 では、今の日本が全体主義に陥る危険はあるのか。2006年から学生を対象にアンケートを行い、ファシズムの兆候がないか調べている帝京大教授の大浦宏邦さん(社会学)に聞いた。「劇場型」といわれた05年の郵政解散・総選挙で、小泉純一郎首相(当時)が圧倒的な支持を得て以来、授業を履修する学生に「ファシズム(F)尺度調査」を実施している。
 06年から17年まで、4000人近い学生を調査した結果、平均は4・5点(最高点は7点)だった。大浦さんはどう評価するのか。「ナチス・ドイツの親衛隊員が5点と言われていますので、高い値です。ただ、この間、数値はほぼ一定しており、直ちにファシズムの傾向があるわけではありません。今後の動向に注目していく必要があるでしょう」


 現代日本には、ヘイトスピーチがあり、生活保護受給者など社会的に立場の弱い人を攻撃する空気も一部にある。
 フロムが指摘するような心理が生まれたのはなぜか。精神科医の水島広子さんは「ヘイトスピーチを行うのは疎外感を持っており、自己肯定感が低い人です。自信が持てないため、『仮想敵』を作り上げ、優位に立とうとすることで自信を持ったような気になる。ただ、あくまでも形だけの自信なので、団結することで疎外感を抱かない場を作るのです」と解説する。
 水島さんによると、「反中・嫌韓本」や「日本礼賛本」もそうした自信を得るためのツールだ。人口減少社会など将来に不安を抱える中、隣国を排他的に非難することで自国の存在価値を膨らませ、「欧米から評価されている日本」を強調することでやすらぎを求めるというのだ。


 もう一人、筑波大名誉教授の小沢俊夫さんを訪ねた。ヒトラーの自殺が日本に伝わった45年4月、小沢さんは15歳だった。当時の日記に「ヒトラーは偉かった」と書いている。「私は『世紀の英雄』だと思っていたんですよ。私自身、軍需工場で爆薬を作っており、日本の勝利を疑わない軍国少年でした」
 北朝鮮情勢の緊張が続いていた昨年、小沢さんは、弾道ミサイルの飛来を想定した避難訓練の映像を見ながら戦中の竹やり訓練を思い出した。父の開作さんは戦中、婦人会が竹やりでB29爆撃機に対抗しようとする様子を見て「ばかか」と笑い、特高警察の監視がついたという。


 フロムは、周囲に合わせて自我を捨てることを「機械的画一性」と呼び、ナチス台頭の温床となったと指摘した。今の日本の言葉でいえば「空気を読む社会」だ。
 <個人的な自己をすてて自動人形となり、周囲の何百万というほかの自動人形と同一となった人間は、もはや孤独や不安を感じる必要はない。しかし、かれの払う代価は高価である。すなわち自己の喪失である>
  


Posted by biwap at 09:36biwap哲学

2018年01月03日

「人間の条件」



 第二次世界大戦下、梶は鉱山技師として「満州」に派遣される。梶の勤める鉱山で、七人の反抗的な中国人労働者が刑場に引き出され、次々と首をはねられていく。梶はその蛮行を阻止したいのだが、勇気が持てない。
 三人目の中国人の首が地上にころがったとき、梶は遂に一歩を踏み出した。「待て!」 叫んで、飛び出すように進み出た。「やめて頂く」はっきり云ったつもりだが、自分の声がまるで借りものとしか聞こえなかった。「どけ!出しゃばると貴様も叩っ斬るぞ」首切り役の憲兵が怒鳴りつける。


  騒ぎが大きくなることを恐れた現場責任者のひとことで、どうにか処刑は中止された。梶はこの騒動の責任を取らされて日本帝国軍に編入され、軍人として数々の理不尽を経験していく。(五味川純平『人間の條件』)
 五味川純平。1916年、中国大連に近い寒村に生まれる。東京外国語学校英文科卒業後、旧満州・鞍山の昭和製鋼所に入社。1943年召集を受け、「満州」東部国境各地を転々とする。1945年8月、ソ連軍「満州」侵攻により捕虜となる。1948年の引き揚げ後、非人間的な軍隊組織と個人との闘いをテーマに書き下ろしたのが『人間の條件』。1300万部を超える大ベストセラーとなり、五味川純平は一躍人気作家となった。


 当初、『人間の條件』はいくつもの出版社をタライ回しにされた後、三一書房へ持ち込まれた。社長の竹村一は、1・2巻の900枚を一気に読み終え、その場で出版を決めた。竹村もまた、中国への侵略戦争であることを知りながら、日中戦争へ駆り立てられていった一人だった。その心の傷の共有は、同時代の人間の域をはるかに超えた厳しさと連帯があったと竹村は言う。共犯意識とも言うべきものなのか。
 三一書房は、竹村一が1945年に、京都で創業。後、東京に移転。会社名は、1919年3月1日から起こった朝鮮民族の独立運動「三・一独立運動」に由来している。


 反戦思想を持ちながら、日本の傀儡国家・満州の国策会社満鉄に勤めていた主人公の梶。無実の中国人が処刑されるという理不尽に異を唱えることで、それまで彼が持っていたものの全てを奪われ地獄の境遇へと突き落とされる。
 軍隊生活の理不尽さ、残忍さ。旧陸軍での私的制裁の酷さがいかに殺伐とした人間を大量生産したか。少しばかり階級が上の人間が、下のものを辱め、殴り、恥をかかせて精神的に追い詰めていく。敵兵ではない、他ならぬ同じ日本兵に対して。なぜここまで残酷になれるのか。実際に体験した者でなければ決して描くことの出来ない、人間尊厳の極限を克明に描写しいく。


 軍隊は人間性そのものを破壊していく。何より恐ろしいのはそうした軍隊生活でため込んだ怒りや恨みが、敵兵である中国人に対して圧倒的力をもって暴発することだ。


 この地獄のような世界で、打ちひしがれながら、なお人間としての心を失うまいとした人々がいた。梶は捕虜となった一中国人との間に、人間同士としての心の交流を求めた。理不尽な暴力に日夜苛まれる同期兵を庇おうとする兵がいた。日本軍の暴力から、敵国人である中国人を助けようとした兵がいた。凄惨な世界の中で、それでもなお人間であり続けようとする者と、同じく人間であり続けようとする者とが手を伸ばしあう。「人間のそばには、必ず人間がいる」


 軍隊での暴力に耐え、満州国境での壮絶な戦闘に生き残った梶は、ソ連軍の捕虜になる。捕虜収容所を脱出した梶。妻のもとへ帰ろうと、満州の荒野をさまよう。妻に食べさせようと懐に入れた餅。それもかなわず、極寒の中、死を迎える。梶は最後まで「梶」として、妻・美千子は最後まで「美千子」として終わる。まるで二人が一対であるかのように。


 五味川純平の生涯のテーマは、戦争の非人間性・不条理さを描くことだった。地獄を見、体験してきた五味川は、生き残ったものの責任として、戦争へと導いたものを糾弾せずにはいられなかった。そして、極限状況における人間の醜悪さと美しさ、人間の尊厳とは何かを問い詰めた。人間が人間として生きる。そのための人間の条件は?
 高校を卒業したばかりの頃に読んだ『人間の条件』は、間違いなく自分の原点であった。「戦争だけは絶対にしてはいけない」。そう叫んでいた人たちが、今、一人また一人と他界していく。戦争への想像力を失いつつある危うい時代。もう一度、私たちの国が世界に発した「非武装・非戦平和」の原点に立ち返らなければならない。人間の尊厳と誇りのために。
  


Posted by biwap at 18:24biwap哲学

2017年11月04日

暴兵損民


 「ニセモノはみんな仰々しい。ホンモノはみんな素朴だ」(むのたけじ)
 
 宇都宮徳馬。「軍縮」という言葉が死後になりつつある今、自民党にもこんな政治家がいたことを思い出す。1956年の自民党総裁選では、安倍晋三の祖父・岸信介と争った石橋湛山を支援。根っからのリベラリストだった。私財を投じて平和・軍縮活動に取り組み、軍縮問題資料の発行を継続した。
 2000年7月1日、肺炎のため93歳で死去。河野洋平・土井たか子らの国内政治家を始め、中国・韓国など各国からも、政治家や政府関係者が葬儀に参列した。
 日中国交回復交渉の時だった。日本側は、日中戦争の賠償問題、賠償金額等を懸念していた。宇都宮は中国政府高官から「日本政府に賠償を求める考えはない。ドイツの例を見ても、戦争に負けた国に賠償金を求めても平和な関係は築けない」との方針を聞く。宇都宮は「心のなかで日本国民に代わって頭を下げた」という。
 韓国の軍事独裁体制時代。当時のKCIA(韓国中央情報部)によって民主化運動のリーダー金大中が拉致された時には、事件の真相究明と金大中の原状回復を主張し支援運動を行った。また、全斗煥体制下、死刑判決を受けた金大中の救命にも尽力した。
 寛容を旨とする。相手の立場を重視する。自己をひけらかし、それを相手に押し付ける愚を否定してやまない。右翼・極右に屈しない。外国との友好を第一に考える。侵略戦争と植民地政策で、史上まれにみる悲惨な災難を与えた、隣国との友好に対して、私財を投げ出し、生涯かけて取り組んだ。「平和・軍縮を忘れるな」。そう叫ぶ声が聞こえてきそうだ。リベラリストは権力に屈しない。「屈するな」が宇都宮の遺言でもあった。
 宇都宮の敬愛する石橋湛山は、軍部専制の暗い日々に堂々とこう言い放ったそうだ。「中国から一切手を引け」「朝鮮も台湾も進んで放棄せよ」「兵営の代りに学校を、軍艦の代りに工場を」「小さくても、平和で豊かで道義性の高い日本を作れ」
  


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2017年09月14日

そよ風のように街に出よう


朝日新聞「天声人語」(2017年9月14日)
<ある雑誌がこの夏、幕を閉じた。障害者問題総合誌「そよ風のように街に出よう」。障害者をめぐる理論や政策を論じるのが主眼ではない。当事者の生の声にこだわり、恋愛や出産など見過ごされがちだった問題を取り上げた
▼1979年に大阪で創刊した。障害者が街に出ることに今よりずっと覚悟のいる時代だった。偏見や先入観は根強く、通りを行く障害者に注がれる視線は冷たかった
▼反響を呼んだ特集「車いすひとりある記」は、脳性まひの男性が介助者なしで外出する体験記だ。駅員に「介助者がおれへんかったら乗ったらあかん」と拒まれる。「あんたは死んだ方がしあわせやで」と通行人に言われる
▼最終の91号まで編集長を務めた河野秀忠(カワノヒデタダ)さんが先週、亡くなった。74歳だった。「終刊を見届けて間もなかった。雑誌と一緒に逝ってしまった」と古くからの友人も驚く
▼「鉄の意志がなければ生きられない社会は、鉄のように冷たい」「社会に不可欠なのは水道、電気、ガス、そして福祉」「心のアンテナを全開状態にしていないと、風のように吹き抜ける幸せをつかまえられない」。河野さんが本紙に語っている。平易で奥深い言葉は、在野の哲学者を思わせる
▼「そよ風」の刊行された38年の間に、障害者の暮らしの幅は少しずつ着実に広がってきた。それでもなお、障害のある乗客は駅頭や搭乗口でしばしばとまどう。障害者施設の入所者が危害を加えられる。そよ風がくまなく社会に行き渡るのはいつだろう。>

 障害者にやさしくない社会は、私たち一人一人にもやさしくない社会である。社会に生きる人たちが支え合っていく「しくみ」は、人類の英知の到達点。たとえ逆風が吹きすさぼうと、私たちはそよ風のように街に出よう。「強い国家より、やさしい社会」を目指して。
  


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