› 近江大好きbiwap › 2013年12月

2013年12月31日

2013年を顧みて

「何と美しい! ……よくおにあいです!」 その場にいただれもがそう言いました。 「この世のものとは思えなく美しいがら、言いあらわしようのない色合い、すばらしい、りっぱな服だ!」と、みんなほめたたえるのでした。・・・王さまはかがみの前でくるっと回ってみせました。なぜなら王さまは自分の服に見とれているふりをしなければならなかったのですから。お付きのめしつかいはありもしない服のすそを持たなければなりませんでした。地面に両手をのばして、何かをかかえているようなふりをしました。やはりめしつかいも何も見えていないことを知られたくなかったので、すそを持ち上げているようなまねをしているのでした。王さまはきらびやかなてんがいの下、どうどうと行進していました。人々は通りやまどから王さまを見ていて、みんなこんなふうにさけんでいました。「ひゃぁ、新しい王さまの服はなんてめずらしいんでしょう! それにあの長いすそと言ったら! 本当によくおにあいだこと!」だれも自分が見えないと言うことを気づかれないようにしていました。自分は今の仕事にふさわしくないだとか、バカだとかいうことを知られたくなかったのです。ですから、今までこれほどひょうばんのいい服はありませんでした。 「でも、王さま、はだかだよ。」とつぜん、小さな子どもが王さまに向かって言いました。 「王さま、はだかだよ。」
  


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2013年12月29日

心の中の自由

自衛隊員の妻だった中谷康子さん。夫は公務中に事故死する。自衛隊は夫の霊を山口県護国神社に合祀した。クリスチャンだった中谷さんは、これを拒否し、「自衛官合祀拒否訴訟」が起こる。戦前、軍人が戦死した場合には靖国神社に合祀された。靖国神社は戦争犠牲者一般を祀るものではない。幕末に創建されたこの神社は、天皇のために戦い死んだ軍人を「英霊」として祀っている。だから、西郷隆盛は祀られていない。広島・長崎の被爆者も、沖縄戦の犠牲者も、空襲で死んでいった人たちも、侵略の犠牲になった人たちも。戦後、靖国神社は一宗教法人となるが、殉職した自衛隊員は出身地にある護国神社に合祀される。愛する人の死をどのような形で悼むかは、その個人の人格権であるはず。しかし、最高裁判決は中谷さんの訴えを退けた。多数意見に抗した伊藤正己裁判官の反対意見を引用する。「私は、基本的人権、特に精神的自由にかかわる問題を考える場合に少数者の保護という視点に立つことが必要であり、特に司法の場においてそれが要求されると考えている。多数支配を前提とする民主制にあっても、基本的人権として多数の意思をもっても奪うことのできない利益を守ることが要請されるのはこのためである。」
  


Posted by biwap at 06:28biwap哲学

2013年12月27日

相手は小町?

道草百人一首・その5
「天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ」(僧正遍昭)【12番】

 百人一首の中でもとりわけ人気の高い歌。でも、「お坊さん」とこの歌は何かピッタリとこないのであるが・・・。
 僧正遍昭。出家前の名は、良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)。宮廷で行われた「五節の舞」。少女たちの舞う姿があまりに美しかったので、歌った良岑宗貞の歌である。彼は、深草少将とも呼ばれていた。小野小町との恋愛は有名で、「深草少将百日通い」の伝説を残している。
 空の彼方に消え去る天女との別れ。もしかすると、天女は小野小町なのか?
 遍昭は、京都山科に元慶寺を創建し、花山僧正とも呼ばれた。近くには、宮内庁管轄の「桓武天皇皇孫遍昭僧正」の墓がある。
  


Posted by biwap at 06:21道草百人一首

2013年12月25日

石山寺の月

道草百人一首・その4
「めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな」(紫式部)【57番】

 新古今集詞書によると、幼友達と久しぶりに逢ったのに、それも束の間、月と競うように帰ってしまったということになる。しかし、この歌を詠んだ少し前に、紫式部は夫の藤原宣孝(ノブタカ)を亡くしている。夫を偲んで詠んだ歌と考える方が、realityがありそうだ。この後、紫式部は一条天皇の中宮・彰子に仕え、石山寺に参篭した際、「源氏物語」の着想を得たとされる。今からちょうど1000年ほど前のことである。石山寺にある紫式部像である。
  


Posted by biwap at 06:26道草百人一首

2013年12月23日

「紫」のインスピレーション


石山寺にある「源氏の間」。紫式部は、ここで源氏物語の構想を練ったという伝承があります。1000年前の名作「源氏物語」。当時の女性たちは、さぞ心ときめかせ読んだことでしょう。でも、身勝手な男「光源氏」の「光」に照らし出された「女性たちの物語」とも言えそうです。「近江史を歩く35」は、「石山寺と平安女流文学」です。
http://biwap.raindrop.jp/details1043.html (PC版)
http://biwap.raindrop.jp/sp/details1043.html (スマホ版)
  


Posted by biwap at 06:35近江史を歩く

2013年12月21日

山宣ひとり孤塁を守る

1928年3月15日、田中義一内閣は治安維持法に基づく一斉検挙を行った。拷問は熾烈をきわめた。衆議院議員となった山本宣治は、国会でこれを厳しく糾弾。彼の背後には、黒い影がつきまとう。4月27日、帝国議会に治安維持法改正案が上程された。死刑を含む刑罰の強化はあまりにも弾圧的として、改正案は審議未了となる。しかし、政府は緊急勅令により、これを強行。事後承認審議が1929年2月から始まった。国家権力による思想弾圧は、戦争への道を拓いていく。山本宣治は、反対演説の草稿を念入りにしたため、3月5日に登院するが、発言は封じられた。疲れきって神田の旅館に戻ったその夜の午後9時半のこと、1人の男が面会を求めてやってきた。男は、宣治に議員辞職勧告書を突きつける。突如、鋭い刃先が宣治の頸動脈を貫いた。宣治は血まみれで格闘するが、ついに息絶えた。享年39歳。「山宣ひとり孤塁を守る だが僕は淋しくない 背後には多くの大衆が・・・」。墓碑に刻まれた彼の言葉である。治安維持法は、侵略戦争への露払いの役割を果たしていった。
  


Posted by biwap at 06:26歴史の部屋

2013年12月19日

製パン王 キムラヤ

韓国ドラマでお馴染みの料理対決。今回はパンでした。そんな訳で、パンを作ってみたくなりました。それも、こだわりのアンパンを。その前に製パン王キム・タックならぬ、キムラヤのお話を。武士だった木村安兵衛は、明治維新後に失業し東京に出ます。ここでパンというものの存在を知った安兵衛は、妻のわずかな蓄えを元手に今の新橋駅あたりにパン屋「文英堂」を開きます(1869年)。成功間違いなし!と思ったのもつかの間、開店間もない「文英堂」は大火で全焼し、安兵衛一家は全てを失います。落ち込む心を振り切り、安兵衛はようやく銀座の煉瓦街に小さなお店を借ります。息子の英三郎とともに、商号を「木村屋」と変え、日夜パン作りに励みました。ところが、当時の日本にはパンを食べる習慣がありません。普通の西洋式パンは、ビールと同じ、ホップを用いたパン酵母で作られますが、安兵衛は日本酒酵母の麹を使って作りました。そして、この和風パンの中に、小豆あんを入れたのです。安兵衛は、このパンを「あんぱん」と名づけました。1874年に売り出したところ好評を博し、アンパンは全国的にブレークしていったそうです。アンパンこそ、日本文化を象徴しているものかもしれません。
  


Posted by biwap at 06:28歴史の部屋

2013年12月17日

キリシタン千利休

この絵は、神戸市南蛮美術館所有の南蛮屏風絵(狩野内膳筆)の一部である。右手にT字型の杖を持ち、左手に十字架のついたコンタンツ(ロザリオ)を持った老人がいる。フランシスコ・ザビエルより受洗した盲目の琵琶法師ロレンソりょう斎とされてきた。「キリシタン千利休」の著者山田無庵は、この老人を千利休であると考証する。老人の締める帯の色は濃緑色。長谷川等伯が描く利休像の帯も濃緑色である。利休の孫の宗旦像の帯も濃緑色。T字の杖についても、利休の子の小庵の肖像画や孫の宗旦が描かれた図に、似たものが描かれている。千利休キリシタン説は、以前からあった。しかし通説は、それに否定的である。理由は、利休の切腹自殺にある。キリスト教では、自殺を厳しく禁じている。しかし、この1点が崩れれば、利休キリシタン説は俄然浮上してくる。以前から利休あるいは茶道の周辺になぜ多くのキリシタンがいるのか不思議であった。利休賜死事件の時、堺へ蟄居を命じられた利休を淀の船着場で見送った人物が古田織部と細川忠興。古田織部の妻は高山右近(キリシタン大名の代表的存在)の妹。細川忠興の妻は、有名な細川ガラシア。利休高弟七哲の大半がキリシタン等々。状況証拠はあるが、心の中の世界はやはり闇の中である。
  


Posted by biwap at 06:23歴史の部屋

2013年12月15日

星を見つめる少年

長浜市国友町にある「星を見つめる少年」像。江戸時代後期、自作の望遠鏡で天体観測を続けた人物がいました。鉄砲鍛冶・国友一貫斎。その邸宅址前に建てられたのが、この像です。子どものような好奇心と探究心。一貫斎の心の中には、この「少年」が生き続けていたのでしょう。「近江史を歩く34」は、「鉄砲伝来と国友村」です。
http://biwap.raindrop.jp/details1042.html
  


Posted by biwap at 06:51近江史を歩く

2013年12月13日

盲目の琵琶法師

道草百人一首・その3
「これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)【10番】

 逢坂の関は、近江と山城との境に設けられた古代の関所があった所。境界の場であり、無縁の人々がたむろしていた。異形なる人々の偶像が、盲目の琵琶法師「蝉丸」。
 蝉丸は醍醐天皇の第四皇子として生まれるが、幼少の頃から盲目であった。天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう命ずる。 捨てられた蝉丸は、琵琶を抱き、杖を持ち、逢坂山の関に住む。
 「行く・帰る」「知る・知らぬ」「別れ・逢う」。三つの対句を駆使したこの歌には、万物流離・会者定離の無常思想が流れている。「逢う坂」は、私たちの人生の出会いと別れの場である。
  


Posted by biwap at 06:36道草百人一首