
2016年11月18日
百人一首の暗号

文暦二年(1235年)5月27日、友人の宇都宮頼綱に依頼された藤原定家は、自ら選んだ和歌百首を色紙に書いて嵯峨の小倉山荘の障子に貼った。「小倉百人一首」。
藤原定家の才能を高く評価した後鳥羽上皇。しかし、二人は些細な事で仲違いをしてしまう。その後、後鳥羽上皇は鎌倉幕府打倒の「承久の乱」に失敗。隠岐へ流罪となる。藤原定家は保身に走った。
隠岐に幽閉された後鳥羽の「生怨霊」。ついにある日、定家のもとへ後鳥羽の死が知らされる。定家は何かにとりつかれたように山荘にこもる。何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった。
後鳥羽上皇の歌「人も惜し 人も恨めし 味気なく 世を思ふゆゑに もの思ふには」
藤原定家の歌「来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」
百人一首の百首の歌を、たて十種よこ十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、隣り合う歌どうしが上下左右ともに「合わせ言葉」によってぴったりと結びつく。その中の合わせ言葉や歌詞を絵に置き換えていくと、水無瀬の里が浮かび上がるという。京都の西南、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地。後鳥羽の隠岐配流とともに、水無瀬離宮も荒廃していった。歌織物と水無瀬絵図のジグソーパズル。「ダ・ヴィンチ・コード」ならぬ「定家コード」。
2016年06月23日
むかし、男ありけり

昔、男があった。手に入りそうもない女のもとに長年通い続けてきたのだが、とうとう盗み出して、たいへん暗い所に来た。芥川という河のあたりを、女を連れて走っていったところ、草の上に露が降りているのを、「あれは何じゃ」と男にたずねた。
男はまだまだ逃げないといけないし、夜も更けてしまったので、そこが鬼のいる所とも知らないで、雷さえひどく鳴っていて雨もざあざあ降っているので、みすぼらしい倉に、女を奥に押し込んで、男は弓とやなぐいを背負って戸口で見張りしていた。
「早く夜が明ければいいのに」と思いながら見張りをしていたところ、鬼がたちまち女を一口で食ってしまった。「あれ」と叫んだのだが、雷が鳴っていて騒がしく、男は女の声を聞き取ることができなかった。
だんだん夜が明けてきた頃、見れば昨夜連れてきた女の姿が無い。男は地団太をして泣いたがどうしようもない。
白玉か何かだろうかと貴女が問われた時、「あれは露です」と答えて私も露のように消えてしまえばよかったのに。そうしていたらこんな悲しみを味わわないですんだのに。
「むかし、男ありけり。女のえ得まじかりるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗みいでて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。
ゆく先おほく、夜もふけにければ、鬼ある所ともしらで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる倉に、女をば奥におし入れて、男、弓、胡簗を負ひて戸口にをり、はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。
「あなや」といひければ、神鳴るさわぎに、え聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
『白玉か何ぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを』 」 <『伊勢物語』第6段「芥川の段」>
男の名は在原業平(アリワラノナリヒラ)。五条屋敷にいた藤原高子(タカイコ)のところに通っていた。高子は、いずれ天皇の后となる身。業平なんぞにとられてたまるかと、高子の兄たちは警備の番人を立てた。このとき業平30代前半、高子10代。
業平が口説いて肩に背負って逃げ出したところ、兄の基経らは追手を掛け、高子を屋敷に連れ戻した。この事件の後、業平は東国へ流浪の旅(東下り)。
高子は清和天皇のもとに入内。高子が生んだ陽成天皇。父親は業平ではと噂がたつ。
鬼一口(オニヒトクチ)。鬼が一口にして人間を食い殺すことをいう。しかし、人が鬼なのだ。
人の子、陽成の心は病み、ロマンチックな暴君と化す。(http://biwap.shiga-saku.net/e1003986.html)
果たして業平のお相手は誰だったのか。(http://biwap.shiga-saku.net/e1259283.html)
2016年05月02日
ちはやふる


このところ連戦連敗中の日本映画だったが、理屈抜きに面白かった。競技かるたを題材とした少女漫画「ちはやふる」の映画化。単行本の発行部数は累計1200万部を突破。恋愛・友情・離別・再会といった青春ストーリーに「熱血スポーツ漫画」的要素。いかにも胃にもたれそうだが、この映画の魅力は「和風あっさり味」。
ヒロイン広瀬すずのキャラが勝敗を決したともいえるのだが、意外にも配役発表時には、バッシングが過熱。ネット上で、「千早役は広瀬すずに合わない」「広瀬すずなら観ない」などの言葉が飛び交った。人気作品の実写化である以上、確かに誰がヒロインを演じることになっても原作ファンからの反発が出る。原作マンガでの千早は、身長167cmですこぶる美人。158cmの飾らない少女・広瀬すず。でも、その天真爛漫さが、映画「千早」を生み出した。
タイトルの「ちはやふる」は、小倉百人一首17番「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」に由来。在原業平が禁じられた恋の相手を想って詠んだとされる。「私の燃える想いが、激しい水の流れを真っ赤に染め上げてしまうほど、今でもあなたを愛しています」。
「ちはやぶる」とは「勢いの強いさま」。強い勢いが一点に集中している状態を表し、「神」の枕詞として使われる。自分の中にある秘められたエネルギーかもしれない。この映画の主題は、その「自分発見の旅」。人が自分の心の中に、静かに耳を傾けるべき「声」。それこそ、「ちはやぶる」。
2015年07月02日
「蝉丸」事件の現在

世阿弥作「蝉丸」

蝉丸は醍醐天皇の第四皇子として生まれるが、幼少の頃から盲目であった。

天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう命ずる。捨てられた蝉丸は、琵琶を抱き、杖を持ち、逢坂山の関に住む。

蝉丸の姉、第三皇女逆髪は、髪が逆立つ奇病。

弟蝉丸を訪ね、やがて琵琶の音に導かれて再会を果たすことになる。

暫しの間、互いの不運を嘆き慰め合う二人。逆髪はまた何処へともなく立ち去って行く。蝉丸は見えぬ目で去り行く姉を見送った。
1934年、能「蝉丸」に対し「皇室の尊厳」を損なうとし右翼団体が糾弾した。内務省は、右翼の主張に過敏に反応。「『蝉丸』の上演を永久に禁止」する方向で検討を開始した。といっても、明確な禁止措置を採るのではなく、一種の「自粛要請」という名の圧力。戦後の1947年まで、「蝉丸」の上演は一度もおこなわれなかった。「蝉丸上演自粛事件」である。
「ウルトラ(右翼)の兄弟たち」に支えられた現政権。そっくりなマスコミへの「自粛要請」。メディアを懲らしめようという思い上がりに、心も凍りつきそうである。
2014年12月08日
悪の権化・大伴黒主

積恋雪関扉(ツモルコイ ユキノ セキノト)、通称「関の扉」(セキノト)は、歌舞伎演目の一つ。
雪の降り積もる逢坂の関。不思議なことに小町桜が咲いている。そのかたわらに、後の僧正遍照である良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)が隠棲していた。
元の恋人・小野小町が通りかかり、その仲を関守の関兵衛が取持とうとする。しかし、関兵衛はどこか怪しい。実は関兵衛こそ、天下を狙う大伴黒主であった。
野望の成就祈願に使う護摩木にするため、小町桜を切り倒そうとする。ところがそのとたん、五体がしびれ身動きが取れなくなる。そこに薄墨と名乗る遊女が現れ、関兵衛をくどきはじめる。実は薄墨こそ、小町桜の精であった。
小町桜の精は、かって傾城薄墨となって宗貞の弟である安貞と相愛の仲となった。しかし、その安貞は黒主に殺されてしまう。その恨みを晴らすため人の姿となって現れたのである。やがて二人は互いの正体を現し激しく争う。

ここに登場する僧正遍照(良岑宗貞)、小野小町、大伴黒主は、いずれも 「六歌仙」。六歌仙たちを互いに絡ませ、美しい桜をバックに演じられる幻想的な舞踊劇、それが「積恋雪関扉(ツモルコイユキノセキノト)」である。
六歌仙の中で唯一、小倉百人一首に撰ばれていないのが大友黒主(オオトモ ノクロヌシ)。大伴黒主は、近江国滋賀郡大友郷の人。貞観年間、園城寺神祀別当となる。没後、近江国志賀郡に祀られた。壬申の乱で敗れた天智の子・大友皇子の末裔であるとも言われるが、出自の大友村主氏は渡来系氏族である。

祇園祭山鉾の一つに、「黒主山」がある。謡曲「志賀」にちなんだもの。
「帝に仕える臣下が、近江国志賀の山桜を眺めていた。老若ふたりの樵(キコリ)に出会うが、老人の樵が背負う薪には、花の枝が添えられていた。不審に思い尋ねると、老人は分不相応なふるまいも紀貫之が書き示した歌の道に叶う姿だという。そして自分が黒主、人は山神とも見るだろうと告げ志賀の宮へ帰る。その夜、花陰に休む一行の前に志賀明神が現れて、花吹雪の中、神楽を舞う」。
なぜか悪役となった黒主。畏怖と賤視の向こうに、体制への反逆者を垣間見る。

2014年05月30日
和泉式部・恋の遍歴

年齢順に清少納言・和泉式部・紫式部。清少納言を酷評した「紫式部日記」は、和泉式部についても手厳しい。「歌の方は、そこそこだけど、あまり知的じゃないようね。それに、あの異性関係はどうもね」といった具合。数少ない経験を醸成させ、妄想をめぐらせる紫式部。和泉式部の華々しい恋の遍歴には、心穏やかならず。

橘道貞(タチバナノミチサダ)と最初の結婚をする。彼が和泉国に赴任したことから、「和泉式部」と呼ばれる。この時に生まれた娘が小式部内侍(百人一首60番)。恋愛伝説は、ここからスタート。
冷泉院の第三皇子・為尊(タメタカ)親王が、夫も子もある和泉式部にアタック。美男子で遊び人である天皇の息子との破滅的な恋。しかし、為尊親王は若くして亡くなる。
その一年後。今度は弟である敦道(アツミチ)親王が、言い寄ってきた。ダブル不倫。彼の妻は怒って家を出てしまう。敦道は渡りに船と、和泉式部を家に入れてしまう。結局、和泉式部も夫・道貞と離婚。
この恋がどのように終ったのか、やがて彼女は実家に戻り、中宮彰子の女房として出仕する。

10月朧月の夜に一人で笛を吹いて道を行く者があった。それを見つけた袴垂という盗賊の首領が衣装を奪おうとその者の後をつけたが、どうにも恐ろしく手を出すことができなかった。その者は逆に袴垂を自らの家に連れ込んで衣を与えたところ、袴垂は慌てて逃げ帰ったという。
武勇で名をはせたその者の名は藤原保昌(ヤスマサ) 。和泉式部に紫宸殿の梅を手折って欲しいと請われ、警護の北面武士に矢を射掛けられながらも見事に紅梅をゲット。京都祇園祭の「保昌山」のモチーフにもなっている。
式部はこの藤原保昌と再婚し、夫の任国・丹後に下った。娘・小式部内侍の「大江山 いく野の道の 遠ければ」の歌はこの時のもの。しかし、この娘も若くして先立ってしまう。娘を亡くした式部の愛傷歌は胸を打つものがある。
この恋多き女性、晩年の動静は不明である。
2014年04月25日
平安のライバル対決

「清少納言は利口ぶったイヤな女」。紫式部日記での酷評。清少納言は才気煥発で明るく気が強い。内省的な紫式部には、苦手な存在だったのかもしれない。
藤原道隆は、娘・定子(テイシ)を一条天皇の后とする。しかし父・道隆が亡くなると、定子は後ろ盾を失う。逆に叔父・道長は娘の彰子(ショウシ)を一条天皇のもとに強引に入内させる。天皇が2人の妻(中宮)を持つ異常事態が発生。
定子に仕えていたのが清少納言。漢詩を題材とした歌で、漢籍を好む一条天皇にアピールさせた。
美しく聡明な定子の頼るものは、もはや一条の愛しかない。しかし様々な陰謀の中、定子は出産で衰弱し、24歳の若さで他界する。亡き定子を慕う一条。道長の娘・彰子には、なかなか子どもが授からない。そんなあせりの中、道長の目にとまったのが、「源氏物語」の作者・紫式部。
清少納言は宮廷を去り、山里での隠遁生活に。紫式部の仕えた彰子は、ついに唯一の中宮となる。
権力闘争の勝者・藤原道長は後にこう歌った。「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」。
「源氏物語」を貫く精神が「もののあはれ」(情感)なら、「枕草子」を貫くものは「いとをかし」(好奇心)。権力闘争は二人の女性の感性をも対立項とさせた。
2013年09月05日
六歌仙の謎
858年、文徳天皇が原因不明の急な病に倒れる。藤原良房の娘を母とする惟仁(コレヒト)親王はまだ9歳。一方、紀氏の娘を母とする惟喬(コレタカ)親王は既に15歳だった。藤原氏をバックにした弟惟仁親王が即位し、清和天皇となる。良房は、さらに娘高子(タカイコ)を清和天皇の皇后にする。
高子入内の少し前、惟喬親王と親しかった在原業平は高子と駆け落ちを試みている。摂津芥川まで逃げるが、追っ手によって都に連れ戻される。高子は入内し皇后となり、その9年後に貞明親王を生む。後の陽成天皇。精神的に不安定な人物であった。業平は捕らえられ、東国に落ち延びた。伊勢物語の「東下り」である。
一方、権力者良房は、惟喬親王の周りの人間を徹底的に排除する。
惟喬親王と親しかったのが、良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)。「天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ」。宮廷で行われた「五節の舞」。少女たちの舞う姿があまりに美しかったので、歌った良岑宗貞の歌である。良岑宗貞は、政争の中、出家。僧正遍昭である。彼は、深草少将とも呼ばれていた。小野小町との恋愛は有名で、「深草少将百日通い」の伝説を残している。
一方、天皇の更衣であった小野小町も宮廷を追放。小町は、仁明・文徳天皇に愛され、惟喬親王の側に仕えていた。在原業平、僧正遍昭、小野小町、高子のサロンに出入りした文屋康秀、雲に乗って飛び去ったという喜撰法師、園城寺に関わった謎の人物大伴黒主。
六歌仙とは、いったい何者なのだ?惟喬親王の母は、紀氏。六歌仙の選者は、紀貫之である。
高子入内の少し前、惟喬親王と親しかった在原業平は高子と駆け落ちを試みている。摂津芥川まで逃げるが、追っ手によって都に連れ戻される。高子は入内し皇后となり、その9年後に貞明親王を生む。後の陽成天皇。精神的に不安定な人物であった。業平は捕らえられ、東国に落ち延びた。伊勢物語の「東下り」である。
一方、権力者良房は、惟喬親王の周りの人間を徹底的に排除する。
惟喬親王と親しかったのが、良岑宗貞(ヨシミネノムネサダ)。「天つ風 雲のかよひ路 ふきとぢよ 乙女のすがた しばしとどめむ」。宮廷で行われた「五節の舞」。少女たちの舞う姿があまりに美しかったので、歌った良岑宗貞の歌である。良岑宗貞は、政争の中、出家。僧正遍昭である。彼は、深草少将とも呼ばれていた。小野小町との恋愛は有名で、「深草少将百日通い」の伝説を残している。
一方、天皇の更衣であった小野小町も宮廷を追放。小町は、仁明・文徳天皇に愛され、惟喬親王の側に仕えていた。在原業平、僧正遍昭、小野小町、高子のサロンに出入りした文屋康秀、雲に乗って飛び去ったという喜撰法師、園城寺に関わった謎の人物大伴黒主。
六歌仙とは、いったい何者なのだ?惟喬親王の母は、紀氏。六歌仙の選者は、紀貫之である。

2013年08月19日
百人一首の謎
藤原定家による私撰和歌集である「百人一首」。なぜ、天智から始まり後鳥羽・順徳で終わるのか。けっこう駄作も多い。同じ言葉・同じ情景が、何度も登場。しかも、出てくる人物はなかなかのクセ者揃いで、怨霊になってそうな人たちも。謎解き本も読んでみたが、スッキリしない。とりあえず、百首を勝手に読んでみよう。
「道草百人一首」
http://biwap.shiga-saku.net/c48217.html
「エピソード百人一首」
http://biwap.shiga-saku.net/c52127.html
「道草百人一首」
http://biwap.shiga-saku.net/c48217.html
「エピソード百人一首」
http://biwap.shiga-saku.net/c52127.html

2013年07月12日
蝉丸伝説
自分の一番核心に触れるエリアがあります。今回の「蝉丸」もその一つ。ドクサ(思い込み)から解放された時、見れども見えなかった世界が広がってきます。いつまでも、想像力と冒険心を枯渇させないようにしたい。「近江史を歩く19」は、「蝉丸伝説と逢坂山」です。
http://biwap.raindrop.jp/details1026.html
http://biwap.raindrop.jp/details1026.html
