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2022年09月27日

Amazonに労組を!


 あり余った資金が国民生活に還元されず、株式市場でのバクチや不動産に流れ、住宅価格や物価が高騰する。真面目に働く労働者でさえアパートにも入れず路上で暮らしている。医療保険がないため医者にもかかれず、薬代や医療費破産が過去最高に達し、インフルエンザですら毎年数万人が死亡する。学生はローン返済で首が回らない。「自由の国」アメリカの「新自由主義」の姿だ。
 コロナ・パンデミックの中、新自由主義がもたらした犯罪性が明らかになり、若者や労働者たちが自分自身の力で行動を起こし新しい高揚をつくり出している。


 年間売上高1584億㌦(22兆6000億円)を達成し、「世界小売業ランキング2021」で2位となったアマゾン。現在、米国で50万人以上を雇用するモンスター企業。創業者ジェフ・ベゾスは米国でもっとも裕福な3人のうちの1人だといわれる。
 新型コロナが猛威を振るった2020年春以降、アマゾンの利用者は急増。企業が記録的な利益をあげる一方で、従業員は劣悪な状態で酷使されている。破滅的な作業ペース、懲罰的な監視、高い労働災害率。
 物流倉庫JFK8では毎日約5000人が働いている。その多くが黒人やヒスパニックである。JFK8では人手不足となり、毎日大量の労働者が採用され、同時に多くの者がやめていった。
 とくに企業の感染対策はきわめて不十分で、感染者や濃厚接触者となれば自宅待機となって給料は支払われない。エッセンシャルワーカーと持ち上げながら、労働実態は低賃金の使い捨てであることに、労働者の怒りは爆発した。
 しかし、有給休暇や健康管理の改善、危険手当の支給などを企業に要求するために労働組合をつくろうとすると、壁が立ちはだかる。米連邦法の規定では、労働組合をつくるにはその職場の全従業員の30%以上の署名を得た上で、全国労働関係委員会に組合結成選挙の申請を行わなければならない。その後、全従業員による選挙をおこなって過半数を獲得してはじめて労組結成となる。
 JFK8の場合、5000人の30%は1500人だ。それを20~30代の若者たちが、既存の大産別労組の支援をまったく受けないで、自分たち自身の力で一人一人に訴えてやりとげた。


  アマゾン初の労組結成を祝う労働者たち(4月13日)


 ニューヨーク市スタテン島にある物流倉庫「JFK8」で4月、アマゾン初の労働組合「アマゾン労働組合(ALU)」が結成されたというニュースは世界に衝撃を与えた。労組の代表は33歳、アフリカ系アメリカ人のクリス・スモールズだ。「あのアマゾンでできたのだから、どこでもできるはずだ」と、全米の労働者を勇気づけた。
 組合結成に対してアマゾンは、25件以上の異議を申し立てており、全国労働関係委員会がアマゾン労組の側に偏っていると非難している。しかし4月の勝利以来、アマゾン労組(組合員約8000人)には全国の100のアマゾン施設の労働者から「組合を結成したい」との声が寄せられている。


  スターバックスの組合つぶしに抗議するデモ(4月23日)

 同様の動きになっているのが、米コーヒーチェーン最大手のスターバックスだ。スターバックスでの労組結成の波は、2021年12月、ニューヨーク州バッファローの店舗で始まった。そこでの従業員投票では、19対8で勝利。同社初の労組が誕生、そこから「スターバックス・ワーカーズ・ユナイテッド」への大結集が始まった。労組発足の中心を担ったのは24歳の女性だ。
 それから8カ月経った2022年8月末には、新しい組合は全米225店舗で組合選挙に勝利。6000人以上が新規に加盟した。その多くが高校生や大学生、大学卒業したての若者だ。そしてこれらの店舗の3分の1がストライキに突入し、さらに数百の店舗が組合結成を準備しているという。
 スターバックスの従業員が問題にしているのは、パンデミックで客や従業員のなかで感染者が急増し、身の危険を感じて保護シールドなどを求めているのに、企業側が安全対策としてなにもしなかったこと、対応しきれないほど多くの客が来ているのに、人員が十分確保されていなかったことなどだ。「エッセンシャルワーカー」といわれながら消耗品にされている現実に皆が怒り、そこから組合結成に動いたという。
 一方、CEO(最高経営責任者)のハワード・シュルツは大規模な反組合キャンペーンを開始。組合を結成した数十の店舗を閉鎖し、全国80人以上の組合指導者を解雇した。また、監視や脅迫を行い、さらには「全国労働関係委員会が組合と共謀して詐欺を行っている」といって訴訟まで起こす有様。労働法違反を含むなりふり構わない「労組つぶし」を仕掛けている。組合つぶしのために、CIAのエージェントを雇ったことも暴露されている。
 これに対して各地のスターバックス労組は、組合活動家の解雇、人員不足、労働時間(シフト)の削減、企業による組合支持者のスパイ行為などに対して抗議するストライキをおこなって反撃している。
 スターバックスは、テネシー州メンフィスのポプラ・アンド・ハイランド店で、今年2月、組合組織委員会の7人全員(黒人とヒスパニック)を報復解雇した。これはもっとも悪質な人種差別的組合つぶしだとして、地域住民の憤激を呼び起こした。それから半年後の8月、連邦判事は7人の復職を命じ、企業は彼らを再雇用した。


  スターバックス本社前で抗議する従業員たち(2月15日)

 こうした運動の担い手は、プロの労働組合活動家とは無縁の、労働運動の経験がほとんどない、有名な大学などに通う高学歴の若者たちだ。彼らが義憤と賢さを発揮して、大規模な組合攻撃を跳ね返し、その経験を「Zoom」などを使ったオンライン会議で全米の店舗に広げることで同僚に手を差し伸べ、それが労組の急増につながっている。
 これに対して企業側は組合つぶしのプロを雇って各店舗に派遣し、従業員たちを拘束して組合から脱退するよう説得しているが、若者たちはそのマニュアルを分析して撃退法を編み出し、それを各店舗で共有しており、組合つぶしの側が彼らに言い負かされてすごすごと帰って行くのだという。今では組合つぶしが来るのを楽しみに待つまでに若者たちが労働運動の組織者として成長しているのだという。
 この中で、SDGsやブラック・ライブズ・マター(BLM、黒人の命を守る)運動、セクシャル・マイノリティの権利に賛同する「リベラル」な姿勢を売りにしてきた「スターバックス」のインチキを暴き出している。


  ストライキを決行した医療労働者(9月12日)

 こうした動きの中心を担っているのが、20~30代の若者たちだ。2008年のリーマン・ショック以降、不安定雇用が拡大して低賃金や失業に苦しむ者が増え、大学の学費は高騰して奨学金のローン地獄に陥る若者が増大するなど、行き詰まる資本主義の矛盾が若者に集中してあらわれた。現在、アメリカの18歳から29歳の若者の過半数が資本主義に反対しており、33%が社会主義に肯定的だという調査結果も出ている。
 1980年代にレーガン政権が「新自由主義」に舵を切って以降、「小さな政府」を掲げた民営化や規制緩和による私的利益追求の結果、経済格差は拡大し大多数の貧困化が進んだ。しかしアメリカの労働運動は、新自由主義に対して抵抗力を失い、譲歩に次ぐ譲歩を重ねてきた。現在、アメリカの労働組合組織率は、全労働者のわずか10%程度にとどまっている。労働組合は弁護士とスタッフが年金管理などをおこなう管理会社のようになっており、労組幹部は高い給料を懐に入れていると揶揄されている。
 一方、新自由主義に対する抵抗運動は徐々に表面化し力をつけてきた。そうした蓄積のうえに、昨年の世論調査では「労働運動を支持する」と答えた人は米国民の68%と、1965年以来最高になった。成績優秀な大学生のなかでも、世界的IT企業で活躍したいという以前の志向は影を潜め、労働運動にかかわる仕事に人生を捧げたいと考える人が増えているそうだ。
 今年6月にシカゴで開催された「レイバーノーツ(労働運動のなかに本物を取り戻そう)」大会には約4000人が参加した。1979年設立当時は数十人から数百人規模だった。しかも参加者の中身も、従来の組合専従活動家から一変し、多くが現場の労働者であり、スターバックスやアマゾンから10代、20代、30代の労働者がたくさん参加したという。
 アメリカの政党である「アメリカ民主社会主義者(DSA) 」は、かつて党員が5000人程度、それも60~70代が多かったのが、今では20~30代が中心になり、党員も10万人をこえたといわれる。「民主社会主義者」の大会では、大会決議はなく、党員はみな平等で自由な立場で参加し、支部をつくるのも党員に任されている。ただ、重要問題については盛んに論議をして一致を勝ちとり、そのなかからすぐれた活動家が次々に生まれている。
 そこで掲げられている社会主義とは新自由主義反対であり、私益にもとづいた経済政策、疎外された労働、富と権力の不平等、人種・性別・性的志向などあらゆる差別を拒絶し、資源や生産手段の一元的管理、公平な再分配などを主張している。また、政策として国民皆保険、最低賃金の引き上げ、大学の学費の無償化などを掲げ、支持を広げている。
 アメリカ労働運動の新たな高揚は、新自由主義に対する歴史的な反撃であり、そこに「新しい社会」への志向を見てとることができる。
 中江兆民は言った
 「自由は取るべき物なり、もらうべき品にあらず」
  


Posted by biwap at 11:11辛口政治批評

2022年09月13日

女王を悼めども、帝国を悼むまじ


豪シドニー・オペラハウスに映し出されるエリザベス女王の肖像


 英国の女王エリザベス2世が8日、96歳で亡くなった。在位70年。「大英帝国」元首となると、現在この地球上で生きている人間の大半が、彼女にまつわるなんらかの記憶を保持している。
 英王室が植民地主義の象徴であったことは間違いない。エリザベスを悼むのは白人国家に限られている。インド人はエリザベスの死を悼むまい。
 The New York Timesの記事「女王を悼(イタ)めども、帝国を悼むまじ」(Mourn the Queen, Not Her Empire 2022/9/8)では、「光」の裏にある「影」にも触れている。たとえば、植民地での暴虐を詳述した「不都合な」文書が、長らく隠蔽もしくは破棄されていたことなど。
 首相がバッキンガム宮殿で女王と会談した内容は「ブラックボックス」とされるのが掟であった。「私がこの世で信頼する人間は二人だけ。一人は妻、もう一人は女王」と言った首相もいたとか。ともあれそこは、「開かれた」どころか機密だらけの場であった。
 ダイアナ妃の時の、国民から「冷たい」と言われてやっとの追悼演説。世界の支配構造の表も裏も知り尽くしたベテラン女王には、「開いた」ことよりも「閉じて」おいたことの方がはるかに多かった。女王の抱えていた重圧は察するに余りある。
 女王陛下という、世界の大きな「ブラックボックス」が消えた後、英連邦では不穏な動きが。
 ところで、カナダの国家元首は、オーストラリアの国家元首は、ニュージーランドの国家元首は、いったい誰か?
 答えはすべて「チャールズ3世」。少し前までは「エリザベス2世」だった。世界にはこんな「アホな話」がザラにある。


豪キャンベラにある連邦議会議事堂前のエリザベス女王像


 英君主となった国王「チャールズ3世」は、英国以外の14カ国の公式の元首でもある。こうした国々には、オーストラリア、ニュージーランド、カナダおよびカリブ海と太平洋の幾つかの島国が含まれる。
 ニュージーランドの先住民マオリで、共和制運動に積極的に参加し、学界で働くアレティ・メトゥアメート氏は「変化が起きると確信している。人々はこれから、この問題についてもっと真剣に考え始めるだろう」と話した。
 女王の死去以前から、一部の国は、植民地主義に由来する英君主との関係を終わらせるべきだとの考えを示唆していた。バルバドスは昨年、君主制を放棄した。英連邦だった国でこうした動きが見られたのは約30年ぶりだった。ジャマイカを含む他の幾つかのカリブ諸国も、関係を断つ準備を進めている。
 カリブ海の島国アンティグア・バーブーダのガストン・ブラウン首相は、11日に放映された英テレビネットワーク、ITVニュースとのインタビューで、恐らく3年以内に、共和国に移行すべきかどうかについて国民投票を実施したいと語った。アンティグア・バーブーダは、かつて英国が領有していた。
 カナダの調査機関アンガス・リード研究所が4月に発表した世論調査によると、カナダ国民の60%近くがバルバドスやジャマイカなどの国が君主制を断ち切ろうとする動きを支持していることが示された。また、カナダ国民の半数は、同国が今後何世代にもわたって立憲君主制を維持すべきだとは考えていないと答えた。
 オーストラリアの最近の世論調査では、君主制存続より共和制移行を支持する国民が多いことを示している。中道左派のアンソニー・アルバニージー首相は今年5月の総選挙で勝利を収めた後、共和制問題の担当相を任命し、この問題に改めて国民の関心を引き寄せた。
 ニュージーランドでは、2016年の国民投票で、国旗からユニオンジャックを消し去るという案が否決された。しかし、一部の議員は共和制への移行を求める活動を展開している。マオリ党は今年、英君主をニュージーランドの国家元首とする現行制度の廃止を求めた。
 「アベの国葬」に比べて「エリザベスの国葬」は格が違うんだと、「アベ国葬批判」の文脈でリベラル風な人が喋っていた。イヤイヤ、国葬や君主制の持つ差別性にキチンと目を向けなきゃ。この世に数多(アマタ)ある「アホな話」に立ち向かっていかなきゃ。
  


Posted by biwap at 11:19辛口政治批評

2022年09月12日

君知るやウトロ




 京都府宇治市伊勢田町ウトロ。ここは戦時中、軍事飛行場建設のために働いた朝鮮人の飯場があった場所で、戦後も在日朝鮮人のコミュニティが維持され続けたところ。昨年、「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」による放火事件に見舞われた。2022年4月30日、その歴史を伝える「ウトロ平和祈念館」がオープンした。




中村一成著『ウトロ ここで生き、ここで死ぬ』より

 ウトロ住民の一人、1919年生まれの文光子は、現在の韓国慶尚南道・馬山の農村に生まれた。故郷の思い出は、植民地宗主国日本の収奪にあえぐ村の人々の姿だった。日本のためにコメを増産する計画が進み、借金で没落した小作農は流動性の高い底辺労働力となった。近所の人が泣きながら姿を消していく。彼女の一家も夜逃げのようにして釜山から下関に渡り、親戚を頼って東京に向かった。


 1939年、国は国内5カ所に航空乗員養成所と付属飛行場の建設を計画した。中国との戦争が泥沼化し、日米開戦が迫るなか、空軍力の増強をもくろんだのだ。事業者は民間会社・国際工業で、京都では宇治市の優良耕地をその対象にした。滑走路のための盛り土は現在のウトロ地区から採取することにし、スコップやツルハシで土砂を採る労働力(1日2000人といわれる)の主力は、全国から集まってきた朝鮮人だった。


 そして大倉組(現・大成建設)や竹中組(現・竹中工務店)がウトロに飯場を建て、朝鮮人の親方が管理した。木造バラックの棟割り長屋で、一家族に与えられたのは六畳一間と土間のみ。大雨や台風になると床上床下浸水が当たり前、加えて汲みとり便所からあふれ出すという状態が、ごく最近まで続いたという。男たちは日が出てから沈むまで、1日14時間働いた時期もあった。


 1945年8月15日の日本の敗戦は、朝鮮人にとっては苦難の根源である植民地支配の終焉だった。「大人は家から出て来て“マンセー、マンセー”いうて喜んで、一世は“もう重労働せんでえぇ”なんて大声でいうてたな」
 だが、国際工業は一方的に労働者を解雇していなくなり、たちまち食べるためのたたかいが始まった。子どもたちは豚のエサにする残飯を集めたり、飛行場を占拠した米軍の演習場にもぐり込んで薬きょうを集めた。


 そんな貧困のどん底で、大人たちがもっとも力を注いだのがウトロに学舎を開設することだった。ある朝鮮人の復員軍人が子どもたちにいう。
「言葉も歴史も知らんでどんな人間になる気なんや。僕らの第二の人生踏まんように君らは勉強せなあかん」「ええか、これが僕たちの文字や。これを組み合わせるとな、世界中のどんな音だってあらわすことができるんやぞ」
 路上の綴り方教室に子どもたちが感激し、乾いた砂のように知識を吸収する場面には胸が熱くなる。またコミュニティには互いに助けあう温かい気持ちが流れていることも強く印象に残る。


 しかし、こうして全国にできた朝鮮人学校を、GHQが「共産主義者の巣」とみなして根絶やしに乗り出した。朝鮮戦争が始まると、これに反対するウトロの住民に日本の警察が襲いかかった。
 日本政府は朝鮮人に対して、戦時中は同じ「皇国臣民」として戦場や軍需工場、炭鉱に駆り出して日本人以上の酷使をおこないながら、戦後は日本国籍を喪失させる外国人化を一方的におこなって社会保障の対象外とし、一方朝鮮半島は二分され自分の国に自由に帰ることもままならなくした。


 それに加えて1962年からは、国際工業を吸収した日産車体がウトロの住民を「不法占拠」といい、立ち退きを要求し始めた。
 日産車体は、ウトロに住む自称町内会長の男性(在日韓国人)と密かに交渉を進め、ウトロの土地をこの男性に売却し、この男性が1億円余の利益を懐にすることと引き替えに不動産会社に転売する。
 不動産会社は三栄地所とマンション建設の契約を締結し、立ち退きに応じないウトロの69世帯の相手に裁判を起こした(1989年)。当時のウトロの居住者は80世帯・約380人なので、ほぼ全員が被告となったわけだ。


 しかし、住民たちも負けてはいない。住民たちの訴えは日本人の支援者にも支えられ、市外・県外の世論、さらに韓国の世論まで動かして局面を打開していく。
 ウトロの住民は多くが中卒で、マイクを握って人前で話すのも初めての人ばかり。その最初の舞台が1990年の京都市で開かれた女性たちの集会だった。年輩の女性たちが飛行場工事の厳しさや敗戦後の苦労、故国に帰れなかった無念、バラックの惨めさ、読み書きができないことや差別について話す。するとそばに控えていた屈強な男性たち、中には小指のない人もいたが、みな体を震わせてボロボロ泣いている。自分たちの女房の話を初めて聞いたのだ。


 日産本社への抗議パレードのさいには、女性たちがつくった農楽隊が活躍する。東京の銀座の通りを、民族衣装をまとい、チャンゴなどの民族楽器を打ち鳴らし、数百人が歩きながら訴えた。そのことが「一生の思い出やね。ほんまに楽しかったんやで」「右翼の街宣カーが来たけど、へっちゃらやった」という。
 あるウトロの年輩女性は「私は日本人をずっと恨んで生きてきた。でもあんたら頑張ってくれるやろ。もう日本人恨んだまま死なんですむわ、感謝してる」といった。
 2000年11月、裁判が最高裁で敗訴し、もはや強制執行かというそのときには、韓国で民主化運動をたたかってきた30代の女性たちがウトロを訪れ、その実情を韓国に伝える。こうした日本と韓国の市民の立ち上がりがついに韓国政府を動かし、日本政府も動かざるを得なかった。
 近隣諸国の民族同士をいがみあわせ、殺しあわせる戦争の無惨さ。一方で、日本と韓国・朝鮮の市民の平和と友好の願いの強さ。著者はこの本の意図を、「あったことをなかったことにする」国やマスメディアに対する<異議申し立て>であると述べている。

  


Posted by biwap at 09:38KOREAへの関心

2022年09月09日

悪霊ダボスマン


 ピーター・S・グッドマン著『ダボスマン 世界経済をぶち壊した億万長者たち』より




 パンデミックによって世界で650万人以上の人命が失われ、何億という人々が貧困と飢餓に苦しんでいる。直接手を下したのはコロナウイルスだが、深刻な影響を拡大したのはダボスマンと呼ばれる者たちの行動だ。
 ダボスマンたちは、パンデミックから遠く離れた海岸沿いの豪邸や山間の隠れ家リゾート、高級ヨットのなかにとどまって災厄を逃れつつ、株や不動産で莫大な利益を上げ、かつてない繁栄を謳歌している。




 ダボスマンとは、例年スイスのリゾート地で開かれる世界経済フォーラム(ダボス会議)に集まる億万長者たちのことだ。会議は表向き、気候変動、ジェンダー間の不平等、デジタル化の未来などを討議する場だが、その舞台裏ではダボスマンたちが各国の国家元首や政府高官たちとビジネスの契約を結び、世界経済のルールをつくる。そこは地球上で最大のロビー活動の場といわれる。


 レーガン政権が新自由主義に舵を切って以降の40年間で、アメリカ人のうちわずか1%の最富裕層が総計21兆㌦の富を手にし、同時に下半分の層の資産は9000億㌦減少した。
 世界的に見れば、もっとも豊かな10人の超大富豪の財産を合計するだけで、もっとも貧しい85カ国の経済規模を上回る。
 ダボスマンは世界各地のタックスヘイブン(租税回避地)に約7兆6000億㌦を秘蔵しており、その大半が未申告で各国税務当局の手が及ばない。



 こうした事実を見るだけで、ダボスマンによる世界経済の改造が歴史的な窃盗行為に等しいことがわかる。そのうえ、こうした経済的苦境や格差を道具に憎しみを煽り立て、他民族への恐怖をたきつける政党が支持を拡大し、各地の紛争は武器商人にビジネスチャンスをもたらす。



 ダボスマンの行動はウソと偽善で塗り固められている。シリコンバレーの巨大ソフトウェア企業セールスフォースの創業者であるマーク・ベニオフは2018年、自社のあるサンフランシスコでホームレス問題解決の新税を後押しし、みずからも年間1000万㌦を払うとのべた。ところがこの年、セールスフォースの純利益は130億㌦をこえていたが、連邦税の納付額はゼロだった。


 というのも、クリントン政権の時代に財務省が開けた抜け穴によって租税回避の仕組みをつくっていたからだ。彼らはタックスヘイブンに子会社を設置して、そこに自社の知的財産権を移し、この新しい海外拠点から国内のグループ内法人に法外な額の知的財産権使用料を請求して赤字にするわけだ。
 この抜け穴ができてから15年間で、企業への実質的な課税水準は35%から26%に急落し、米財務省は年間600億㌦の税収を失ったといわれる。その分、低所得者層への福祉は切り捨てられる。


 考えてみれば、彼らが利益を上げることができるのは、インターネットをはじめとする社会インフラがあってこそで、それは税金によってつくられたものだ。しかしダボスマンは、納税義務は逃れつつ各国政府からむさぼりとる。


 ダボスマンは医療や公衆衛生をぶち壊し、パンデミックを深刻化させた。世界有数の投資ファンド・ブラックストーンの創業者スティーブ・シュワルツマンは、金のなる木を医療に見出した。
 彼は全米規模で救急外来に医師やスタッフを派遣する二大企業の一つ、チームヘルスを支配下に収めた。投資ファンドは実質的に相手の医療業務全体を買収する。ただ、法的には医師たちが監督権限を持ち続けているよう体裁だけ整え、国による規制を回避した。
 投資ファンドは「利益を出せ」の一点張りで、病院を統合して病床を減らし、診療費を上げた。十分な収益を生まない医療機関は閉鎖した。コスト削減のため、防護マスクや人工呼吸器の購入を控えた。
 救急医療の現場では、医師たちが下すさまざまな医療的処置と、治療をできるだけ早く終わらせることにのみ利益を見出す経営側の指示とが、しばしば正面からぶつかっていたという。


 こうしてパンデミックが到来した時点で、全米の総病床数は92万4000で、40年前から150万床近くが削られていた。災厄に対する備えなどないに等しかった。そのうえ連邦政府はコロナ患者を優先し、緊急性のない手術を控えるよう指示したが、投資ファンドは大口の収入減を失うのを恐れてそれも無視した。
 世界最大の100万人以上の死者は、そうした状況を背景にして生まれたのに違いない。一方、2020年のシュワルツマンの報酬総額は6億㌦をこえ、前年の2割増しとなった。
 ダボスマンが無制限に富をむさぼることを保障するのは、連邦政府との癒着である。そのためにお抱えのロビイストや会計士、シンクタンク、広報コンサルタントを最大限に活用し、彼らに有利な法律をつくらせる。


 ダボスマンがトランプを支持したのは、トランプが法人税を35%から21%に引き下げる「減税パッケージ」を成立させたのが一因だった。だから2020年の大統領選で、ブラックストーンのシュワルツマンはトランプに4000万㌦以上を献金した。減税政策を止めさせないこと、成功報酬の税優遇を廃止したり規制を強化したりさせないためだ。
 同時に同社の最高執行責任者ジョン・グレイは、バイデンに多額の献金をした。リスクを分散させて保険をかけたわけだ。


 バイデンは当初、大規模な財政出動や法人税の引き上げを語った。だが、政権が発足すると、経済問題担当の大統領補佐官には世界最大の資産運用会社ブラックロックのブライアン・ディーズが就いた。


 財務長官に就任したジャネット・イエレンは、過去2年間、ヘッジファンドを含む大手企業向けの講演謝礼で700万㌦を稼いでいる。


 こうしてホワイトハウスの主が誰になろうと、ダボスマンの地位は不動のように見える。しかし、彼らの行為があまりにも反社会的であるために、いまや世界経済の構造的欠陥について多くの人が気づき始め、1%に対する99%のたたかいが始まり、それが各国政府を揺るがしている。現在の資本主義社会は次の制度への過渡期にあることが明らかになる。

  


Posted by biwap at 09:55辛口政治批評

2022年09月08日

ジャカルタ・メソッド


 ヴィンセント=ベヴィンス著『ジャカルタ・メソッド』より


 インドネシアは1万3000余りにのぼる多様な島々からなる群島国家。島々には数百の異なる民族が住み、使用される言語は700以上にのぼる。世界で4番目に人口の多い国(約2億7000万人)で、豊富な天然資源があることでも知られる。
 数百年続いた搾取と隷属の植民地状態から解放され、独立を勝ちとったのが第二次大戦後の1949年。オランダ人が撤退したとき、読み書きができる人は人口のわずか5%だった。それほど自分たち自身の民族や文化に対する知識のあらかたを失っていた。


 初代大統領スカルノはイスラム教徒で民族主義者だったが、石油産業の国有化を進め、「土地は耕す者のもの」という土地改革を促し、イスラム教徒が多数を占める国でヒンズー教徒により多くの自由を与えるなど宗教的多様性も認めた。
 当時、イスラム同盟は反植民地主義を掲げ、共産主義者はマルクスとコーランの両方から影響を受け、ソ連を含む外国の異教徒たちの指示に従わず、外国の支配に反対し独立インドネシアを支持するという思いがインドネシア人を一つに結びつけていた。


 人種、宗教、国境を問題にしないこのナショナリズムは、数世紀に及ぶ植民地主義に対抗して生まれたものだった。1955年4月にインドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議は「人類史上初めての有色人種による大陸間会議」といわれ、国連加盟国のおよそ3分の1の国々の、約15億人を代表する人々が集った。
 これはヨーロッパ帝国主義に対抗し、かつ米ソ両大国から独立を守る運動で、「全人類の平等と大小を問わずすべての国の平等」「大国の侵略行為や脅しの自制」「あらゆる国際的不和の平和的手段による解決」などを掲げた。インドのネルーとインドネシアのスカルノはそのリーダーだった。


 だがアメリカにとって、それは許しがたいことだった。中立主義そのものが反則行為であり、ソ連に対して敵対行為をとらない者は誰であれアメリカの敵だった。善か悪か、ヒーローか悪党かのどちらかしかない。
 すでにアメリカは、イランで、グアテマラで、ブラジルで、いうことを聞かない政権をCIAの謀略と武器・資金の援助によって転覆させていた。1964年8月にはトンキン湾事件をでっちあげ、ベトナムへの全面戦争を開始した。


 そして、1965年9月30日が来た。その日の深夜、共産主義者の「9月30日運動」がクーデターを起こしたが鎮圧したと陸軍のスハルト少将が発表し、全権を掌握した。
 スハルトが作った物語は、「共産主義者の婦人団体のメンバーが裸になって踊りながら、将軍たちの手足を切り刻み、拷問し、性器を切断し、目をえぐり出し、殺害した」「中国が武器を密かに届けていた」というもので、遺体の写真とあわせて国中に拡散した。
 するとスマトラ島の軍司令官が「共産主義者を根こそぎ殲滅せよ!」と演説し(10月7日)、この日から大量殺人が始まった。軍と警察がおびただしい人を真夜中に逮捕し、その後その人たちは消えた。残された家族には消息さえわからず、恐怖で身動きがとれなくなった。死体が累々と積み重なり、川の流れをせき止め、国中におぞましい悪臭をはなったという。虐殺はインドネシアの他の島にも広がり、翌年まで続いた。


 スハルトの作った物語を西側の報道機関はほとんどそのまま伝え、「アジア人は原始的で、後進的で、暴力的」という固定観念を広げた。だが、これは最初からホワイトハウスとCIAのシナリオ通りだった。米国政府はインドネシア軍隊内親米派に武器も資金も訓練も与え、アメリカ大使館は共産主義者と疑われる数千人の名前が書かれた分厚い名簿を軍に手渡していたことが、後に明らかになっている。
 そしてスカルノはスハルトに権力を移譲する書類に署名させられ、全閣僚は逮捕された。アメリカは即座に経済支援を再開し、ビジネスチャンスを得るためインドネシアに乗り込んだ。石油国有化は阻止され、地球最大の金鉱はアメリカの鉱業会社フリーポートが手に入れた。


 背後でアメリカ政府とCIAがかかわり、100万人以上の市民が虐殺されたといわれるインドネシアの「9・30事件」(1965年)。米ソ両超大国のどちらからも一定の距離を置き、第三世界のリーダーだったインドネシアを、一夜にしてアメリカ陣営の従順な一員に組み込んだこのジェノサイド(集団虐殺)については、長い間国際社会が黙殺し、事件を生き延びた人も投獄されているか恐怖に口をつぐんでいて、真相は闇に葬られてきた。
 無辜の一般市民の大量殺戮をともなうこの反共「絶滅」プログラムは、1945年から90年にかけて、チリやニカラグア、フィリピンをはじめ23カ国で実行された。それはアメリカの「自由と民主主義」がいかなるものかを暴露するものだった。


 多くの血が流され、人々が悲しみや恐怖にうちひしがれた。それはアメリカ本国や同盟国ではほとんど報道されなかったが、第三世界の人々はけっして忘れなかった。その歴史のうえに現在、アメリカは中東からもラテンアメリカからも叩き出され、反米政権が続々と誕生し、歴史の大きな転換期を迎えている。
  


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2022年09月06日

知られざる台湾の友



 1919年頃から、山川均・菊栄夫妻の家には、山口小静(コシズ)(19歳)ら数人の女子大生が出入りするようになった。週1回のペースで労働問題や社会主義やロシア革命についての研究会が開かれるようになる。当時女性は、夫や子どもにひたすら仕えるものとされ、政治結社に参加するのはもとより、政治演説を聴くことさえ禁じられ、戸外で3人以上集まるときは警察に届けなくてはならなかった。


 東京女子高等師範学校の秀才・山口小静は社会主義者と接触したことが知られ、退学処分となる。小静は生まれ故郷の台北へ帰郷。東京にいた時からエスペラントには相当の実力があり、台北のエスペランティストの中心にいた連温卿と交流することになる。


 連温卿は1895年4月、台北に生まれる。日本の台湾支配が始まった年である。植民地支配の負の遺産を一身に背負った世代である。学校教育では日本語が強制された。台湾で通用している様々な言語を改良して民族の言語を作りたい。そんな思いが連温卿をエスペラント運動へと向かわせた。
 1923年、連は仲間と共に社会問題研究会を結成する。この時期、台北の女子学校で教員をしていた山口小静と知り合い、小静の紹介で山川均・菊栄夫妻と交流するようになる。
 台湾の社会運動の核となったのは台湾議会設置請願運動だった。台湾では、日本が設置した台湾総督府の独裁的な権限が認められており、台湾人の間では自治を要求する声が高かった。そこで案出されたのが台湾議会設置の請願だった。
 台湾議会期成同盟会が結成されたが、総督府は請願運動の活動家たちを治安警察法違反で逮捕した。総督府の強圧的態度、請願運動の無力と軟弱さへの失望、社会主義思想の影響などから運動は分裂していった。
 コミュンテルン指導の下に台湾共産党が結成された。上海大学で中国共産党の影響を受けたメンバーが中心だった。運動からアナーキスト系が排除され、山川均と親しかった連温卿も山川イズムの社会民主主義者として糾弾された。「単に資本主義と戦うのみでなく、これら社会民主主義者ともまた、戦わなければならない。最も陰険な憎むべき左翼社会民主主義者・連一派と最も徹底的に戦わねばならないのだ」
 社会民主主義を主敵とする台湾共産党の方針が、コミュンテルンの指令に基づいていたことは明らかだ。1931年、全島的な大弾圧の下、台湾共産党は壊滅状態になる。連温卿は政治運動から退隠し、民俗学の研究に専心する。生涯、社会主義への信念は失わなかった。


 1945年に日本が敗戦した後の台湾では、国共内戦に敗れた蔣介石・中国国民党が、官僚や軍人らを率い大陸から進駐。台湾の行政を引き継いだ。
 中国から来た国民党政府の官僚や軍人らを歓迎した台湾の人たちも、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き失望した。中国から来た軍人・官僚は質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が処罰されぬこともしばしばあった。人々の不満は高まっていった。
 1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた女性を、中華民国の官憲が摘発。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は民衆に威嚇発砲し、まったく無関係な台湾人を死亡させてしまった。


 この事件をきっかけとし、民衆の「中華民国」への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した(二・二八事件)。
 嘉義市の議員で民衆側に立った陳澄波が市中引き回しのうえ、嘉義駅前で銃殺されたのをはじめ、この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑された。


 1949年5月19日に改めて発令された戒厳令は38年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されていった。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、1992年に李登輝総統が登場し、言論の自由が認められてからのことである。
 台湾の「山川主義者」連温卿は、1947年の「2・28事件」の連累を幸いまぬかれ、1957年11月に死去した。山川均の死に先立つ約4か月だった。
 プロレタリアート独裁や暴力革命を否定した社会主義者山川均は、日本型社会民主主義の道を模索し1958年1月7日に永眠。


 日本人が台湾で疑いの目をもって見られる中、山口小静だけは「口先ばかりでない真実の台湾の友として、戦友として迎えられていた」と連温卿は言う。『山川均全集』第五巻にエスペラント旗を持った連温卿と山口小静が並んだ写真が掲載されている。連温卿が山川に送ったものであろう。
 台北に帰郷した山口小静は、その1年半後には病死している。台北の女学校で教えたり、ロシアの飢饉救済の募金活動に奔走したという。小静は台湾の社会運動と山川を結びつけた人物として歴史に名を刻んだ。
 堺利彦は山口小静の遺書に次のような弔辞を残している。
「また一つの莟(ツボミ)が落ちた/立ちどまり/振り返り/いとほしむ暇もない/我々の道の歩み」
  


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