› 近江大好きbiwap › 2019年05月

2019年05月03日

『記者たち 衝撃と畏怖の真実』


 2002年、アメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュは「大量破壊兵器保持」を理由に、イラク侵攻に踏み切ろうとしていた。
 中堅新聞社ナイト・リッダーのワシントン支局長ジョン・ウォルコット(ロブ・ライナー)は、部下のジョナサン・ランデー(ウディ・ハレルソン)、ウォーレン・ストロベル(ジェームズ・マースデン)、そして元従軍記者でジャーナリストのジョー・ギャロウェイ(トミー・リー・ジョーンズ)に取材を指示するが、破壊兵器の証拠は見つからず、やがて政府の捏造、情報操作である事を突き止める。


 真実を伝えるために批判記事を世に送り出していく4人だったが、NYタイムズやワシントン・ポストなどの大手新聞社は政府の方針を追認、ナイト・リッダーはかつてないほど愛国心が高まった世間の潮流の中で孤立していく。
 記者たちは大義なき戦争を止めようと、米兵、イラク市民、家族や恋人の命を危険にさらす政府の嘘を暴こうと奮闘する…


 2001年の9.11同時多発テロは、世界の流れを大きく変えた。日本においても排外主義的ナショナリズムが現在に至るまで暗い雲のように覆っている。
 2003年、アメリカ政府が“衝撃と畏怖”と名付けた軍事戦略であるイラク戦争が勃発。今やイラク戦争は、9.11後のアメリカを覆った異様な空気(愛国、報復、好戦)を巧みに利用し、政府が捏造した情報によって始まったとされる。


 米国の主要メディアは政府に迎合していった。ニューヨーク・タイムズは、イラクにあったアルミ管を「核兵器をつくるウランを濃縮するためのものだ」と書いた。政権側がメディアにネタを流すことで世論を操作した。ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストのような大手新聞が「大量破壊兵器はある」と報道するとみんなが信じた。ずるずると引き摺られるようにして悲惨な戦争が始まった。


 誰もがおかしいと思っているのに、「それなら、大量破壊兵器はないという証拠を見せてみろ」と言われた。イラク側が「大量破壊兵器はない」と主張しても、「いや、どこかに隠したんだ」と米国側に反論されてしまう。
 そんな状況の中で、「そもそも大量破壊兵器はあるという根拠がおかしい」と終始主張したのがナイト・リッダー社だった。唯一、異を唱えたナイト・リッダーの記者たちの動静を、実話を基に正攻法に映画化したのが『記者たち 衝撃と畏怖の真実』だ。


 この映画の監督でもあるロブ・ライナー演じるワシントン支局長がクライマックスで「ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストを読んでいるのは兵士を送る側だ。我々の読者は兵士を出す側なんだ」と演説するシーンが感動的だった。
 兵士を出す側、つまり記者は権力者側ではなく庶民側の視点から記事を書かなければいけない。その伏線として、この映画の冒頭から最後のシーンまでイラク戦争に志願していった黒人青年とその家族の話が描かれている。米国において戦争は紛れもなく「現実」なのだと改めて思い知らされた。どこかの国では、「平和ボケ」などとうそぶく「戦争を知らないおっさん」たちの好戦志向が無邪気に語られている。


 黒人青年の母親もそうだが、この映画の中の女性たちはとても魅力的だ。化粧していないすっぴん顔と知的で自分の意志と意見を持った女性たちがこの映画をとても立体的にしている。


 アクション女優のイメージが強いミラ・ジョヴォヴィッチ。夫役のウディ・ハレルソンとベッドの上で、主婦目線vs記者目線で語り合う。ジョヴォヴィッチ演じる妻は旧ユーゴスラビア出身という設定で、「愛国心」というワードにとても敏感だ。彼女の実際の父親はモンテネグロ人。


 若手記者ウォーレン役のジェームズ・マースデンとその恋人役ジェシカ・ビールとのやりとりもとてもチャーミングだ。一見地味そうな社会派ドラマみたいだが、少しも飽きさせずに「人間ドラマ」を作り上げていった手法はさすがだ。けっしてポピュリズムではない「民主主義」への信頼と信念。学ぶべきものは、いくらでもあるようだ。

  


Posted by biwap at 18:11芸術と人間

2019年05月02日

映画「主戦場」


<ドキュメンタリー映画『主戦場』日本緊急公開決定! ひっくり返るのは歴史か、それともあなたの常識か。ようこそ「慰安婦問題」論争の渦中へ。>
 京都シネマは、「立ち見」まで出る満席状態だった。ケント・ギルバート、杉田水脈、テキサス親父、櫻井よしこ、藤岡信勝といった今をときめく「愛国者」の皆さんが生き生きとインタビューに答える。人が好いから騙されて喋ってしまったと今頃ネットで騒いでいるが、いやいや結構嬉しそうに答えていましたよ。


 「主戦場」とは、論争で相手を叩き潰すというネトウヨ用語。従軍慰安婦を否定・矮小化する極右ネトウヨ論客が勢揃いし、慰安婦問題に取り組むリベラル派の学者や運動家らとスクリーンのなかで“激突”する。直接対決ではなく、論点を絞った相互のインタビューがテンポよく重ねられていく。判断するのはそれを見た観客。


 映画の公開前には、極右歴史修正主義者やネトウヨ文化人が多数ラインナップされていることから「否定派の宣伝になるのではないか」との懸念の声もあった。だが、この映画は単なる「両論併記」ではない。
 ミキ・デザキ監督は次のように語っている。
 「論点を並べて“どっちもどっちだ”というやり方は、実のところ政治的なスタンスの表明に他なりません。慰安婦問題に関しては、いま日本では右派の主張がメインストリームになっている。そこに挑戦を示さないことは、彼らの言いなりになるということであり、その現状を容認することに他なりませんから。日本のメディアの多くは両論併記を落としどころにしていますが、それは、客観主義を装うことで、語るべきことにライトを当てていないということ。単に並べるだけでなく、比較することで生まれる結論があります」
 映画は双方の主張を取材や資料を用いて細かく比較・検証し、その矛盾や恣意性を明らかにしていく。


 インタビューを重ねるだけの一見退屈そうな映画なのに、ハラハラドキドキと「主戦場」の中に引きこまれていく。途中から、これは「映画」なのだと思った。そして、こんな「映画」もあるのだと思った。こんな「映画」の面白さもあるのだと思った。


 観客は文字を追いかけているわけではない。話し手の表情、息遣い、人格そのものまでがひしひしと伝わってくる。それは、言葉以上に冗舌に私たちに語りかけてくる。この映画の醍醐味はそこにある。


 本作が映画デビュー作となるミキ・デザキ監督。1983年生まれの日系アメリカ人2世。日本での英語教師やタイでの僧侶経験もあるという異色の映像作家。映画終了後の舞台あいさつでこんな話をした。「高校で英語の授業をしていた。テンポよくやらないと生徒は寝てしまいますからね」


 映画を見た後、無知がいかに罪なのかを改めて思い知らされた。私たちはパンとサーカスに飼い慣らされた従順な羊になってしまってはいけない。改元のバカ騒ぎの中、「羊」にだけはなるまいと妙な闘志を燃やしながら映画館を出た。  


Posted by biwap at 09:50芸術と人間KOREAへの関心