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2020年08月27日

ムーミンの夢


 ムーミンの国では、世界最年少女性首相が「1日6時間労働・週休3日制」の実現に向け具体的検討を始めた。
 どんな労働も強制されれば苦役になる。労働を自己実現として取り戻すために必要なのは「自発的な意思」。人間が自分の生を自己実現として取り戻すために必要なのは「自由な時間」。
 いつまでも弱肉強食の競争原理に翻弄される私たちの社会。それを当たり前のこととして疑わないことこそ最大の知的怠慢だ。


<2019年12月に史上最年少の34歳でフィンランド首相に就任したサンナ・マリーンは、8月24日に与党・社会民主党の会合で基調講演に登壇。
 党首就任直後に掲げた目標のひとつである「労働時間の短縮」を実現するため、「明確なビジョンと具体的なロードマップ」を打ち出す必要があると強調した。
 現地紙「ウーシ・スオミ」の報道によると、マリーン首相の発言の核心部分は以下の通り。
 「労働時間の短縮という目標は、決して脇に押しやられるべきではありません。そして、労働時間を短縮することと、高い就業率や堅固な財政を維持することとは、まったく矛盾しないのです」
 「社会全体として、企業として、従業員として、それぞれが労働生産性を向上させるために努力する必要があります」
 「富を公正に分配する方法のひとつは、労働条件を改善し、収入を減らすことなく労働時間を短縮することです」
 「さまざまな研究や実証実験により、労働時間の短縮は生産性の改善をもたらし、その効果によって、企業側は6時間の労働に対して8時間分の報酬を提供できることが明らかになっています」
 こう述べた上で、マリーン首相は次の党大会の期間中に、冒頭の「明確なビジョンと具体的なロードマップ」を打ち出す方針を明らかにした。>(“Business Insider Japan”2020.8.26.)


 東海大学北欧学科講師の柴山由理子さんは、「選挙ドットコム」(2019.12.16.)の中で次のように解説している。

選挙ドットコム編集部(以下、選):「今回、サンナ・マリーン氏が当選しましたが、フィンランドをよく知る柴山さんにとって、これはどのような現象ととらえますか?『やっぱり!』なのでしょうか、『驚き!』なのでしょうか」
柴山由理子さん(以下、柴):「どちらもですね。今回のことも、北欧は男女平等が当たり前という流れで語られることが多いですが、フィンランドの女性首相は3人目。うち1人はすぐに退陣したので、実質過去に1人でした。言うほど輩出しているわけではないのです」
選:「意外ですね。もっと当たり前のように女性のリーダーが過去にもいたのかと…。」
柴:「今、フィンランドの政党は女性や若手を擁立するところが増えています。2016年に伝統的な小規模政党である左派同盟が女性を党首に据え、緑の党、中央党などほかの政党も女性を党首にしてイメージをよくする連鎖がありました。その流れの中で、あ、社民党もこういう方法をとったのか、という意味で驚きはないです」


   (フィンランド連立政権の党首たち)

選:「女性を党首にする流れはごく最近のことなのですね。今回、社民党とともに連立政権を組む4党すべてのリーダーが女性で、そのうち3人が30代と聞きました」
柴:「フィンランドではいま、伝統的な政治がうまくいっていないのは各政党共通しています。有権者の不安、不満を受けて、自分たちをどうリニューアルするか、もがいている真っ最中です。リニューアルに成功しているのが、左派同盟ですね。『マルクス主義』などの伝統的な左派のイメージではなく、ヒューマニズムを重んじる政策を前面に打ち出し、高学歴の30~40歳代の女性の支持を得ています。『モダンレフティスト』と呼ばれます」
選:「モダンレフティスト!かっこいいですね。日本でも流行らせたい(笑)。ところで、柴山さんはなぜフィンランドをご専門に?」
柴:「高校時代にフィンランド人の留学生が来ていて仲良くなり、大学に入って最初の夏休みにフィンランドに旅行に行きました。人口2000人くらいのド田舎に滞在したのですが、ド田舎だけどインフラはしっかりしていて、人々もオープン。高校生も普通の感覚で英語でしゃべってくれる。社会民主主義の『普遍的にみんなに配分しよう』という雰囲気を感じました。行き届いた現代的な雰囲気に、いい意味で衝撃を受けました」
選:「フィンランドは独立から100年あまりの若い国で、変化をおそれない土壌があると聞きました」
柴:「そうですね。その後、大学でヘルシンキ大学に1年間交換留学をしたのですが、そこで出会ったデザイン会社の社長に気に入られ、学生だけど日本支店を任されることになったのです(笑) そういうことが起こりえる土壌はありますね」


選:「フィンランドの選挙システムは日本と違いますか?」
柴:「フィンランドは比例代表制です。多党制で、伝統的な三大政党の国民連合党、社会民主党、中央党があり、左派同盟などの伝統的小規模政党とキリスト教民主党などの比較的新しい政党があります。環境政党の緑の党も新しいですね。与党は三大政党が頻繁に入れ替わります。一番支持率を取れていても、全体の2割前後なので、どう連立のグループをつくるかが毎回焦点になります。有権者側としては、それぞれの政党の主義主張がわかりやすく、有権者が『自分の考えを代表してくれる』政党はどこか、選びやすいです。自分たちの社会を自分たちでつくる関心が高い。今年4月の議会選挙は投票率が72.1%でした」
選:「フィンランドは女性に普通被選挙権を与えた最初の国とのことですが、それは社会主義の背景があるからなのでしょうか?」
柴:「普通選挙権を求めていた時代、フィンランドはロシアに支配されていたので、女性が男性から選挙権を獲得したいという国内の利害の対立というよりも、独立を獲得するという国外との対立軸のほうが強かったのです。その延長線上に普通選挙権獲得もあって、独立の流れとつながっていた。それと、フィンランドは農民が多く、男女のパワーバランス差が少なかったのです。工業化モデルのほうが男性優位になります。もともと国内の男女の格差が大きくなかったということですね」


選:「日本の有権者が政治や選挙をもっと身近に感じるには、どうしたら良いでしょう?」
柴:「日本だと政治家は遠い存在で、『友達になりたい』という気持ちが動かないんですよね。フィンランドでは選挙期間中、公園にそれぞれの政党の選挙小屋ができて、気軽におしゃべりしたりお茶を出していたりします。ポスターもオシャレ」
柴:「それと、このところの若手、女性擁立の流れの一つの要因はSNSですね。政治家がFacebookやTwitterで発信しだした。73歳の最年長の国政議員もFacebookでニュースをシェアしてコメントするなど使いこなしています。サンナ・マリーンさんはインスタが上手と定評があります。日本のようにカリスマを追いかけるというよりも、もう少しフラットな関係です。選挙の時もSNSで盛り上がります。『〇〇候補、応援してね』とか、『選挙キャンペーンにいってきたよ』とか、みんな身近な話題として気軽に発信しています」
選:「SNSは、政治で使おうとするとセンセーショナルな使い方で人気取りに使われてしまう懸念もあります」
柴:「フィンランドでも、ある意味、政治がポピュリズム化しているというのはあると思います。今回の結果はそういう要素もある。でもマリーン氏には、そうした瞬間的な『流れ』『トレンド』で終わってほしくないなと思いますね」


 「社会の強さは、富裕層が持つ富の大きさではなく、最も弱い立場の成員がどれほど豊かで快適な生活を送れているかによって計るべきものである」(サンナ・マリーン)
  


Posted by biwap at 09:34

2020年08月25日

新羅の王子アメノヒボコ

近江史を歩く09「草津市安羅神社」


 草津市穴村。穴村は古来より「灸治の里」として知られていた。1920年代には、代々伝わる墨灸が「穴村のもんもん」として評判を呼び、鉄道や汽船を利用して多くの患者が集まった。


 今の「あなむら診療所」である。実は、このルーツは意外なところにある。


 草津市穴村にある安羅神社。その由緒書を読むと、日本医術の祖神とある。祭神は天日槍(アメノヒボコ)。「古事記」には渡来した新羅の王子とされ、近江の国「吾名村」で陶器を作る窯を築いて土器を焼く技術を伝え、従者の何人かを鏡村に残し、但馬の国出石に居所を定めたとされている。


 「吾名村」の場所については諸説あるが、その有力な一つが草津市穴村である。ヒボコの従者がこの地にとどまり特殊技能を伝えたとされる。医術・陶器・土木・鉄工業をもたらしたとされるが、おそらく何らかの渡来集団の存在がその背景にあるのだろう。地元の人が安羅さんと呼んでいる、その神殿には社宝として、黒色の小石が眠っている。原始医術として、石を火にあぶり、温め患部に当てて、治療したのだと推定されている。「穴村のもんもん」のルーツである。  


Posted by biwap at 14:12近江史を歩くHP

2020年08月24日

ホタル大名と松丸

近江史を歩く08「近江今津宝幢院」



 近江今津にある宝幢院。京極高次を主人公にした水上勉「湖笛」の冒頭に出てくる場所である。この寺の奥にある野ざらしの墓の主が武田元明。若狭武田氏の当主武田元明は、本能寺の変後、羽柴秀吉に呼び出され、自害させられる。


 この元明の妻が絶世の美女と評判の高い竜子である。竜子は夫を殺害された上、その当の怨敵である秀吉の室となる。この辺は、淀殿の屈折した心境にも通じるものがある。しかし、秀吉の寵愛を受けた竜子は松丸と呼ばれ、醍醐の花見でその淀殿と張り合う。この場面はドラマや映画にも登場する有名な場面である。


 さてこの竜子の兄(弟という説も)が、京極高次。本能寺の変で、明智光秀についた高次は、没落した名門京極氏の再興もままならず、逃げ回ることになる。
 しかし、その後の高次はトントン拍子の出世を果たし、大津六万石の城主になってしまう。そんな高次に対し、しょせんは妹竜子や妻初(淀殿の妹、江の姉)の二人の女性によって大名にのし上がったのだという陰口が叩かれることになる。つまり、妹や妻の尻の光(閨閥)で出世した「ホタル大名」だという不名誉な名称を頂戴するのだ。



 京極竜子は、秀吉の死後、剃髪し高次のもとに身を寄せることになる。大坂の陣の後には、六条河原で処刑された秀頼の子国松の遺体を引き取り、埋葬をしたりもしている。京都東山、秀吉を祀る豊国廟に竜子の墓所がある。  


Posted by biwap at 15:06近江史を歩くHP

2020年08月12日

インパール作戦



 インドシナ半島西に位置するビルマ(現ミャンマー)。1944年3月に決行されたインパール作戦は、インドにあるイギリス軍の拠点インパールを雨季の来るまでの3週間で攻略する計画だった。3つの師団を中心に、9万の将兵によって実行された。
 3週間分の食糧しか持たされていなかった兵士たちの前に、川幅600メートルにおよぶチンドウィン河が立ちはだかった。空襲を避けるため夜間に渡河したが、荷物の運搬と食用のための牛は、その半数が流された。
 さらに河を渡った兵士たちの目の前には、標高2000メートルを超えるアラカン山系。車が走れる道はほとんどなく、トラックや大砲は解体して持ち運ぶしかない。崖が迫る悪路の行軍は、想像を絶するものだった。大河を渡り、山岳地帯の道なき道を進む兵士たちは、戦いを前に消耗していった。


 作戦開始から2週間。インパールまで直線距離110キロの一帯で、日本軍とイギリス軍の大規模な戦闘が勃発。インパールを目指した第33師団は、イギリス軍の戦車砲や機関銃をあび、1000人以上の死傷者を出す大敗北を喫す。


 牟田口司令官のもとには、作戦の変更を求める訴えが相次ぐが。
 「牟田口軍司令官から作戦参謀に『どのくらいの損害が出るか』と質問があり、『ハイ、5000人殺せばとれると思います』と返事。最初は敵を5000人殺すのかと思った。それは、味方の師団で5000人の損害が出るということだった。まるで虫けらでも殺すみたいに、隷下部隊の損害を表現する。参謀部の将校から『何千人殺せば、どこがとれる』という言葉をよく耳にした」(齋藤博圀少尉)
 「コヒマに到着するまでに、補給された食糧はほとんど消費していた。後方から補給物資が届くことはなく、コヒマ周辺の食糧情勢は絶望的になった」(佐藤幸徳師団長)


 3週間で攻略するはずだったコヒマ。ここでの戦闘は2か月間続き、死者は3000人を超えた。しかし、太平洋戦線で敗退が続く中、凄惨なコヒマでの戦いは日本では華々しく報道された。
 日本軍の最高統帥機関、大本営は戦場の現実を顧みることなく、一度始めた作戦の継続に固執していた。
 「報告を開始した秦中将は『インパール作戦が成功する確率は極めて低い』と語った。東條大将は、即座に彼の発言を制止し話題を変えた。わずかにしらけた空気が会議室内に流れた。秦中将の報告はおよそ半分で終えた」(元秘書官西浦大佐)


 この翌日、東條大将は天皇へ次のように上奏している。
 「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力するを必要と存じます」


 インパールまで15キロ。第33師団は、丘の上に陣取ったイギリス軍を突破しようと試みる。この丘は、日本兵の多くの血が流れたことから、「レッドヒル」と呼ばれている。日本軍に戦える力はほとんど残されていなかった。牟田口司令官は、残存兵力をここに集め、「100メートルでも前に進め」と総突撃を指示し続けた。武器も弾薬もない中で追い立てられた兵士たちは、次々に命を落としていった。


 1944年6月、インド、ビルマ国境地帯は雨期に入った。3週間で攻略するはずだった作戦の開始から3か月、1万人近くが命を落としていた。
 司令官たちはそれでも作戦中止を判断しなかった。戦死者はさらに増えていった。大本営が作戦中止をようやく決定したのは7月1日。開始から4か月がたっていた。しかし、インパール作戦の悲劇は作戦中止後にむしろ深まっていく。実に戦死者の6割が、作戦中止後に命を落としている。


 「レッドヒル」一帯の戦いで敗北した第33師団は、激しい雨の中、敵の攻撃にさらされながらの撤退を余儀なくされた。チンドウィン河を越える400キロもの撤退路で兵士は次々に倒れ、死体が積み重なっていった。腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ。自らの運命を呪った兵士たちは、撤退路を「白骨街道」と呼んだ。
 「(インドヒョウが)人間を食うてるとこは見たことあったよ、2回も3回も見ることあった。ハゲタカも転ばないうちは、人間が立って歩いているうちはハゲタカもかかってこねえけども、転んでしまえばだめだ、いきなり飛びついてくる」(第31師団分隊長佐藤哲雄)


 「(1人でいると)肉切って食われちゃうじゃん。日本人同士でね、殺してさ、その肉をもって、物々交換とか金でね。それだけ落ちぶれていたわけだよ、日本軍がね。ともかく友軍の肉を切ってとって、物々交換したり、売りに行ったりね。そんな軍隊だった。それがインパール戦だ」(第31師団上等兵望月耕一)
 雨期の到来後、マラリアや赤痢などが一気に広がり、病死が増えていった。死者の半数は、戦闘ではなく病気や飢えで命を奪われた。
 前線に置き去りにされた齋藤博圀少尉は、チンドウィン河の近くで、死の淵をさまよっていた。
 「七月二十六日 死ねば往来する兵が直ぐ裸にして一切の装具をふんどしに至るまで剥いで持って行ってしまう。修羅場である。生きんが為には皇軍同志もない。死体さえも食えば腹が張るんだと兵が言う。野戦患者収容所では、足手まといとなる患者全員に最後の乾パン1食分と小銃弾、手りゅう弾を与え、七百余名を自決せしめ、死ねぬ将兵は勤務員にて殺したりきという。私も恥ずかしくない死に方をしよう」(齋藤博圀少尉日誌)


 太平洋戦争で最も無謀といわれるインパール作戦。戦死者はおよそ3万人、傷病者は4万とも言われている。軍の上層部は戦後、この事実とどう向き合ったのか。


 牟田口司令官が残していた回想録には「インパール作戦は、上司の指示だった」と綴られている。
 しかし、大本営・服部卓四郎作戦課長は、「日本軍のどのセクションが、インパール作戦を計画した責任を引き受けるのか」と問われた際、次のように答えている。
 「インド進攻という点では、大本営は、どの時点であれ一度も、いかなる計画も立案したことはない」
 当時23歳だった齋藤元少尉は死線をさまよいながら、戦慄の記録を書き続けた。
 「生き残りたる悲しみは、死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く。望みなき戦を戦う。世にこれ程の悲惨事があろうか」

  


Posted by biwap at 17:27歴史の部屋