› 近江大好きbiwap › 2013年11月

2013年11月29日

「まがいもののタンゴ」

フランスのクラシックギター奏者ローラン・ディアンス(Roland Dyens)作曲の「タンゴ・アン・スカイ(Tango en skai)」。「アン・スカイ」とはフランス語で「なめし皮(合成皮革)」の意味。日本語に訳すと「まがいもののタンゴ」ということに・・・。ところが、これがなかなかカッコイイのです!六弦から一気に駆け上っていくアルペジオ。高速パッセージにラスゲアード。村治佳織のCMで有名になった曲だそうです。クラシックギターも、なかなかおもしろいものです。
http://youtu.be/-n9N2tY1GFI
  


Posted by biwap at 06:20芸術と人間

2013年11月27日

何が秘密か秘密だ!

国家安全保障会議(NSC)設置→特定秘密保護法案強行採決→集団的自衛権容認→憲法9条改定→国防軍設置→(?)。「報道の自由」「知る権利」は、民主主義の生命線のはず。危機感のなさに感じてしまう危機感。この国は、どこへ行こうとしているのか・・・。
  


Posted by biwap at 06:31

2013年11月25日

韓国(からくに)より渡り来て

晩秋の近江蒲生野を歩きました。その昔、韓国(からくに)より渡り来て、この地に移り住んだ人たちがいました。多くの文化や技術をもたらしたその人たちは、異国の地に何を思い、何を感じたのでしょうか?韓国旅行の仕上げに、「百済」ゆかりの地を訪ね、HP「近江史を歩く」にUPしました。「31.石塔寺石塔のルーツ」「32.百済滅亡と鬼室集斯」です。
http://biwap.raindrop.jp/details1039.html
http://biwap.raindrop.jp/details1040.html
  


Posted by biwap at 06:29近江史を歩く

2013年11月23日

「姿美しく、巧みな話術」

それにしても興味深い人物である。蘇我入鹿が暗殺された「乙巳の変」の2年後、647年に金春秋(キム・チュンチュ)は日本にやってくる。「春秋、美姿顔善談咲」と日本書紀には記されている。皇極女帝は退位し、親唐派の孝徳政権が誕生していた。一方、新羅では。647年春正月、「貴国は、婦人を王としているため、隣国に軽侮されておる」という唐の言葉を盾に、善徳女王の廃位を求め、毗曇(ビダン)らが内乱を起こす。内乱は鎮圧されるが、女王は陣中に没した。乱を鎮圧した王族金春秋と将軍金庚信(キム・ユシン)は、真徳女王を擁立する。この直後、金春秋は日本にやってくるのだ。金春秋と金庚信。この二人の出会いは、蹴鞠の催しである。これは、中大兄皇子と中臣鎌足との出会いと同じ。皇子と後の忠臣との出会い、そして忠臣の妹が皇子と嫁ぐ話まで一致している。金春秋は、武烈王に。中大兄は天智天皇に。660年、武烈王は百済を滅ぼす。翌661年、高句麗との戦いの途中、陣中で病死。天智天皇は、百済復興のための大軍を送り、663年「白村江」で唐・新羅連合軍に大敗する。しかし、そこには金春秋の遠大な外交戦略があったのだと・・・。
  


Posted by biwap at 07:01KOREAへの関心

2013年11月21日

And I Love Her

ビートルズの曲で、一番好きな曲は・・・? でも、私にとってビートルズは、好きとか嫌いとかを超えた文化革命そのものでした。来日した武道館コンサート。音楽ではなく騒音だと酷評した評論家もいました。でも、それは確かに革命でした。ロングヘアーにジーンズ。学生集会へも時々出かけ、「いちご白書」も見ました。祝祭のような時代のエネルギーと、自分の青春とが織り交ざり、ビートルズの音楽がBGMのように流れていました。
http://youtu.be/SdDNm7wnhA4
  


Posted by biwap at 06:22

2013年11月19日

「原発ゼロ」は無責任?

原発事故で琵琶湖が汚染されたら・・・。それは、ほとんど恐怖のように頭をよぎっていきました。今回の滋賀県のシミュレーション結果は、それをデーターとして裏付けるものです。近畿1450万人の飲料水をどうやって確保するのか?元首相の発言が注目されています。それはそれでいいのですが、30年以上前から訴えて続けてきた人たちの声を、まず誠実に検証するべきです。「原発ゼロ」は非現実的な絵空事だと思い込まされてきました。でも、原発が一基も稼動していない今の「現実」を誰が想像できたでしょうか。歴史に対し責任を取るべき人たちが責任を取らず、核廃棄物の処理もできない無責任な体制を無責任に継続することこそ、無責任極まりない行為です。いったん事故が起これば、いったい誰が責任を取れるというのでしょうか。
  


Posted by biwap at 06:26

2013年11月17日

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

伊賀上野にある松尾芭蕉の生家跡を訪ねました。芭蕉は江戸時代の初め、言葉遊びが中心だった俳諧を、芸術の域に高めた人物です。五・七・五の俳句は、世界で一番短い定型詩。このシンプルさの中に広がる世界の深さは、興味深いものです。「古池や蛙飛びこむ水の音」。池のほとりで蛙を見ているのではありません。どこからか聞こえてきた「蛙飛びこむ水の音」に、「古池」という幻影が現れてくるのです。有名な「おくのほそ道」の旅を経て、芭蕉の思索は「軽み」の境地へと深まりを見せていきます。さまざまな嘆きに満ちた人生を、微笑を持って乗り越えていくたくましさ。「人生は、軽み」。また一つ、素敵な言葉に出会いました。
  


Posted by biwap at 06:39芸術と人間

2013年11月15日

右側通行vs.左側通行

 ソウルで地下鉄に乗ると、逆方向から電車が来る感覚です。右側通行で走っているからです。町並みは似ていても、逆に走る車の流れに外国を感じます。人間の心臓は左側。それを守るため、道の左側を歩くようになったとか。右側通行という、人間の習性を無視したルールの犯人は、ナポレオンだという説が有力です。1794年のパリから右側通行がルールとなりました。一方、イギリス・オーストリアなどは、ナポレオンに対抗し、左側通行を維持します。イギリスの植民地だった国も左側通行です。日本では鉄道が導入された1872年に左側通行と定められます。鉄道モデルが、フランスではなくイギリスだったからです。自動車が出現すると、左側通行を正式な法律とします(1924年)。第2次大戦直後、マッカーサーは日本を右側通行に変えようとしたのですが、バスのドアが左側なので、あきらめたそうです。米国施政下の沖縄は、1972年まで右側通行でした。
 世界的には、右側通行の方が多数派です。左側通行は、イギリス及びその関係国(オーストラリア・ニュージーランド・インド・パキスタン・シンガポール・香港など)。その他では、日本・タイ・インドネシアなどです。左側通行では、車は右ハンドルになります。
 韓国では、自動車が右側通行なので地下鉄も右側通行。1号線だけは、国鉄との相互乗り入れのため、左側通行です。 韓国国鉄は、日本の植民地支配の影響で左側通行。ところで小さい頃から、歩行者は右側通行と教えられてきたのですが、繁華街の人の流れを見ると・・・。
  


Posted by biwap at 08:32歴史の部屋

2013年11月13日

あの頃の私に戻って

名曲のリメークもいいと思います。でも、曲を台無しにしてしまうことも。それどころか、本人が昔の曲を歌っても、変な感情移入か勘違いのため、せっかくの曲をぶち壊すことも多々あります。もしかしたら、人は自分の魅力を誤解するのかもしれません。自分が欠点だと思っていることが、長所だったり。あるいは、その逆だったり・・・。
http://youtu.be/FmiYfezZt-E
  


Posted by biwap at 06:28

2013年11月11日

韓国扶余の旅(2013.11.5.)

公州から車でさらに30分ほど行った所が、百済王朝最後の都、扶余である。武寧王の子である聖王(聖明王)の時に、高句麗の圧迫のため、都を熊津(公州)から泗沘(扶余)に移した。538年のことである。この時、倭(ヤマト王権)との連携を図ったことが、日本への仏教公伝の背景となる。写真の弥勒菩薩は京都太秦広隆寺のものとそっくりである。

百済では仏教が積極的に受容され、日本へも伝播された。百済仏教の中心が定林寺である。現在、復元工事が進められている。百済の匠人たちは木造の模倣から離れ、石材を使った構造美を確立していった。その代表的なものが五層石塔である。韓国の石塔の始原様式ともいえるこの塔は、近江蒲生野の石塔寺石塔にも、明確にその影響を与えている。

宮南池は武王35年(634年)に、池を掘って作られた韓国最初の人工庭園である。武王は、韓国ドラマ「薯童謠ソドンヨ」の主人公である。百済王子と敵国新羅の第3王女・善花(ソンファ)姫との純愛物語。そして、その嫡男が百済最後の王となる義慈王である。

660年、新羅・唐連合軍の攻撃により、百済は滅亡する。バスのロータリーに階伯(ケベク)将軍の像が建っている。自らの手で妻子の命を絶ち、最期の戦いに臨んだ百済の猛将である。落城の際、百済の宮女たちは敵に辱めを受けまいと白馬江に身を投げた。そのチョゴリの舞う姿は花が散るようであったことから、飛び降りた断崖は「落花岩」と名づけられた。後の高麗時代に、身を投げた女性の霊を慰めるため、皐蘭寺が建てられた。皐蘭草という珍しい草の名にちなんだ名前である。

落花岩や皐蘭寺のある扶蘇山の下に、遊覧船の船着場がある。この河が白馬江。錦江の下流に当たる。百済滅亡直後、各地域から百済復興の動きがおこる。百済最後の王である義慈王の王子の一人、余豊璋は倭国に30年近く滞在していた。百済復興のため余豊璋は百済へ戻り、唐・新羅連合軍と戦う。しかし、倭国と百済復興軍は、「白村江の戦い」で大敗することになる。百済滅亡の3年後、663年のことである。白村江という河があるのではなく、白馬江のさらに下流の海に面した河口付近であると考えられている。
  


Posted by biwap at 09:12旅行記KOREAへの関心