› 近江大好きbiwap › 2017年05月

2017年05月30日

雨ニモマケズ


 川端康成「伊豆の踊子」の一節に、「いい人はいいね」と踊り子が語る場面がある。シンプルな言葉の中に、踊り子たちの哀しい境遇が浮かび上がる。「ほんとうにいい人ね。いい人はいいね。」
 権力者たちの醜悪な姿に、唐突にこのフレーズが浮かんできた。すると今度は宮沢賢治の詩を思い出した。言葉の奥にある人生の重みを知るには時間が必要なのだ。その時にはわからなかったことが、人生にはいっぱいある。いい人はいいね。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ  ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイフモノニ ワタシハナリタイ
  


Posted by biwap at 12:11芸術と人間

2017年05月24日

ノルウェイの森


 頭上に輝く北斗七星。でも満天の星の中に、その形も埋もれてしまう程だった。兵庫県神崎郡にある「峰山高原」。ホテルで一泊した後、早朝の散歩を楽しんだ。「リラクシアの森」という森林散策道が整備されている。2010年公開映画「ノルウェイの森」。当初撮影の予定がなかったにも関わらず、この森のたたずまいを見た監督が惚れ込み、急きょ撮影を決めたという。





 
 村上春樹「ノルウェイの森」のあらすじをWikipediaより引用。


 37歳の僕は、ハンブルク空港に到着した飛行機のBGMでビートルズの「ノルウェーの森」を聴き、激しい混乱を覚えた。そして学生時代のことを回想した。
 直子とはじめて会ったのは神戸にいた高校2年のときで、直子は僕の友人キズキの恋人だった。3人でよく遊んだが、キズキは高校3年の5月に自殺してしまった。その後、僕はある女の子と付き合ったが、彼女を置いて東京の私立大学に入学し、右翼的な団体が運営する学生寮に入った。
 1968年5月、中央線の電車の中で偶然、直子と1年ぶりの再会をした。直子は武蔵野の女子大に通っており、国分寺のアパートでひとり暮らしをしていた。二人は休みの日に会うようになり、デートを重ねた。
 10月、同じ寮の永沢さんと友だちになった。永沢さんは外務省入りを目指す2学年上の東大生だった。ハツミという恋人がいたが、女漁りを繰り返していた。
 翌年の4月、直子の20歳の誕生日に彼女と寝た。その直後、直子は部屋を引き払い僕の前から姿を消した。7月になって直子からの手紙が届いた。今は京都にある(精神病の)療養所に入っているという。その月の末、同室の学生が僕に、庭でつかまえた螢をくれた。
 夏休みの間に、大学に機動隊が入りバリケードが破壊された。僕は大学教育の無意味さを悟るが、退屈さに耐える訓練期間として大学に通い続けた。ある日、小さなレストランで同じ大学の緑から声をかけられる。演劇史のノートを貸したことがきっかけで、それから緑とときどき会うようになった。
 直子から手紙が来て、僕は京都の山奥にある療養所まで彼女を訪ねた。そして同室のレイコさんに泊まっていくよう勧められる。レイコさんはギターで「ミシェル」や「ノーホエア・マン」、「ジュリア」などを弾いた。そして直子のリクエストで「ノルウェイの森」を弾いた。(以上、上巻)
 ある日曜日、緑に連れられて大学病院に行った。そこには彼女の父親が脳腫瘍で入院していた。父親は数日後に亡くなった。永沢さんは外務省の国家公務員試験に受かり、ハツミとの就職祝いの夕食の席に僕は呼ばれる。
 僕の20歳の誕生日の3日後、直子から手編みのセーターが届いた。冬休みになり、再び療養所を訪れ、直子、レイコさんと過ごした。
 年が明け(1970年)、学年末の試験が終わると、僕は学生寮を出て、吉祥寺郊外の一軒家を借りた。4月初め、レイコさんから直子の病状が悪化したことを知らせる手紙が届いた。4月10日の課目登録の日、緑から元気がないのねと言われる。緑は僕に「人生はビスケットの缶だと思えばいいのよ」と言った。
 6月半ば、緑が2ヶ月ぶりに僕に話しかけてきた。緑は恋人と別れたと言う。僕にできることはレイコさんに全てをうちあけた正直な手紙を書くことだった。
 8月26日に直子は自殺し、葬儀の後で僕は行くあてもない旅を続けた。1か月経って東京に戻ると、レイコさんから手紙が届いた。レイコさんは8年過ごした療養所を出ることにしたという。東京に着いたレイコさんを自宅に迎える。彼女は直子の遺品の服を着ていた。風呂屋から戻ると彼女はワインをすすり、煙草を吹かしながら次から次へと知っている曲を弾いていった。そして50曲目に2回目の「ノルウェイの森」を弾いた。
 翌日、旭川に向かうレイコさんを上野駅まで送った。僕は緑に電話をかける。世界中に君以外に求めるものは何もない、何もかもを君と二人で最初から始めたい、と言った。
  


Posted by biwap at 06:34芸術と人間旅行記

2017年05月23日

牛頭天王総本社へ

<牛頭天王と蘇民将来・その13>


 兵庫県姫路市広峯山山頂にある「廣峯神社」。鎌倉時代、三代将軍源実朝の御教書に「播磨国廣峯社は祇園本社也」と認(シタタ)められている。まさに全国にある「牛頭天王の総本宮」だったのだ。


 平安時代のこと、京の都を疫病が襲った。疫病退散のために廣峯の牛頭天王の分霊が京都の感神院に遷される。これが現在の京都八坂神社。祇園祭のルーツである。八坂神社とは今なお本社争いがくすぶっている。


 その昔は、かなり規模の大きな社であったようだ。天野信景「牛頭天王辯」には、「広峯(播州)、祇園(京都)、津島(尾張)、大宝牛頭(近江)」と並べられ、近世には広峯・祇園・津島が「三大天王社」と称された。


 本殿の裏側には神秘なる「九つの穴」がある。一白水星、二黒土星から九紫火星までの「九星」を表し、それぞれの穴深くにはその星の守り神が鎮まっている。穴に口をあてがい小声で神様に願い事をする風習が今も残っている。廣峯神社は陰陽師たちの聖地でもあった。


 本殿の後ろに稲荷社、天神社、庚申社、山王権現社などの七社が一堂に会している。珍しい配置だ。主祭神「牛頭天王」は抹殺され、例によって明治以降「スサノオ」に置き換えられている。「牛頭天王総本宮」という名称以外には、「牛頭」の痕跡は見当たらない。


 拝殿に向かって左側の地養社に「蘇民将来」が祀られていた。「牛頭天王と蘇民将来」の物語が残っていた。この伝承のもとである「備後風土記」には、「牛頭天王」ではなく「武塔神」となっている。「牛頭天王」は、中世になってからのものと思われる。


 廣峯神社から遠く播磨灘が見下ろせる。牛頭天王は海を渡ってきた異国の神である。広峯山の麓には、「白国神社」がある。「新羅国国主大明神」の神号を持つ。「播磨国風土記」には、百済・伽耶・新羅からの渡来人に関する記述が多く見られる。「白=新羅」はパスワード。


 中世の廣峯神社。熊野詣にも劣らない多くの人たちが、麓から道を争い、列をなし、参詣した。播州の人たちが「伊勢参り」する時は、まず廣峯神社に参拝してから出発し、参詣後もう一度廣峯神社に詣でた。この「二度参り」の風習は昭和の初めまで続いていたという。
 旧参道や荒神社に通じる道に、「御師(オシ)」の屋敷跡や土塀が見られる。御祈祷役の神官である「御師(オシ)」は、参拝者の宿泊や案内を兼業とし、年末にはお祓いや暦を地方の信者に頒布して歩いた。
 底知れぬパワーを持った民間信仰。万世一系の天皇を神とする「国家神道」にとっては、お行儀のよくない厄介な存在であったのかもしれない。  


2017年05月14日

札束より花束を


 5月12日、「国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会」は慰安婦問題に関する2015年末の日韓合意について、合意の見直しを勧告。元慰安婦に対する「補償や名誉回復、再発防止の保証などが十分ではない」とした。
 2015年の日韓合意。日本政府は韓国政府が設立する財団に10億円を拠出。韓国政府はソウルの日本大使館前の少女像について関連団体と協議したうえで適切に解決されるよう努力する。これにより、日韓政府は「慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決」を確認するという内容。
 これ以上、日韓関係を悪化させないための苦心作ともいえる。しかし、「朴大統領に安倍首相が心からおわびと反省の気持ちを表明」という伝聞が説明されただけで、安倍首相自身の口から公の場で「元慰安婦たちへのおわびと反省」が具体的に語られることはなかった。元慰安婦たちが求めていた首相による「おわびの手紙」に対し、安倍首相は国会答弁で「毛頭考えていない」と全否定。
 「心からのおわびと反省の気持ち」は“見せかけ”のものにしか見えず、カネですべてを解決しようとする姿勢に不信感を持たれることになる。特に当事者である元慰安婦の心は置き去りにされたままだ。
 ムン・ジェイン大統領は安倍首相との電話会談で、「国民の大多数が、心情的に合意を受け入れられないのが現実だ」と述べた。「時間がかかる」という言い方に、懐の深さを感じた。そんな大統領に「反日」のレッテルが貼られる。
 少女像の製作者、キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏夫妻。ベトナム戦争時の韓国軍による民間人虐殺を正面から受け止め、謝罪と反省の意味を込めた「ベトナムのピエタ像」を制作。少女像は決して“反日の象徴”ではなく、戦争を憎み、犠牲者を悼み、平和を希求する市民の思いが込められている。正式名称を「平和の碑」という。
 カネでカタをつける。そう受け止められることが一番まずいことなのに、「少女像撤去」の大合唱を挙国一致でやるこの国の破廉恥さ。「非国民」という言葉がよみがえりつつあるこの時代、真の愛国者とは「信義と品性」を守り抜く人間のことだと強く反論したい。
  


Posted by biwap at 22:42biwap哲学KOREAへの関心

2017年05月08日

朽木で山登り


 ゴールデンウイーク最終日。高島市朽木にある蛇谷ヶ峰山へ。ネットで行程を調べて準備。「朽木いきものふれあいの里センター」から登り始めるということなのだが、ここは見る影もなく閉鎖されていた。やむなく、「グリーンパーク思い出の森」へ向かい案内所で道を聞く。



 山頂まで2時間半かかるらしい。朽木スキー場から登り始めると1時間位で行けるそうなので、車をシーズンオフの駐車場に置き、登り始めた。


 こちらのコースは人影もなく寂しい。距離は短いが、急斜面を登っていくようだ。


 息を切らせながら登っていくと、やがて遠景が広がり始めた。


 こういう所で食べる「お弁当」は絶品! 「卵焼き」で元気を回復し、いよいよ山頂へ。


 三角点。周りは切り拓かれていて、360度の景観が楽しめる。




 滋賀の山が見渡せ、琵琶湖も一望。そんなに高い山ではないのに、スケールが大きい。なんだか、とっても得をした気分。
 「今あるもの」「使い慣れたもの」を、もっともっと大切にしていこうと思うようになってきた。「幸せのかけら」は、身近にいっぱいころがっている。遠い世界に旅に出るのもステキだが、ここ「近江」はお弁当の「卵焼き」みたいに最高の「ご馳走」だ。
  


Posted by biwap at 09:08近江大好き旅行記

2017年05月06日

チキンレースの愚



 ジェームス・ディーン主演『理由なき反抗』の一場面。競い合う2人が、断崖に向かって同時に車を発進させる。先に車から飛び降りたほうが負け。でも降りるのが遅すぎると崖から転落して死んでしまう。
 チキンレース。どちらがチキン(憶病者)であるかを試す度胸試しのゲーム。ディーン演ずる主人公は飛び降り、相手の少年は転落して死んでしまった。



 国民の生命と安全を守るべき政治家たちがチキンレースに現(ウツツ)を抜かす。「もっと軍事的圧力を!」の大合唱。分別を失ったメディアは危機感を煽り、軍拡競争を煽動する。「死の商人」が、後ろでそっとほくそ笑む。
 私たちの国には、戦争を放棄し、軍隊を持たないという立派な理念があったはず。それこそが、「美しい日本」。それこそが、現実的な「安全保障」。それこそが、私たちの「誇り」。競うべきは軍事力ではなく「知性と品格」。チキンレースの愚を許してはならない。
  


Posted by biwap at 06:02biwap哲学

2017年05月05日

逆さ地図から見えてくるもの


 地中海を船が往来し、文明が往来した。面積にしてその半分の日本海。それは、東の地中海。船が往来し、文明が往来した。「裏日本」と呼ばれていた日本海側は、大陸への玄関口であったことがわかる。新羅と出雲の距離は、出雲と能登の距離に等しい。
 縄文時代以来、日本海側にはたくさんの巨木遺跡があった。その最終的な帰結が出雲大社。かって、出雲大社の正面には入り江があった。そこは、日本海の荒波を避けた最高の良港。巨大な貿易センターであったのかもしれない。
 地図を逆さにすると、見えないものが見えてくる。
  


Posted by biwap at 16:21biwap哲学

2017年05月03日

今年もサンヤレー

<牛頭天王と蘇民将来・その12>


 「草津サンヤレ踊り」。室町時代後期以来、近畿地方に流行した囃子物の系譜をひく風流芸能。1993年に国選択無形民俗文化財に選択。今年は市内の伝承地7地域(下笠町・片岡町・長束町・志那町・志那町吉田・志那中町・矢倉)のうち、6地域(下笠町・片岡町・志那町・志那町吉田・志那中町・矢倉)で行われた。去年は志那の踊りを見に行った(http://biwap.shiga-saku.net/e1259622.html)が、今年は下笠へ。


 草津市下笠の老杉神社。主祭神はスサノオノミコト。社伝によると、神霊が下笠の地に拡がる森の中の大杉に降臨したことに由来。しかし、「老杉神社」という名称は明治に入ってからのもので、元々は「牛頭大明神」。ここでも「牛頭天王」は抹殺され「スサノオ」に置き換えられたのだが、その名は「下笠の天王さん」として残っている。


 草津には上笠・下笠・南笠・笠縫など「笠」のつく地名が目につく。古代豪族としてこの地に大きな勢力を持っていたのが笠氏。「老杉神社」は中世後期、土豪・下笠氏の庇護を受けて本殿が造立。「牛頭大明神」または「下笠天王」と称した。明治に入り「老杉神社」と改称。特殊神事として、例祭に「さんやれ踊り」が奉納される。その他古神事に「おこない」があり、「えとえと祭り」と称し2月10日より15日まで斎行される。


 この神事を執行しているのが「宮座」。草津市域には「宮座」の制度が数多く残されており、下笠地区でも、行政上の町村とは別に「村」と呼ばれる「宮座」が8つある(殿村・細男村・王村・獅子村・鉾村・天王村・十禅師村・今村)。神社の祭り、冬の「おこない」、春の「田植祭」、秋の「そうもく」など、村人の生活における節目節目の行事は「宮座」を通して行われてきた。


 神社や町内の各所に場所を移しながら、花笠やたすきをした子ども達が踊りの中心となって行列をつくり、鉦・太鼓・笛・ササラ・スッコなどの楽器を打ち鳴らすとともに、賑やかに囃(ハヤシ)立てながら短い踊りが繰り返し行われる。町内は、春祭り一色の華やかな雰囲気に包まれる。


 笛吹く女装の男性。祇園祭「駒形稚児」のような「お馬神」。そもそも、「サンヤレー」とはいったい何の意? 何もかも謎めいていて、好奇心がそそられる。


 藤の名所「三大神社」に立ち寄ったところ、ここでも「サンヤレ踊り」に遭遇。志那町吉田地区のものだ。


 こちらは、いたってシンプル。でもやっぱり「サンヤレ」。踊っている間に、いつの間にか神主さんが神霊を神輿に安置していた。


 ひっそりと、どこかへ移動していく。


 行先は「三大神社御旅所」。そこへ、神社から神輿が運ばれてきた。きっと疫病神なのだろう。伝染病・旱魃・飢饉などは、花の咲く季節に疫病神からくると考えられていた。疫病神を追い払うには、鉦・太鼓・笛などで疫病神を誘い、踊りの行列と共に集落の外に追い払う。


 御旅所とは、神霊(疫神)を旅立たせる場所なのか。集落のはずれのこの場所にて、行事は無事終了。  


2017年05月01日

その気になれば



 部屋の窓を開けると、向こう側に見える金勝山。家を出て、2時間足らずでその絶景の場所に。金勝山(コンゼヤマ)ハイキングコース。手軽に山歩きが楽しめるので何度も訪れたところだが、最近は家族連れや高齢者の姿も多く見られる。
 少し足を運べば、こんな場所に来ることができるのだ。私たちの人生だって、「新鮮な感動」はすぐそばに眠っているはず。
  


Posted by biwap at 12:21近江大好き