
2016年02月28日
そんな気がする

4年に1度の2月29日。うるう年、オリンピック、そして米大統領選の年だ。前市長・元知事・現首相とその仲間たち。わが国も「トランプ」には事欠かない。むしろ問題なのは「サンダース」の欠如。相変わらず本質に迫らないメディアは、陳腐な解説を繰り返している。そんな中、LITERAの記事が新鮮だった。確かに、そんな気がする。
◆3月1日のスーパーチューズデイを控え、共和党の極右候補、ドナルド・トランプの話題がやたら報じられているアメリカの大統領選挙。たしかに、こんなとんでもない人物が共和党の指名争いで最有力になってきたというのは戦慄すべきことだが、しかし、この大統領選挙では逆に、画期的な現象も起きている。
それは、民主党候補者であるバーニー・サンダース上院議員(74)の躍進だ。当初、アメリカのメディアはサンダースをほとんど泡沫扱いしていたが、いまや大本命のヒラリー・クリントン前国務長官に肉薄する勢いで、勝利の可能性もゼロではなくなってきた。
サンダースが注目されるのは、もともとは民主党とは関係ない無所属議員だったことに加え、自ら堂々と「社会主義者」だと名乗っていることだ。
それがいまでは民主党の大統領候補者になるかもしれないというところまで登りつめているのである。それはいったいなぜなのか。
サンダースはユダヤ系ポーランド移民の息子で、シカゴ大学在学中には人種差別反対運動に加わり逮捕されるなど、活動家としても筋金入りだ。卒業後はしばらくイスラエルのキブツで過ごし、大工や映画製作者、作家、研究者などの職を転々とした後、政治家になる。その政治姿勢は一貫して「弱者を守る」というものだ。市長、下院議員を経て2006年に上院議員に当選するが、社会主義者が上院議員になるのは史上初のことだった。
今回の大統領予備選挙でもサンダースは社会主義的政策を強く打ち出している。公立大学の無償化、労働者の最低賃金の倍増、上位1%階層に対する重課税、企業助成政策の廃止、国民皆保険の導入などだ。中間層以下の社会的弱者に対する支援を全面的に打ち出す一方で富裕層の責任強化を強く主張するのが特徴だ。さらに、5年間にわたる計1兆ドルの公共投資を行い、若者を中心に1300万人の雇用をつくりだすとも公約する。
いったいそんなカネがどこから出てくるのかという問いには「(リーマンショックで銀行を救うために投じられた)莫大な血税が返還されれば、財源調達が可能だ」と言い放つ。要するに、金持ちや不道徳な金融機関が貯め込んだ膨大なマネーを取り戻し、労働者や貧困層、若者、マイノリティーに再分配しようという発想だ。
「大企業の経営者が従業員の500倍あまりの給料を手にするのは道徳的に正しいのか。アメリカの勤労者を解雇して利益を出しているようなものなのに」
「いまこの国の支配層は、まるで酒や麻薬に依存した人のようだ。もっと、もっと、と欲しがる。どれだけ大勢の子供達が貧困にあえごうと、どれだけ失業率が高かろうと、おかまいなしだ。もっとくれ、もっとくれ、もっとくれ、と言っている」
「この醜悪なまでの格差は不道徳であり、経済的にもまずいし、持続不可能なものだ。 アメリカの経済がこんなインチキでいいはずがない。変らなくてはならない」
こうしたサンダースの言葉の一つひとつが、若者や弱者、貧困層に刺さる。
しかも、サンダースの政策はただ理想を語っているだけでなく、たしかな成果を生み出している。1981年にバーモント州のバーリントン市長に当選すると、彼は信念に基づく社会主義的政策を次々と導入した。労働者向けに安価な住宅を供給したり、大型スーパーの進出を阻止して商店街を守ったりした。消費者協同組合を結成し、市民向けに無料の芸術文化イベントをも企画している。こうした施策がやがて人口約4万人のバーリントン市を全米で「最も住みやすい街」と言わしめる結果をもたらした。
サンダースには「社会主義なんてただの絵空事、なんの現実性もない」という批判は通用しない。むしろ、資本主義が内包している問題点を解決するためのきわめて現実的な選択肢として、社会主義的政策を米国民に提示し、それが評価されているのだ。
実は、こうした社会主義的政策に対する再評価はヨーロッパでも起きている。昨年9月のイギリス労働党の党首選がいい例だ。勝利したのは同党の最左派に位置するバリバリの社会主義者、ジェレミー・コービン(66)だった。
コービンは労働組合の活動家などを経て83年から英下院議員を務めている。議員でありながら84年には南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議し、逮捕された経歴もある。労働党がニュー・レイバーと称して「第三の道」を唱えてからもブレずに社会主義者としての政治姿勢を貫き続けた。トニー・ブレアの労働党政権がイラク戦争に参戦しようとした時には、500回以上もの造反を繰り返した。
その政治主張は反戦、反緊縮財政、移民保護に始まり、富裕層への課税強化、企業優遇の廃止、最低賃金の加算、大学の無償化、鉄道の再国有化、弾道ミサイル潜水艦の全廃、イスラム国への空爆反対など。大学の無償化や金持ちへの課税など、サンダースの主張と重なる部分も少なくない。
ついでにいうと、労働党の党首選でもサンダースと同じく、当初はまったくの泡沫候補扱いだった。それが、若者層の熱狂的な支持を受け、奇跡の逆転劇ができたのも、やはり反自由主義、反格差のうねりがベースにある。
サッチャー政権以来の新自由主義政策の結果、公共サービスの崩壊、格差の拡大や政治不信が非常に深刻な問題となった。子どもの貧困も深刻で、2003年の時点で約150万人の子どもが相対的貧困の状態にあるという。ところが、イギリスでは前出のブレア政権時代に労働党が「第三の道」と称して新自由主義と見紛うような「小さな政府」への路線転換をしたため、弱者の味方であるべき左派政党がなくなってしまった。
そこにコービンが登場して左翼政党の本来あるべき姿を示した。すると、若者たちがようやく自分たちの立場を代弁してくれる政治家が現れたと、こぞって支持に回ったわけだ。しかも、コービンには『21世紀の資本』がベストセラーとなったフランスの経済学者、トマ・ピケティやノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・E・スティグリッツらが経済顧問としてついている。まさに、社会主義が時代の潮流になりつつあるというわけだ。
そもそも社会主義とは、弱肉強食の資本主義の弊害を是正し、より平等で公平な社会を目指す思想である。
日本やアメリカではソ連や中国などの強権的な国家体制と短絡的に結びつけ、「アカだ」と排斥する傾向があるが、実際の社会主義はもっと多様なものだ。たとえば、欧州では、イギリスの労働党、ドイツの社会民主党、フランス社会党などの社会主義インターナショナルに代表される社会民主主義がきちんと政治に根付いてきた。
この社会民主主義は、新自由主義の台頭によって一時、「時代遅れ」と片隅に追いやられていたが、ここにきて格差の拡大により、再び脚光を浴びるようになった。そして、社会主義的な考え方を一切受け付けなかったアメリカでも、サンダーズという社会主義者が受け入れられるようになった。
そのサンダースはこう言っている。
「たとえば、スウェーデンなど北欧には長年の社会主義の政権があり、おそらくほとんどの点において、それらの国々はアメリカよりずっと民主主義的だろう。選挙では80%、90%の人々が投票し、労働組合が強く、アメリカより開かれたメディアがあり、国民の全員に医療保険がある。そんなのユートピアだと言うかもしれないが、お隣のカナダだって二つの州が社会主義的な政府だ。社会主義を共産主義と同一視して批判するのは、あまりにも無知としか言いようがない」
考えてみてほしい。サンダースが言うように、経営者が従業員の500倍の報酬を受け取ることが道徳的に正しいと言えるのか? 前出のピケティも、アメリカの経営者に多く見られる高額報酬の正当性を合理的に説明することはできないと言っている。モノを生み出すよりもマネーを動かす方が儲かる社会──明らかに異常だ。これを是正するには社会主義的政策の導入しかないことに、アメリカやヨーロッパの民衆は気づき始めたというわけだ。
翻って、我が日本の現状はどうか。事態は欧米以上に深刻だ。厚労省の2014年の発表によれば子どもの相対貧困率は16.3%で実に6人に1人が貧困状態にあるといわれる。OECD加盟諸国の中でもワーストクラスだ。今年2月24日の朝日新聞朝刊には、独身で非正規雇用の女性の7割が年収250万円以下という調査結果が載っていた。その一方で年収数億円の富裕層も存在する。この「差」は合理的に説明できない。にもかかわらず安倍政権は富裕層のみを優遇し、アベノミクスだトリクルダウンだと言うばかり。今年1月の国会では、安倍晋三首相が「日本は世界の標準でみて、かなり裕福な国になる」と開き直る始末だった。
最大野党の民主党も結局のところ、新自由主義者が主流派で、自民党と変わりがない。それどころか、国民の生活より財政緊縮を重視するなど、経済政策的には自民党よりタカ派的な姿勢まで見せている。しかも、維新との合流で保守的・新自由主義的傾向はさらに強まるだろう。
アメリカでさえ、社会主義者が政治のメインストリームに躍り出てきたというのに、日本はむしろ、右傾化、新自由主義の動きがさらにエスカレートしている。
日本の国民が、格差助長政策によって貧困に追いやられている自分たちの現実に気づき立ち上がる日は、はたしてやってくるのだろうか。
2016年02月24日
河原を読み解く絵本

2004年に死去した歴史学者・網野善彦(アミノヨシヒコ)。中世の職人や芸能民などの漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする均質的な農耕民社会像に疑問を投げかけた。網野ワールドをのぞいてみよう。

人の力の及ばない「自然の世界」と「人の住む世界」。河原はその二つの世界の境。あの世とこの世の境。中世以前の人たちが死者を葬ったのはこのような場所だった。虹の架け橋が二つの世界を結ぶ。

河原は、あの世に人を送り、あの世からの声を聞く場所。境で働く人びとが住み着く。そこは人の力の及ばぬ神仏の世界に近い場所。罪を犯した人を処刑する場にもなる。髭モジャの派手な摺衣(スリギヌ)を着た「放免(ホウメン)」が罪人の首を斬っている。

死者や家畜の死体をそこに置いても、“けがれ”が人の生活に及んでくることはないとされた。死んだ牛馬を解体し、皮をなめす。物を贈ったり、お返しすれば人と人との個人的な結びつきは強くなる。これでは売買にならない。河原は、人と人の、この世での関係の及ばないところ。物を交換しても“あとぐされ”はない。河原に市が立つ。

市を立てる時、まず神を祭った。神を呼び出し、喜ばせるための様々な芸能が行われた。物を売る商人が店を開き、あちこちからたくさんの人びとが集まる。鍋・釜などの鉄製品、焼物、武器、上等な衣類。市聖や勧進という寄付金集め。河原は人びとが集まる広場。

踊りや芸能、大声の念仏、鐘・鼓の音などは、神や仏を喜ばせるもの。そして多くの人びとの心をゆり動かし、神や仏の世界に導く力を持つもの。河原は芸能の行われる場となる。芸能に対して寄せられた米や銭は、神や仏のものとして、貧しい人びとに施された。

河原に舞台が建てられ、田楽踊りの真っ最中。この世の身分や地位に関係なく、たくさんの人たちが群がっている。

まわりの桟敷に陣取る観客。覆面をした人、顔を扇や衣で隠したりしている人。それが芸能を見るときのしぐさ。人間わざとは思えぬ田楽に、桟敷が崩れるほど熱狂した。

“けがれ”をきよめたのは、そのころ卑しめられはじめた河原の人びとだった。その同じ河原に、川の上流から材木が運ばれ、新しい家が次々に建てられていく。河原は豊かな商人や職人たちの町に生まれ変わる。

祭りで町は花盛り。この世の“けがれ”をきよめる人たちを先頭に、山鉾は静かに進む。長い脇差、美しい着物。町の片隅に、物乞い・大道芸をする人たちを残したまま、河原は美しく栄える町に変身する。

かぶきおどりに集まる人たち。異国の人びとまで交えて、はでやかに着飾っている。美しく踊る人たちは、遍歴する芸人たち。旅をしつづける芸人や商人。物乞いをする人びとと同じように、世の中から卑しめられるようになっていく。
◆篠田正浩「河原者ノススメ」の中にこんなエピソードが紹介されている。映画監督・篠田正浩が妻の女優・岩下志麻と共に京都御所へ入ろうとした時、入場を断わられてしまった。記帳の際に書いた妻の実名「河原崎」が原因だったという。

2016年02月17日
光秀を結ぶ赤い糸・坂本


織田信長は比叡山焼き討ちの後、明智光秀に坂本城を築かせた。延暦寺の門前町であり、湖上交通の重要な港であった坂本は、物流拠点として栄えた。


光秀が再興した西教寺。山崎の合戦に敗れ、京都山科で百姓に殺されたという光秀。明智一族と共に西教寺に葬られたと言われている。妻・煕子の墓は本物であるようなのだが、光秀の墓については?

秀吉死後、歴史の表舞台に登場した天海。西教寺からほど遠くない坂本・慈眼堂(ジゲンドウ)に廟所がある。光秀と天海を結びつける赤い糸が坂本にはありそうだ。
今回は、その坂本に光秀の妻・煕子を訪ねてみた。もう一つの赤い糸。
「近江史を歩く・56」は、「明智光秀の妻・煕子」
http://biwap.raindrop.jp/details1066.html(PC版)
http://biwap.raindrop.jp/sp/details1066.html(スマホ版)
2016年02月13日
天海となった光秀

東京上野にある東叡山寛永寺。東叡山は東の比叡山。不忍池は琵琶湖、中之島は竹生島。不忍池弁天堂は、竹生島の宝厳寺から弁財天を勧請し建立したもの。皇居の鬼門に建てられた比叡山延暦寺と同じく、江戸城の鬼門に建てられた東叡山寛永寺。幕府よりこの寺を寄進されたのが、天海僧正。徳川家康に寄り添う謎の人物。
日光には「明智平」と呼ばれる場所がある。名付けたのは天海。日光東照宮にある多くの建物には明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。三代将軍家光の乳母・春日局。明智家筆頭家老・斎藤利三の娘である。春日局の子・稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。さらに家康は土岐明智家を復活させている。家康、天海、そして明智。
山崎の合戦に敗れた明智光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、京都山科の小栗栖(オグルス)で百姓に竹槍で刺されて死んだという。それが光秀でなかったとしたら。
天海という僧侶が歴史の表舞台に登場するのは秀吉が亡くなった後のこと。家康が天海を駿府に招き、初めて公式に対面したのは1608年のこと。実際にはもっと早くから家康は天海を知っていたはず。家康は信長焼き討ち後荒廃していた比叡山の復興を、天海にあたらせている。大阪冬の陣の2ヶ月後、比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進。その3カ月後、大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作った。滋賀院門跡は、天海が後陽成天皇から下賜されこの地に建立した。同じく坂本の日吉東照宮も天海が造営した建物である。
天海の生年は、はっきりしない。没年は1643年、100歳以上の長命であったという。もし事実なら、天海が明智光秀であった可能性も出てくる。これが「天海=光秀説」。妄想とわかっていながら、この話は妙に面白い。歴史の断面を鋭く抉(エグ)っているのかもしれない。
2016年02月11日
戦後民主主義にこだわる

2月11日、建国記念の日。紀元前660年2月11日、初代・神武天皇即位の日として「紀元節」と呼ばれた。
◆『紀元節の歌』
「雲に聳(ソビ)ゆる高千穂の 高根おろしに草も木も靡(ナビ)き伏(フ)しけん大御代 (オオミヨ)を 仰ぐ今日こそ楽しけれ 海原為(ナ)せる埴安(ハニヤス)の 池の面(オモ)より尚(ナオ)広き 恵みの波に浴(ア)みし世を 仰ぐ今日こそ楽しけれ 天津日嗣(ヒツギ)の高御座(タカミクラ) 千代万代(ヨロズヨ)に動きなき 基(モトイ)定めしその上(カミ)を 仰ぐ今日こそ楽しけれ 空に輝く日の本の萬(ヨロズ)の国に類無き 国の御柱(ミハシラ)建てし世を 仰ぐ今日こそ楽しけれ」
◆『尋常小学修身書巻四』1937(昭和12)年 文部省発行
「君が代は、干代に 八干代に、さざれ石の いはほとなりて、こけのむすまで。とほがらかに歌ふ聲が、おごそかな奏樂と共に、學校の講堂から聞こえて來ます。今日は紀元節です。學校では今、儀式が始まって、一同、君が代を歌つてゐる所です。
どの國にも、國歌といふものがあつて、其の國の大切な儀式などのあるときに、奏樂に合はせて歌ひます。君が代は、日本の國歌です。我が國の祝日や其の他のおめでたい日の儀式には、國民は、君が代を歌つて、天皇陛下の御代萬歳をお祝ひ申し上げます。
君が代の歌は、我が天皇陛下のお治めになる此の御代は、千年も萬年も、いや、いつまでもいつまでも續いてお榮えになるやうにといふ意味で、まことにおめでたい歌であります。私たち臣民が君が代を歌ふときには、天皇陛下の萬歳を祝ひ奉り、皇室の御榮を祈り奉る心で一ぱいになります。外國で君が代の奏樂を聞くときにも、ありがたい皇室をいたゞいてゐる日本人と生まれた嬉しさに、思はず涙が出るといひます」
◆『初等科修身二』1942(昭和17)年 文部省発行
「東京の九段坂の上に、大きな青銅の鳥居が、高く立つてゐます。その奥に、りつぱな社が見えます。それが靖國神社です。靖國神社には、君のため國のためにつくしてなくなつた、たくさんの忠義な人びとが、おまつりしてあります。毎年春と、秋には例大祭があつて、勅使が立ちます。また、忠義をつくしてなくなつた人々を、あらたにおまつりする時には、臨時大祭がおこなはれます。その時には、天皇陛下が行幸になり、皇后陛下が行啓になります。お祭の日には、陸海軍人はいふまでもなく、参拝者が引きもきらず、あの廣いけいだいが、すきまのないまでになります。
君のため國のためにつくしてなくなつた人々が、かうして神社にまつられ、そのおまつりがおこなはれるのは、天皇陛下のおぼしめしによるものであります。私たちの郷土にも、護國神社があつて、戦死した人々がまつられてゐます。私たちは、天皇陛下の御恵みのほどをありがたく思うふとともに、ここにまつられてゐる人々の忠義にならって君のため國のためにつくさなければなりません」
●「安倍晋三となかまたち」が取り戻そうとしている日本の姿なのかもしれない。人権・平和・国民主権。戦後民主主義の価値観にすら偏向攻撃がかけられる昨今。足して2で割る中立主義ではなく、頑固に民主主義を擁護するリベラリストでありたいものだ。
2016年02月05日
CO2地球温暖化?

2009年11月24日、“The New York Times”。暖炉にくべているのは、アルバート・ゴアの著書「不都合な真実」。「不都合な真実」は、なぜ不都合だったのか。それは一週間前のこと。
2009年11月17日、イギリスのイーストアングリア大学にある気候研究ユニットのサーバーから、交信メール1073件と文書3800点がアメリカの複数のブログサイトに流出した。世界中が驚愕する「気温データの捏造」が発覚。ニクソン大統領が辞任に追い込まれた「ウォーターゲート事件」になぞらえ、「クライメートゲート事件」と呼ばれている。

上がホッケー・スティックと呼ばれるグラフ。グラフの形が、ホッケーのスティックに似ている。2001年1月、IPCC第3次評価報告書に掲載された。まさに危機感あふれる図だ。「20世紀温暖化説」が世界中のメディアを席捲した。IPCC第4次評価報告書ではさすがに削除されている。

IPCC第1次評価報告書にある図。これに手を加えてホッケー・スティックが出来上がった。
広瀬隆はこう語る。
<私はこの時、誤ったCO2仮説を信ずるヨーロッパ人、特にドイツの自然保護運動家達が、人類のエネルギー消費量削減を目指して具体的に取り組み、放射能を出す原発も徹底的に攻撃していたので、その言動に対して全く異論は無く、同じ目的地を目指して歩んでゆけると思い、CO2温暖化説が蔓延しても軽視してきた。その私の判断が、大間違いであった。ヒートアイランド、原発の放射能災害、発電所の温排水、砂漠化、野生生物危機、大気汚染、酸性雨、熱帯雨林の破壊、遺伝子組み換え食品、環境ホルモン、食品添加物、農薬、ダイオキシン汚染、増え続けるゴミ、大地震の脅威、戦争など、ありとあらゆる環境破壊と毒物生産を放任して、全て無実のCO2にその罪をなすり付け、人類が大規模な環境破壊に踏み出し始めた。>

世界中の情報を丹念に読み解き、ネットで独自の分析を配信している田中宇は次のように述べる。
<地表で測定した気温データから地球温暖化を主張している米英3機関のうち、英国のイーストアングリア大学の気候研究所(CRU)は、2009年に研究者たちが平均気温の上昇を歪曲していたことが暴露された「クライメートゲート」事件を起こしたことで知られている。この事件を機に、温暖化問題の歪曲が広く認知されて人為説の誇張が終わると思いきやそうならず、温暖化の歪曲はいまだに堂々と続けられている。
3機関はいずれも、NOAA傘下のGHCN(Global Historical Climate Network)という気温データベースを、唯一の世界の地表気温の元データとして使っている。GHCNが収録する気温の測定地点は以前、1万2千地点ほどあったが、温暖化問題が騒がれ出した1990年ごろを境に、6千地点以下に半減した。残った地点の多くは都市の周辺にあり、ヒートアイランド現象など温室効果ガス以外の要因で気温が上昇傾向にある地点が多い。温室効果ガスによる人為説を検証するには、都市化していない田舎の観測地点が多いほど良いが、GHCNのデータベースからは、まさに温室効果ガスが問題にされ出した時に、田舎の観測地点がたくさん削除された。田舎の観測地点の喪失を埋めるため、気温が田舎より最大で2度C高い都市周辺の観測データを田舎にも適用する手法がとられた。この操作(歪曲)を考慮するだけで、温室効果ガスの影響を全く考えなくても、1990年以来の世界の平均気温の測定値の上昇を説明できてしまう。
地表の気温観測でなく、人工衛星を使った大気温の推定値から気温の変化を研究している公的機関も米国に2つあるが、そちらのデータでは気温の上昇が起きていない。
地球温暖化問題は、科学でなく、国際政治の問題だ。科学の問題なら、気温データに粉飾的な調整を加えて横ばい(寒冷化)の傾向を温暖化に歪曲するのは犯罪だが、国際政治の問題なので、かなり暴露しても犯罪とみなされない。歪曲は、国際的な学界とマスコミのプロパガンダ機能を使って行われている。国際政治のプロパガンダ機能は、いったん走り出すと方向転換が難しい。米国は、同様のプロパガンダ機能を使って「大量破壊兵器」の濡れ衣をイラクやイランなどの敵国に対して相次いでかけ、後から濡れ衣が暴露されているが、濡れ衣をかけたことが犯罪とみなされず、いまだにイランには濡れ衣がかけられたままだ。>
古代ギリシア哲学では、「判断を留保すること」(suspension of judgment)を「エポケー」と言った。とりあえずカッコに入れておくことも必要なのだ。真理の追究は、しなやかに、したたかに、粘り強く。
Posted by biwap at
06:16
│CO2温暖化説への懐疑
2016年02月02日
草津に生まれし憲法学者

草津市に転居してきた時、初めてここがその人の出身地であることを知った。学生時代、その人の講演を聴きに行った。いや正確には席に座って講演の始まるのを待っていた。突如、大講義室の後ろの扉が壊され、ゲバ棒にヘルメット姿の集団が乱入してきた。訳も分からないまま逃げ出した。些末な理論の違いがセクトを作り、近親憎悪を繰り返していた。以来、独善的な正義を振り回す言説は、左右を問わず苦手である。
およそそれとは対極の誠実な憲法学者・田畑忍。1902年、滋賀県草津市に生まれる。同志社大学卒業後、1939年に教授、1946年に学長となる。1962年、憲法研究所を設立。機関誌「永世中立」を創刊。1972年、定年退任。1994年、死去。
クリスチャンの立場から一貫して戦争に反対。「非武装永世中立」を唱え続け、戦後の護憲運動を担った。死後、遺族が著書や蔵書約5000冊を草津市に寄贈。市立図書館の一角に「田畑忍文庫」のコーナーが設けられる。
田畑の講演「平和主義と憲法九条」に感銘を受け、憲法学を志した人物がいる。田畑の門下生・土井たか子。1995年6月、田畑忍文庫開設式に当時衆議院議長だった土井たか子はかけつけ、記念講演を行っている。「これを機に講座を開いては」との土井の提案で、市立図書館はその後「憲法講座」を開設。
田畑忍の講演こそ聴き逃したが、今でも憲法9条こそ最も現実的な安全保障だと考えている。時代錯誤の軍拡競争の「愚」をいつまで繰り返すのか。逆流の中、だからこそ風化させてはいけないものがあるはず。草津に生まれし憲法学者の播いた種。それは深く静かに育っている。