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2022年07月30日

飯盒でみる度量衡入門



 標準的な飯盒は米4合炊。本体に刻印されている線は、2合・4合で用いる水量の目安。蓋と中蓋も米の計量に使う。蓋が3合、中蓋が2合である。
1合(コメで約150g)は、だいたい一人分である。
1合=10勺(シャク)。柄杓(ヒシャク)で水を汲んだ時の容積が1勺。
1升(ショウ)=10合。約1.8ℓ。ペットボトル1本位、一升瓶。
1斗(トウ)=10升。樽の大きさ、1斗樽。
1石(コク)=10斗。つまり、1石=1000合となる。
 1回に食べるゴハンを1合弱とすると、1日3合。これに1年365日を掛け算するとざっと約1000合。つまり、1石になる。1石は、1人の人間が1年間に食べる米の量(米で約150kg)。
 江戸初期の石高が1700万石なら、1700万人位の人口があったのだろう。30万石なら、30万人。ところで日本人の一人当たり平均コメ消費量はどんどん落ち込み、1年間に57kg位になってしまった(0.4石)。


 ところで1回に食べるゴハンが1合だとすると1日3食で3合。この3合の米を取るには1坪の土地が必要だ。1坪は畳2枚分。この面積で、一人の人間が1日に食べるコメを生産する。
 1年だと365坪必要だ。この面積が一反。この面積で、一人の人間が1年に食べるコメを生産する。
 もっとも、豊臣秀吉の時代に1反は365坪から300坪に変わっている。米の単位当たり生産量も上がっているので、ざっとこんな目安か。
 平均的なコンビニの面積は30坪。この30坪は1畝(セ)になる。つまりコンビニは1畝である。


 この10倍が1反(タン)。1反は300坪位。1反(10a=1000㎡)は、小学校の体育館位の大きさ。


 10反が1町になる。1町はサッカーグランド位。


 1反から1年間に食べるコメ1石が作られるのだが、現在は1反で3~4石位のコメが取れる。コメの消費量は半分以下に落ちているので、8人分位の年間コメ消費量が生産されることになる。
 日本のコメの作付面積は160万ヘクタール。年間収穫量は860万トン位である。石高にすると5733万石。1石は2人の人間の年間コメ消費量と考えると、日本の人口と合ってくる。
 元号などという非民主的・非合理的なものと違い、古い度量衡はけっこう便利である。
  


Posted by biwap at 21:23民俗と文化への興味

2022年07月29日

帰りなんいざ

とりあえずの中国史・その10


 魏は45年で滅び、代わって晋(西晋)が265年に成立する。建国者は司馬炎(シバエン)。彼の祖父は曹操の部下で魏の大将軍だった司馬懿(シバイ)。司馬懿は蜀軍の侵攻を撃退し地歩を固め、遼東半島、朝鮮半島までを勢力範囲にした。倭から邪馬台国の使者が訪れ、卑弥呼に「親魏倭王」の金印が贈られたのはこの頃のこと。
 司馬懿は魏の実力者となり、その孫の司馬炎も魏の大将軍の地位を継承した。司馬氏は周到に魏王朝簒奪プログラムを推進していた。263年に蜀は滅び、265年、司馬炎はついに魏を亡ぼして即位(武帝)し、晋王朝を立てた。280年には呉も滅ぼし中国全土を統一。魏・呉・蜀の三国時代は完全に終了した。


 司馬炎が亡くなると、8人の王族が帝位をめぐって互いに戦いはじめ、内乱状態に陥った(八王の乱)。王たちはライバルを倒すために周辺の異民族の力を借りた。はじめは王族の指揮下で戦っていた騎馬遊牧民たちは、次第にその統制から離れ、中国内地に独自政権を打ち立てた。
 この状況を見て、招かれていない部族も華北へ移住し始め、晋は混乱の中で滅亡した。華北の豪族たちは配下の農民を引き連れ、戦乱の及んでいない華南へ逃れていった。


 この時に華北へ入ってきた民族が「五胡」と呼ばれる。匈奴(キョウド)、羯(ケツ)(匈奴の別種)、氐(テイ)(チベット種)、羌(キョウ)(チベット種)、鮮卑(センピ)(トルコ種説が強い)をさす。これら五胡が建てた国家が乱立し、「五胡十六国時代」と呼ばれる。


 この混乱の中、晋の王族の一人・司馬睿が華南に逃れて建康(現在の南京)で皇帝の位につき、晋を復興した。晋(西晋)と区別して東晋という。華南の地には未開発の土地が多くあり北から逃れてきた豪族たちにこれらの土地を割り当てていった。
 しかし、かって呉政権を支えた土着豪族との関係は必ずしも良好ではなく、華北の政権との争いも絶えなかった。皇帝権力は常に不安定で、東晋以後、宋、斉、梁、陳と王朝が変遷する。これらはいずれも前王朝の軍人が帝位を奪って建国したものであった。宋から陳までの王朝は南朝と総称される。


 華北では五胡十六国が興亡を繰り返す中、勢力を拡大したのが北魏。鮮卑族拓跋氏によって建てられた。鮮卑は、中国北部と東北部に存在した騎馬民族。次の時代の隋では楊堅の皇后が鮮卑族であったこと、唐を立てた李淵の母が鮮卑の筋を引いている。新モンゴロイドに属する鮮卑は、日本民族や朝鮮民族との共通点も多く祖先を共にすると考えられている。


 第6代皇帝孝文帝は漢化政策を進め、首都をモンゴル高原に近い平城から洛陽に移し、宮廷での鮮卑語使用禁止や名前を中国風の一字姓に変更している。しかし一朝一夕に遊牧文化が消える訳はなく、北魏以降、隋・唐に至るまでの諸王朝を鮮卑族拓跋氏の人脈を引く「拓跋国家」と呼ぶことがある。下の絵は北魏が漢化政策で漢人の服装を取り入れ、一方で漢人も胡人の椅子を使用するという文化融合の様子。


 後漢の滅亡から隋による統一までを「魏晋南北朝」の時代と呼ぶ。華北では華やかな貴族文化は生まれず、実用的な書物が書かれた。南朝では戦乱を逃れてきた貴族たちによって成熟した文化が発達した。政治の世界から退き精神の自由を守ろうとした「竹林の七賢」などが有名である。


東晋の詩人・陶淵明「帰去来辞」
<さあ家に帰ろう。田園は荒れようとしている。なぜ帰らないのか。これまで、すでに自分の心を肉体の奴隷としてきたのだから、どうして失望してひとり嘆き悲しむことがあろうか。すでに過ぎ去ったことは諌める方法がないのを悟り、将来のことは追いかけられるのを知っている。本当に道に迷ったとしても、まだ遠くへは行ってはいなかった。今(役人を辞めて帰るの)が正しい生き方で、昨日までの生き方は間違っていたことを悟ったのである。
 この世に生きていくのも、あとどれほどであろうか。なぜ自分の心に任せ、去るも留まるも自然に任せないのか。なぜあくせくとどこに行こうとするのか。富も貴い身分も私の願いではない。仙人の国など望むことはできないのだ。良い日を思い、ひとりで行き、あるときは杖を田の土に立てて草を取る。東の丘に登りゆるやかに吟じ、清流のそばに行き詩を作り歌う。しばらくの間、天地自然の変化に我が身を任せ、最後は命も尽きて終わりたい。天が命じたことを楽しんで、どうして再び疑うことがあろうか。>
  


Posted by biwap at 21:49とりあえずの中国史

2022年07月27日

天下三分の計

とりあえずの中国史・その9


 後漢王朝は辛うじて「黄巾の乱」を鎮圧するが、189年、宮廷の混乱に乗じて首都洛陽を制圧した武将・董卓が実権を掌握、恐怖政治を布いた。この「董卓の乱」によって後漢王朝は実質的に滅亡する。
 192年、董卓は養子の呂布に殺害される。呂布軍には騎射に優れた遊牧民の匈奴兵が多く含まれていた。呂布自身が遊牧民の血を引いていたのかもしれない。呂布の死後、曹操は彼の軍をそっくりそのまま自分の軍隊に吸収した。また、黄巾軍の一部も自軍に編成している。利用できるものは何でも利用し強大化していった。


 曹操の魅力の根本は儒学の道徳から解き放たれているところにある。その行動の常識にとらわれない大胆不敵さが醸し出す爽快さが人を惹きつける。清流派のホープとされる優秀な知識人が集まって来た。彼らは軍事的・行政的に大局を見渡す戦略を次々に提案し、曹操も彼らの意見をよく取り入れた。
 華北の覇者となった曹操は後漢を亡ぼし、「魏」を建国。事実上は曹操が建国したのだが、彼は皇帝にならずに死去し、息子の曹 (ソウヒ)が後漢最後の皇帝に位を譲らせて魏の初代皇帝になっている。


 劉備は現在の河北省の出身。役人の家に生まれるが、父の死後、家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。前漢王朝劉氏の末裔とされるが、逆に身分の低さを際立たせている。黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛らと共に義勇軍を結成し、次第に群雄の一人として名をあげていく。


 曹操が華北を支配すると居場所を失い、荊州(湖北省)に身を寄せることになる。鳴かず飛ばず、落ち込む一方の劉備を上昇気流に乗せたのが、諸葛孔明との出会い。みずから隠棲先を訪れ三度目の訪問でようやく会うことができた(「三顧の礼」)。劉備の真情溢れる要請を受け軍師となった諸葛孔明は、劉備の為に智謀の限りを尽くしていくことになる。
 それもつかの間、曹操が天下を統一すべく大軍を率いて南下、荊州攻撃を開始した。激戦の末、かろうじて脱出した劉備に残された道は、江東(長江下流域)を支配する孫権と手を組んで早々に対抗することだった。


 孫堅の跡を継いだ・孫権(ソンケン)。エラが張った頬に大きな口。眼が青く赤茶けたヒゲを生やし(「碧眼(ヘキガン)紫髭(シゼン)」)、西洋人風の容貌をおもわせる。三国志の君主の中で最も長命だった。曹操、劉備に比べるといささか印象が薄い孫権だが、3人の中でも一番思慮深く、外交策に長けており、偉大な現実家だったともいえる。


 孫権と劉備の連合軍は、曹操の大軍を長江中流域で迎え決戦となる。圧倒的な兵力の差にも関わらず、水軍に慣れない曹操軍が大敗する(「赤壁の戦い」)。この敗北で曹操は統一を諦め、二度と再び長江を渡ることはなかった。中国の分裂は決定的となり、魏・呉・蜀の三国時代になる。


 孫権が長江下流域に建国したのが「呉」。南方土着豪族の勢力を結集。首都は建業(現在の南京)。中国の長江以南の地域(江南)は、経済力の面で華北に後れを取っていたが、呉の時代から始まった開発、特にクリーク網の開削などによる農業生産の向上をもたらした。建業はその後も南朝の歴代の都として繁栄する。
 また呉は、蜀を牽制する意図から、ベトナム北部に進出した。それに対抗して蜀の諸葛孔明はさかんに雲南地方に出兵している。ベトナム北部を領土に組み入れた呉は、ベトナム中部のチャンパー(林邑・占城)からも朝貢を受け、さらに南ベトナムからカンボジア一帯を支配して扶南にも使節を派遣した。中国文化がインドシナ半島南部のインド文化と接触したのはこの頃からのことである。


 劉備は現在の四川省を中心に「蜀」を建てる。首都は成都。法制度を充実させ、新しい貨幣を作り貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り、国庫収入を大幅に増加させた。  


Posted by biwap at 10:30とりあえずの中国史

2022年07月20日

コロンブス像を降ろせ



 コロンブスといえば、「新大陸発見」をした偉人。でも、「新」も「発見」も一方の側からの勝手な見方だ。「功績」とするのは侵略した側。侵略された側の先住民、奴隷として連行されたアフリカ人の子孫はコロンブスを「残忍な虐殺者」と捉えている。


 クリストファー・コロンブスは1451年イタリアに生まれる。成長して航海士、冒険家となり、盛大な国力を誇ったスペインの支援により、1492年、インドを目指して出航。同年の秋、インドではなくカリブ海のサンサルバドル島(ハバナ)にたどり着き、続いてフアナ島(キューバ)、エスパニョーラ島(ハイチ/ドミニカ共和国)にも上陸。以後1502年までに計4回、ヨーロッパとカリブ海(西インド諸島)間の航海を繰り返した。


 上の絵はコロンブスのサンサルバドル島上陸の様子。十字架を立て領有を宣言しているのがコロンブス。裸同然に描かれている先住民は貴金属などの宝物を差し出しているが、彼らは奴隷としてスペインに連れ帰られた。
 どの島にも先住民が暮らしており、「平和的かつ友好的」で「ものを所有する概念が薄く」、かつ「体躯ががっしり」していた。それを見たコロンブスは、サンサルバドル島に到着した初日の日誌に「優れた奴隷になるだろう」と記している。また、キリスト教の布教も容易におこなえると考えた。


 コロンブスは先住民を奴隷化し、過酷な労働を課した。だが先住民にも奴隷となることを拒む者たちがいた。コロンブスとその配下は非常に残忍な方法で先住民を大量虐殺し、見せしめとして切り刻んだ身体のパーツを屋外で晒すことすらあった。女性へのレイプも当然のようにおこなわれた。また、先住民を奴隷としてスペインに連れて行くこともした。
 さらには意図的ではないにせよ、当時のカリブ海には存在しなかった伝染病をヨーロッパから持ち込んで蔓延させることもしてしまった。その結果、島々の先住民はコロンブスの到着から約60年後にほぼ全滅してしまうのである。
 17世紀になるとヨーロッパ人はアフリカ人を捉え、奴隷として西インド諸島へ送り込み始めた。西インド諸島に黒人が暮らしているのはこれが理由だ。
 コロンブスは西インド諸島での残忍な行為と統治能力の欠如によりスペインで裁判にかけられるが、有罪を逃れる。その数年後の1506年、スペインで死去。


 コロンブスをめぐる言葉には虚像が散りばめられている。
 コロンブスは主にカリブ海の島々に通い、かつ南米(ヴェネズエラ)、中米(ホンジュラスなど)には上陸しているが、北米大陸に足を踏み入れたことはない。
 大陸にも先住民が暮らしており、コロンブスが「発見」したわけではない。また、コロンブスはアメリカスにやってきた「最初のヨーロッパ人」でもない。11世紀にヴァイキングのレイフ・エリクソンが訪れていることが定説となっている。
 コロンブスは自分がたどり着いたカリブ海の島々を「インド」と信じていた。したがって先住民をインディオ/インディアン(インド人)と呼んだ。これが元となり、先住民全般をインディオ/インディアン(現在、米国ではネイティヴ・アメリカン)と呼ぶようになった。
 後になって本物のインドは東(アジア)にあることが分かり、カリブ海の島々は「西インド諸島」、そこに住む人々は「ウェスト・インディアン」と呼ばれることとなった。


 若く、自由で、リベラルな国であるはずのアメリカ合衆国だが、実は暗く重い過去を背負っている。アメリカ合衆国とは、ヨーロッパ人が先住民を追い立て、殺し、アフリカから黒人を拉致し、奴隷として強制労働させたことによって繁栄した国だ。コロンブス像はようやく引きずり降ろされ始めた。  


Posted by biwap at 08:42世界史の窓

2022年07月19日

虎穴に入らずんば

とりあえずの中国史・その8


 建国当初、粗野な田舎者の集まりだった漢政権は礼儀作法にうるさい儒家を疎んじた。道家の唱える無為自然は逆に心地よく響いた。社会秩序が落ち着く中、武帝の時代には儒学は官学化されている。
 しかし、武帝死後、宦官と外戚の権力闘争は激しくなっていった。地方では豪族勢力が着々と勢力を蓄えていった。


 第十代皇帝元帝の皇后の甥に王莽(オウモウ)という男がいた。外戚の立場を利用して高い地位についた王莽は、西暦8年、禅譲によって皇帝となった。劉家から王家へ皇帝家が交代。国号は漢から新へ変えられた。
 儒学者としての評価の高かった王莽だが、理想を強引に現実社会にあてはめようとし、政治は大混乱した。豪族による緑林の乱、農民による赤眉(セキビ)の乱が勃発し、王莽の政府はわずか15年で崩壊した。


 新滅亡後の混乱を収拾したのが劉秀(リュウシュウ)。謚(オクリナ)は「光武帝」。反乱軍のリーダーから皇帝にまで登りつめ、一種の豪族連合政権を打ち立てた。劉秀は地方豪族だが、前漢皇帝家劉氏の血筋を引いていたため、この王朝を後漢という。


 後漢の政治は前漢をほぼ踏襲。対外関係では、班超という人物が西域のオアシス諸都市国家を服属させて、前漢武帝とほぼ同じ広さにまで領土を拡大した。班超の成功のきっかけになったのは、とある西域諸国でのこと。


 後漢と匈奴の間で揺れ動く国を説得しにやって来たが、匈奴の使者もそこに到着。立場が危うくなった班超は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と叫び、少人数の部下で百人を超える匈奴の使者一行を全滅させた。
 これを機に班超の勇名は西域一帯にとどろき渡ることになる。班超は部下の甘英(カンエイ)を西域よりさらに西方に派遣した。行けるところまで行けというのが班超の命令だった。


 行けるとこまで行き「大秦国」に至った甘英は、海に出たためそこから引き返した。甘英が到達した海は、カスピ海説と地中海説がある。地中海ならば大秦国は「ローマ帝国」になる。
 班超・甘英の少し後の166年、中国南部の日南郡に「大秦王安敦(アントン)」の使者と称する者を乗せた一隻の船が着いている。大秦国がローマ帝国とすれば、同時代にぴったりのローマ皇帝がいる。マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝=安敦(アントン)。


 後漢も前漢末期と同じように外戚や宦官が権力を振るうようになる。宦官の専権に対し政治を正そうとする正義派の官僚たちは「清流」と呼ばれ、世論の支持を集めた。これに対し宦官勢力は「党錮の禁」と呼ばれる清流官僚に対する大弾圧を行った。
 後漢の宮廷は心ある官僚層からも見限られ、腐敗に愛想を尽かした「逸民」と呼ばれる世捨て人たちも現れた。地方の豪族たちも私利私欲の追求に走るようになる。豪族に圧迫され、ぎりぎりの状態で生活している農民たちをとらえたのが宗教だった。


 道教系の新興宗教「太平道」の教祖・張角が数十万の信者を率いて後漢王朝に叛旗を翻し、中国全土は騒乱状態になる。太平道の信者たちは同士討ちを避けるために黄巾(黄色い鉢巻き)を目印にしていたため、この大反乱は「黄巾の乱」と呼ばれる。
 黄巾軍にとって、敵は後漢王朝と農民を苦しめる豪族。後漢政府軍と共に、豪族たちはそれぞれ私兵を組織して黄巾軍と戦った。この時に兵を挙げたのが「三国志演義」の物語で有名な曹操、孫堅、劉備たち。物語では、彼らが英雄で黄巾軍は悪役だが、農民の視点からみれば、やむに已まれず立ち上がった農民反乱を壊滅させていった大悪人だともいえる。


 豪族たちの奮戦で黄巾の乱は鎮圧されたが、後漢政府は無力化し名目だけの存在となり、各地の豪族勢力による群雄割拠状態となった。やがて豪族勢力は徐々に統合されていき、最終的に中国全土は魏・呉・蜀の三国時代に入っていく。

  


Posted by biwap at 08:29とりあえずの中国史

2022年07月17日

司馬遷の問いかけ

とりあえずの中国史・その7


 劉邦は即位して皇帝となり、漢王朝が成立。劉邦は後に「高祖」と称せられる。
 漢は、建国後すぐに秦の過酷な支配を緩めて人心を得ることにつとめた。秦の中央集権的な郡県制を廃止し、「郡国制」を採用した。建国の功臣や一族を各地の王とし、領土を与えた。残りの三分の一は郡県制をしき、役人を派遣し皇帝の直轄地とした。つまり郡県制と封建制を併用した制度である。
 しかし各地の王の自立性は不安定要因であり、漢は有力諸国を取りつぶし直轄地にしようとした。この過程で起こったのが「五楚七国の乱」(前154年)である。


 対外政策では、北方の遊牧民族「匈奴」との関係が重要課題だった。前2世紀初頭の匈奴帝国最盛期の単于(匈奴の君主の称号)が冒頓単于(ボクトツゼンウ)。父の頭曼単于を殺して単于の位につく。秦に奪われた地を回復し、月氏を討って西方に敗走させ、広大な帝国を完成させた。


 漢建国後、劉邦は匈奴遠征を行うが、自身が匈奴軍の包囲から、命からがら逃げ帰るという大敗を喫している。以後、対匈奴和親策をとり、皇族の娘を匈奴王の妃として送るなど和平の維持につとめている。中国史は騎馬遊牧民との関係史でもある。


 劉邦は正真正銘の庶民の出で、部下たちも然り。無教養で学問と無縁の人たちが、一躍大帝国の皇帝や重臣になっていった。劉邦の皇后・呂雉(リョチ)のエピソードも粗野そのものだ。
 呂后は劉邦が若い頃に娶った「糟糠の妻」。劉邦は皇帝になると若く美しい女性をどんどん後宮に入れた。劉邦存命中は黙っていた呂雉だが、劉邦死後抑え込んでいた恨みを爆発させる。晩年の劉邦が特に可愛がっていた戚夫人を捕らえて、その両足を切断し、舌を抜いて両眼をえぐり出し、豚小屋に放り込んだ。豚小屋はトイレの下に作られていた。
 劉邦死後、呂雉とその一族が政府の実権を握る時期があったが、彼女の死後は劉邦の子孫たちが皇帝として政権を担当していく。これも政治闘争の中で、政敵によって作られた「伝説」なのかもしれない。
 ちなみに中国の三大悪女は、下の「漢の呂雉(呂后)」、「周の則天武后」、「清の西太后」。


 もう一つちなみに。漢の高祖が前195年に死去すると、実権を握ったのが后の呂雉(呂后)。ところが何と冒頓単于は呂雉にこんな手紙を送っている。
 「呂后も一人、わたしも独身、一緒になりませんか」。これをみた呂雉は、その無礼に怒ったが、気を取り直して次のような返事をしたためた。「もうわたしはおばあさんです。何かの間違いではありませんか。どうかこの度はお許し下さい。かわりに四頭立ての車を二台、差し上げますからお使い下さい」。
 二人の往復書簡は『漢書』に記録されている。冒頓単于の結婚申込みは本気とは思えず、呂后をからかった国際的セクハラ?激しい気性の呂雉(呂后)は怒り、すぐに出兵を命じようとしたが、重臣たちが必死になってなだめたのかもしれない。とにかく、両国の和親策は維持された。
 その後、粗野だった宮廷も徐々に洗練され、様々な国家儀礼も整備されていき、第7代皇帝「武帝」の時に前漢の全盛期が現出する。


 武帝は劉邦以来の対匈奴和親策を放棄し、全面対決に転じた。西域にあった大月氏国と匈奴との対立を知り、大月氏国と同盟を結び匈奴を挟み撃ちにしようとした。



 大月氏国への使者が募集された際、これに応じたのが張騫(チョウケン)だった。前139年頃から前126年頃にかけて大月氏国へ赴いた。途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)、康居(コウキョ)をへて大月氏国にたどり着いた。大月氏国にその意志はなく同盟は結ばれなかった。同盟を断念して帰国の旅につくが、再び匈奴の部隊に捕まる。今回は匈奴内部の混乱の隙をついて逃走に成功した。


 出発から13年後、張騫はようやく長安に帰りついた。匈奴人の妻子を連れ、百人以上いた従者は一人になっていた。とっくに死んだと思った張騫の帰国に武帝は大いに喜び、人々は張騫を英雄扱いした。
大月氏国との同盟はならなかったが、西域の貴重な情報が知られるようになり、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路ができあがることになる。


 武帝の史官として使えていたのが司馬遷。宮廷の出来事を記録するのが司馬家代々の役割。司馬遷個人も父親から引き継いだ歴史書の完成を自分のライフワークとしていた。それが「史記」。
 そんな時、ある事件が起こる。五千の兵を率いて匈奴と戦っていた李陵将軍が、敵に包囲され降伏したという知らせが長安に届いた。捕虜となったことに激怒した武帝は、李陵将軍の一族を皆殺しにするよう命じ、周囲も雷同した。司馬遷だけが、その武帝の前で李陵の勇戦と無実を訴えた。これが武帝の逆鱗(ゲキリン)に触れ、司馬遷も死刑を宣告された。
 「史記」を書き上げるまでは死ぬわけにいかない司馬遷。死刑に代わる刑として宮刑(性器を切り取られる刑)を自ら願い出た。死ぬよりもつらいことだったが、司馬遷は「史記」のために屈辱を耐え忍んだ。
 彼は自分の嘆声を史記に刻んでいる。「是(コ)れ余の罪なるかな。是れ余の罪なるかな。身、毀(ヤブ)られて用ひられず」(これは私の罪だろうか。これは本当に私の罪だろうか。肉体を傷つけられて、世に用いられない者となってしまった)。


   (司馬遷の祠堂と墓 陝西省韓城市)

 「史記」には様々な人物が登場する。自分の主義に忠実だったために野垂れ死にした者、さんざん人を殺しながら天寿を全うした大悪党。
 「天道、是か非か(天の定めるところは正しいのか否か)」。この疑問に明快な答えがないことは司馬遷もわかっていた。義人が報われ、幸せであってほしいとの願いは、無残に破壊されるものであることも心得ていた。
 司馬遷にとって「史記」は、疑問への答えというよりも、「歴史を刻み、未来に問い続ける」という自分の生きる理由そのものだったのではないか。
 司馬遼太郎の名前は「司馬遷に遼(ハルカ)に及ばない」という意味でつけられたそうだ。
  


Posted by biwap at 10:43とりあえずの中国史

2022年07月15日

科学は嘘をつかないが


「日経BOOKプラス」2022年7月13日付の記事より

田中博「科学は噓をつかない。でも科学者は噓をつく」
 私のことを温暖化懐疑論者だとか、研究の外部者にすぎないと言う人がいます。しかし、私は大気大循環が専門で、温暖化研究の真ん中で仕事をしてきました。大気力学、すなわち地球の大気がどのように流れているかという基礎研究を行っています。
 私は、2021年にノーベル物理学賞を受賞した真鍋淑郎さんが1960年代に構築した気候モデルに基づいた研究をしてきました。88年に米国ミズーリ大学で博士号を取得した後、アラスカ大学に移り、91年まで助教として在籍しました。88年はNASA(米航空宇宙局)のジェームズ・ハンセンが米上院公聴会で地球温暖化を警告した年です。当時は北極域の温暖化が顕著だったため、北極域を重点的に研究すべきだという機運が盛り上がっていました。
 97年、アラスカ大学には日米共同出資で国際北極圏研究センターが設置され、アラスカ大学教授(当時)の赤祖父俊一さんが所長に就任、私も実動部隊で動きました。


 そこで温暖化を研究すればするほど、アラスカのような高緯度地域では自然変動が大きいことが分かってきました。
 2012年には「地球温暖化問題における科学者の役割」というシンポジウムが日本気象学会主催で開かれました。そこには江守正多さん(現・国立環境研究所)や田家康さん(日本気象予報士会)、私も参加して議論を交わしました。
 風向きが変わったのが2014年です。日本気象学会では、中立的な立場で地球温暖化に対する意見をまとめようと、「地球環境問題委員会」という企画を立ち上げました。その成果が『地球温暖化 そのメカニズムと不確実性』(朝倉書店)です。
 本書の校了寸前になって、IPCC(国連の気候変動に関する政府間パネル)の執筆者に査読してもらおうということになりました。すると、IPCCの執筆者の見解と異なる主張は原稿から削除され、私が書いた「温暖化の半分は自然変動で説明できる」という内容の原稿は、ほとんどが削除されました。書名も当初、執筆メンバーで考えていた案から大きく変わりました。
 この頃から、日本では「温暖化は人為的なCO₂排出が主因であることは明白。もう決着した」という見方が支配的になり、異論をはさまないことが「大人の対応」といわれるようになりました。


 当初、私は勘違いしていました。「もう決着した」と聞いて、「いやいや、まだ温暖化の原因について、科学的に決着はついていない」と、科学者として憤りを感じ、反論をしていました。でも、しばらくして分かったんです。決着したのは「科学的」にではなく、もう世の中の流れがそちらのほうに行ってしまったので、「抵抗しても無駄」という意味での「決着」だったのです。
 けれども、気候のメカニズムについてはまだ分からないことだらけです。科学の不確実性をしっかり認識した上で、様々な立場の科学者が自由闊達に議論を戦わせ、切磋琢磨することで、分からないことについての解明が進んでいくというのが、科学と科学者のあるべきスタンスだと思うんですよ。
 残念ながら、現在の気候科学の世界はそうなっていません。「温暖化は人為的なCO₂排出が主因」という主張に反論すると、「懐疑派」「否定派」のレッテルを貼られ、仲間外れのような状態になるというのが現実です。
 ある時から、“政治”が“科学”を凌駕するようになりました。科学者といっても、組織の中ではマネジャーでもあります。研究費を確保し、自分の部署を守り、部下を養っていかなければなりません。
 研究費が欲しい科学者は、「危機をあおるのはおかしい」「そこまでのエビデンスはない」と思っていても、口には出しません。民衆を説得するためには、多少の誇張や噓はやむを得ないと考えている人もいます。政治家はその誇張や噓を利用して政策をつくり、マスコミも見出しになりやすいのでそれに飛びつく。その結果、誇張や噓が修正されないまま、一般の人たちに広まっていくという構図です。
 私は沢口靖子さん主演のドラマ『科捜研の女』(テレビ朝日系列)のファンなのですが、このドラマに「科学は噓をつかない」というセリフがあります。これをもじって、私は「科学は噓をつかない。でも科学者は噓をつく」と言っています。
 もちろん、口をつぐんでいるだけで、噓はついていない科学者がほとんどだと思いますが、「科学者のあり方」としてふさわしくないと私は考えます。『気候変動の真実』の中で著者のスティーブン・E・クーニンは、「科学者には特別な責任が伴う。厳正で常に客観的な批判性をもって事に当たる必要がある」と力説する。まさにその通りだと思います。
 私は米国で博士号を取ったので、クーニンのこの主張には100%同意しますが、日本の科学界は「同調圧力」が非常に大きく、クーニンの主張する科学者の倫理観や矜持がねじ曲げられやすいと感じます。
 真鍋淑郎さんも筋金入りのサイエンティストで、科学が政治によってねじ曲げられることをとても嫌っていて、結局は米国に渡られてしまいました。真鍋さんは「CO₂が増えれば気温は上がるだろう」と、あくまでサイエンスを語られていましたが、「気温が上がれば人類は滅亡する」などとは決して言っていないのです。
 IPCCに集う科学者の大半も、「このままだと地球に人が住めなくなる」といった大げさな発言をする人はほとんどいません。科学は気候変動についてどこまで解明していて、どこからが未解明で不確実性の高いことなのか。一般市民は、それをよく知った上で、政治家の言うことに対して反応すべきであって、科学が政治の道具になるのは本末転倒です。
  


Posted by biwap at 08:28CO2温暖化説への懐疑

2022年07月14日

王侯将相いずくんぞ種あらんや

とりあえずの中国史・その6


 秦滅亡のきっかけとなったのが、陳勝・呉広の乱。始皇帝の死の翌年(B.C.209年)、陳勝ら楚地方の農民に千キロ離れた場所への警備が命ぜられた。定められた日までに着かなければ処刑される。ところが大雨で川が氾濫し、先に進めなくなってしまった。陳勝と仲間の呉広は、どうぜ遅れて処刑されるくらいなら、いっそ秦に反乱しようと考えた。
 これが導火線となり、各地で様々なグループによる反秦蜂起が起こった。陳勝は叫んだ。「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王、貴族、将軍、大臣であろうと、われわれ農民とどこに違いがあるというのだ)」。二千年以上前、ただの貧しい農民が叫んだ強烈な平等意識と反骨精神だ。
 陳勝・呉広の反乱軍は秦の地方駐屯群軍を破り、瞬く間に数万の軍勢にふくれあがった。しかし、しょせんは農民出身の烏合の衆。半年後、秦の精鋭部隊に鎮圧され、陳勝も呉広も死んでしまったのだが、既にこの時、反乱は全国に広がっていた。


 全国に広がった反乱軍のリーダーが項羽と劉邦だった。項羽は楚国の名門将軍家の出身で血気盛んな若きエリート武人だった。一方、劉邦は田舎の農民出身。各地で反乱が勃発すると自分の郷里に戻り、「侠」の仲間を集めて挙兵。反乱軍を束ねどんどん大きくなっていった項羽軍の傘下に入る。



      (函谷関)

 前206年、項羽率いる反乱軍は秦の都咸陽を攻める作戦を取った。主力軍は関羽が率いて西に向かい、別働隊を劉邦が率いて南回りで咸陽に進撃した。両者は事前に、先に咸陽を占領したものがその地域の主となると約束を交わしていた。
 古くからの要衝「函谷関」で足止めされた項羽に対し、劉邦は険しい道のりが幸いして先に咸陽の都に突入し、占領に成功した。


 秦では(例の「馬と鹿」の)二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、二世皇帝の甥・子嬰(シエイ)が即位したばかりだった。子嬰は自分の首に縄をかけて劉邦のもとにやってきて、全面降伏の意を示した。劉邦は子嬰を殺さず保護し、阿房宮を封印して略奪を禁じた。


 遅れて関羽の本隊が咸陽に到着すると、子嬰をはじめ秦の皇族を殺し、阿房宮を略奪した後、火を放った。火は3カ月間も消えなかったという。その後、楚の国に帰って「西楚の覇王」と称し、反乱集団のリーダーたちを王として各地に封じた。
 劉邦は約束によれば咸陽の地で王となるはずだったが、項羽に警戒され現在の陝西(センセイ)四川(シセン)省の奥地の王とされた。この地名が「漢」である。これを不服とした劉邦と関羽はその後5年間にわたる戦いを繰り広げることになる(「楚漢の戦い」)。


 軍隊としては圧倒的に関羽軍が強く、劉邦軍は負けてばかりだったが、面白いことに負けるたびに劉邦の勢力は強大になり、項羽軍は弱体化していった。部下に対して尊大な項羽に対し、自分では何もできないという自覚のある劉邦は部下の能力を引き出し恩賞もはずんだ。項羽のもとでは働き甲斐がないと感じた武将たちは劉邦軍に寝返っていった。


 劉邦と項羽の最後の決戦が垓下(ガイカ)の戦いだった。垓下の城にこもった項羽軍は十万、これを囲む劉邦軍は三十万。夜になって包囲軍の兵士がうたう歌が、項羽の陣地に聞こえてきた。敵の劉邦の軍から自分たちの「楚」の歌が聞こえてくる。つまり、かっての項羽の兵士たちは、今みんな劉邦軍にいるのだ。これが「四面楚歌」の故事。


 ついに観念した項羽は、最後まで付き添っていた武将たちと別れの宴を開いた。心境を歌った項羽の最後の言葉が「虞や、虞や、なんじを奈何せん」。
 虞というのはずっと項羽に付き従ってきた愛人「虞美人」のこと。彼女は項羽の歌を聞いて自分が足手まといであると悟り、自ら命を絶った。彼女の血を吸った大地から真っ赤な花が咲いた。これが、「虞美人草」。
 項羽の遺体は、劉邦によって手厚く葬られた。そして、時は劉邦の「漢」の時代に移っていく。
  


Posted by biwap at 08:57とりあえずの中国史

2022年07月13日

CHINAの始まり「秦」

とりあえずの中国史・その5


 戦国時代末期。豪商・呂不韋(リョフイ)は、趙の都・邯鄲(カンタン)で、不自由な生活をしていた秦の王族、子楚(シソ)と出会った。子楚は、秦の王位継承者・安国君の子だったが、親から愛されず、人質に出されていたのだ。この時、呂不韋は「奇貨居くべし(珍しい品物だから、買って置いておこう)」とつぶやいて、資金面から女性関係まで、何かと子楚の面倒をみた。さらに、惜しみなく金をつぎ込み子楚を売り込んだ結果、子楚の父・安国君は、子楚を次の太子にすると約束した。


 ある日、呂不韋は子楚を招いて宴会を開いた。そこで、子楚は美しい歌姫に心を奪われた。この女性は夏妃といい、実は呂不韋の愛人だった。しかし、呂不韋はそれを隠したまま子楚に嫁がせた。彼女のお腹には既に子どもが宿っていた。政(セイ)と名づけられたこの赤ん坊こそ、後の始皇帝だった。
 やがて王となった安国君は、わずか一年で死去。子楚が王位に就く。その結果、呂不韋は宰相となって、秦国で大いに権力を振るうことになる。しかし、子楚もまたわずか数年後に病気で亡くなってしまう。
 こうして、紀元前247年、子楚の子・政が10歳余りで秦の王となった。呂不韋は富と権力をほしいままにしたが、やがて内紛の黒幕として追放されることになる。


 やがて秦王・政は中国を統一する。周の時代とは比較にならないくらいの大領土を支配することになったため、王という称号では満足できず、さらにランクの高い呼び名を創作し、世界初の皇帝として「始皇帝」と名乗った。
 秦は全国を郡に分け、その下に県を置き、中央政府から官僚を派遣して中央集権的な一元支配を行った。この中央集権的専制国家体制は、後の歴代王朝に踏襲され、20世紀に清朝が滅びるまで続くことになる。


 また、各国バラバラに行われていた諸制度を統一した。文字の統一、貨幣の統一、度量衡の統一、車軌の統一、さらには思想の統一まで行った。秦の政治に批判的な学問を弾圧し、実用書以外の書物を燃やし(焚書)、460人あまりの儒者を生き埋めにした(坑儒)。独裁権力は皆よく似ているものだ(焚書坑儒)。


 万里の長城という途方もない公共事業を行い、死後も現世と同じ栄華を楽しむために驪山陵(リザンリョウ)という陵墓を建て、兵馬俑という地下軍隊まで創設した。人民は度重なる労役に疲弊していった。



 やりたいことをやりつくした最後の望みは「不老不死」だった。徐福という男が近づき、東海を渡った「蓬莱」という島に「不老長寿」の秘薬があると教えた。大金を与えられた徐福は東海へ旅立ったが、そのままさっさと消えてしまった。日本にも徐福が渡来したという徐福伝説の場所がいくつもある。


 始皇帝は、不老長寿の薬として「水銀」を飲んでいた形跡があり、紀元前210年に全国巡遊の途中で死去する。始皇帝の側にいたのが宦官の趙高(チョウコウ)だった。始皇帝の死を隠しながら、遺書をでっち上げ、二世皇帝・胡亥(コガイ)を自分の傀儡(操り人形)に仕立て上げた。


 ある時、百官が居並ぶ前で趙高は鹿を連れてきて二世皇帝に「馬でございます」と献上した。二世皇帝が「趙高、何を言っているのか、角が生えている、鹿ではないか」と反論すると、趙高におもねる役人たちは口をそろえて「陛下こそ、何をおっしゃいますか、馬ではありませんか」と言い始めた。二世皇帝は背筋が寒くなった。宮廷で誰一人として自分を味方するものはいないのだ。
 「馬鹿」のオチがついた秦の滅亡は、もうすぐそこまで来ていた。
  


Posted by biwap at 10:58とりあえずの中国史

2022年07月12日

春秋戦国の合理主義

とりあえずの中国史・その4


 西方辺境の異民族統治に失敗した周は、都を東の落邑(ラクユウ)に移す(東周)。宗族として本家の周王を形式的にも立てていたのが前半の春秋時代。それも完全に有名無実化し、覇を争うようになったのが後半の戦国時代。下剋上の乱世と云われるが、歴史が大きくうねりながら動いていった時代でもある。


 「矛盾」という言葉がある。ある武具商人が矛を売るときは「どんな盾でも貫く」と言い、盾を売る時には「どんな矛でもはね返す」と言っていた。それを見ていた者が「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」とツッコミを入れる。
 矛は最新式の鉄製。盾も鉄張り。口上しながら売っているところをみると、注文生産ではなく流通を前提に生産されていた。


 鉄製農具が登場し牛耕が普及。耕地は急拡大し人口も増加していく。点としての邑(ムラ)の支配から、面としての領域国家に変化していく。大国では人口数十万規模の都市も出現。商業と工業が生まれていったのだ。
 農業・商業・流通の発展、社会の活性化と流動化のなかで戦国の諸国は生き残りをかけて富国強兵策を行った。出身地も身分も関係ない能力主義。諸子百家と呼ばれる、新しい学問・思想が生まれた時代でもあった。


 西方辺境の三流国だった秦。人材を求めていた秦の孝公は、自分を売り込みにやって来た衛国出身の商鞅(ショウオウ)を高く買い、今でいう総理大臣に抜擢した。周囲の反感を尻目に「商鞅の変法」と呼ばれる政治改革を断行していく。


 五戸、十戸毎の隣組を組織し、納税や防犯の連帯責任を取らせた。兵士や人夫を出すのも連帯責任で厳しく統制した。農家では、次男以下に強制的に分家させ、未開の土地に入植させた。耕地が増え、戸数が増え、税収は拡大し、軍事力は強化された。
 地方の長老たちが「政治が厳しすぎる」と訴えたところ、商鞅は全員処刑してしまった。盗賊はいなくなり、道に財布が落ちていても処罰を恐れて誰も拾わなくなった。別の地方の長老たちが来て「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになりました」と褒め称えたところ、政治を評価するとは不遜だと、またもや全員処刑。


 秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長。しかし、孝公が死ぬと反対派貴族たちは商鞅に謀反の罪を被せた。国外逃亡を図った商鞅は、ようやく国境近くの宿屋までたどり着いたが、通行手形がない。
 宿の主人は、「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません」。それでも何とかと頼む商鞅に、「商鞅様の法は厳しいので、泊めると私が後で首を刎ねられますから」。
 結局、商鞅は捕らえられ、車裂きの刑で処刑された。これぞ「自業自得」。


 しかし、孝公の跡をついだ息子の恵文王は商鞅のやり方を真似たので、秦の力は衰えず一層強くなっていった。
 洛陽の人で蘇秦という者がいた。秦に用いられなかった蘇秦は燕の文侯にこう説いた。「諸侯の兵力は秦の十倍あります。力を併せて西の秦に対抗したら、秦は必ず破れるでしょう。六国(斉・楚・韓・魏・趙・燕)が合従して、秦を退けるにこしたことはありません」。


 燕は蘇秦に資金を出して、諸侯たちの説得にあたらせた。蘇秦は言った。「鶏口牛後」=「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」。秦に服従するより独立を保てということ。
 「従」とは「縦」つまり「南北」のこと。斉・蘇・韓・魏・趙・燕の六国が従に合わさって秦に対抗する(「合従」)。それに対する秦の方策。諸国と個別に同盟を結ぶことで諸国の同盟を分断するもの(「連衡」)。「衡」は「横」に連なること。「合従連衡」はどうなったのか。
 結局、諸国は秦に滅ぼされ、秦が初めて天下を統一することになる。
  


Posted by biwap at 08:30とりあえずの中国史