› 近江大好きbiwap › 2021年03月

2021年03月19日

徳川秀忠遅参

近江史を歩く14「草津市常善寺」


 吉水御坊と呼ばれる法然の住房は、浄土宗布教の中心地であった。しかし、戦乱や火災によって焼失・再建が繰り返された。ここに本格的な伽藍建設を行ったのは浄土宗門徒であった徳川家康である。これが、現在の知恩院。そして、この知恩院三門は秀忠の時に完成している。


 1600年9月15日朝に始まった関ヶ原の合戦は、昼過ぎには決着が着く。しかし、この肝心な時に秀忠はいなかった。真田昌幸の抵抗に合い、関ヶ原の戦いに遅れた秀忠は、強行軍で中仙道をひた走った。そして家康本隊に追いついたのが20日、草津宿での事。この時、宿陣したのが常善寺である。実は家康もその前日の19日に常善寺で泊まり、20日には大津に出立している。


 常善寺は浄土宗の寺院である。知恩院が徳川家にとって有事の際の軍隊駐屯所の役割を持っていたように、常善寺もその敷地に兵が駐留したのであろう。今はその大きさを想像することはできない。政策的なものか、草津には浄土宗の寺院が多い。中でも、常善寺は草津御所と呼ばれ、室町将軍の宿舎となった所であり、江戸時代にも、草津宿の最も重要な寺とされていた。


 家康の長男信康は、武田家内通の嫌疑で、信長の圧力により切腹させられている。次男秀康は、豊臣秀吉の養子となるが家康からは嫌われていたようである。重大な失態にもかかわらず、三男秀忠は家康の跡を継ぎ、第2代将軍となる。遅参を巡って、家康と秀忠の間で、どのような言葉が交わされたのか。
  


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2021年03月17日

鉄は国家なり

近江史を歩く13「木瓜原遺跡」


 立命館大学が滋賀県草津市にキャンパス用地を造成しようとした時、発見されたのが木瓜原遺跡。遺跡周辺がボケの原生林だったことからこの名がついた。学術的にも貴重な製鉄遺跡で、現在は一部がグランドの地下に保存されている。


 「鉄は国家なり」と言われる。古代においても然り、鉄を掌握することは権力を掌握することでもあった。その鉄の一大生産地が近江。日本で鉄が生産されるのは、6世紀頃。それ以前は、朝鮮半島の伽耶地域から手に入れていたようだ。当然、地理的に近い九州地域は鉄を手に入れやすい。逆に鉄を生産していない大和が、鉄を確保するために強力な政治権力が必要としたのは皮肉なことである。


 多くの渡来人が住み着いた近江では、朝鮮半島からやってきた工人たちが鉄生産を開始したと考えられる。木瓜原遺跡の近くにも、源内峠遺跡(大津市瀬田)、野路小野山遺跡(草津市野路町)などの大規模な遺跡があり、立命館大から滋賀医大、図書館、美術館、龍谷大と続く瀬田丘陵は古代の一大製鉄コンビナートだったのだ。通常は燃料となる薪を求めて、製鉄炉は移転するのだが、この付近は原生林が豊富で、他の場所に移ることなく鉄が生産されたようだ。


 これら湖南地方の製鉄は7世紀のもので、近江朝の時代と一致するのは興味深い。湖西地方のものは8世紀奈良時代、9世紀に入ると近江の製鉄は急激に衰退する。
 砂鉄を材料とするのは、後の時代で、近江でも材料は鉄鉱石であった。ある研究者の発表を聞いたが、そのまとめは衝撃的だった。「木瓜原遺跡の鉄鉱石の産地は、朝鮮半島北部です」
  


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2021年03月16日

藤原仲麻呂と近江

近江史を歩く12「近江国衙跡」


 奈良時代の凄まじい政治闘争の中で、絶大な権力を握ったのが藤原仲麻呂。中国の政治を模倣しようとし、恵美押勝と名乗るなど日本史の教科書ではおなじみの人物である。
 悪役っぽいイメージがあるが、最期は近江湖西で捕らえられ斬首される。仲麻呂、そして藤原氏と近江との間には意外に密接な関係が存在する。仲麻呂の祖父不比等の諡(おくりな)は、「淡海公」。そして、近江の国司には藤原氏の有力者が歴任している。


 今の滋賀県庁にあたる近江国衙は、大津市大江にあった。平城宮の配置などを真似ているようである。745年、近江守になった仲麻呂はその明晰な頭脳で異例の出世を遂げ、皇族以外で初めての太政大臣の地位にまで登りつめる。光明皇后や娘の孝謙女帝のバックアップのおかげとも言われている。


 しかし、光明皇后は亡くなり、孝謙女帝は道鏡に夢中になっていく。追い詰められた藤原仲麻呂は、反乱を起こすがあっけなく鎮圧される。仲麻呂は平城京を脱出した後、近江国衙で態勢を立て直そうとするが、瀬田の唐橋が落とされていて国衙には入れず、琵琶湖の西を敗走する。


 近江の三尾崎(高島町明神崎)での戦闘でも敗れ、船で湖上に逃げるが、結局捕えられ高島町勝野の乙女ケ池のあたりで、妻子従者ともども斬首される。この反乱を「藤原仲麻呂の乱」という。
 鎌倉初期に成立した歴史書「水鏡」には、仲麻呂の娘の悲惨な死がエピソードとして取り上げられている。
  


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