
2017年12月29日
忖度しない人々

今年の顔を振り返ってみた。

「あったものをなかったことにはできない」(前川喜平)

「真実にふたをしたら、私が私でなくなってしまう」(伊藤詩織)

「一度妥協したら死んだも同然」(枝野幸男)

「きちんとした回答をいただけていると思わない」(望月衣塑子)
信頼が崩れ去るのは一瞬。逆に一瞬一瞬の決断が人の心を動かすこともある。それは最後のところで自分を裏切らなかったから。
年末に見つけたもう一つの顔。

「安倍政権の気持ち悪さ伝えたい」(朝日新聞・高橋純子)
以下、日刊ゲンダイのインタビュー記事から抜粋
―“名物記者”だったと聞きました。森元首相の番記者時代に慣例だった誕生日プレゼントを拒否したそうですね。
社会部から2000年に政治部に異動しました。政治部特有の“しきたり”を知らず、自分では当たり前の疑問を森元首相にぶつけて記事を書いていたら、ある日、「君の質問には答えたくない」と言われました。いくら「有志で」であっても、さすがに誕生日プレゼントを渡すのはよくないと思ったんです。
―それにしても、お堅い朝日のイメージからはかけ離れたコラムです。
それまでは論説委員として社説を担当していました。「政治断簡」はストレートな永田町の話題を取り上げることが多かったのですが、私を筆者に加えようとした上司には、永田町の外の社会と政治記事をリンクさせる意図があったのかもしれません。
―社説も担当していたんですか。
そうなんです(笑い)。「~ではあるまいか」などとかしこまった文章を書いておりました。社説は政治家や官僚に向けたものが多く、政策や法律に照らした内容が多かったですね。
―政治断簡とは、随分文体が異なります。
政治断簡は、ひとりでも多くの読者に自分の言葉が届いたらいいなと思って書いています。そのためには、もっともな内容をもっともらしく書いても、読者には届かない。読者に読んでもらうには身体性のある表現が必要だと思っています。
―身体性とは?
極端に言うと、論の精緻さよりも、筆者の感情を込めた文章です。筆者がこれだけ怒っているとか、うれしいとか悲しいとか、そういった表現が今の新聞には失われているように思います。社説を書いている時から、筆者の体温が感じられるように書くことが大切だと考えていました。
―それで独特の文体が生まれたのですね。
08年に休刊した月刊誌「論座」で編集を担当していた頃、うまいのにつまらない文章をたくさん読みました。私は「ヘタでもいいから死んでもこれだけは言いたい」という気持ちを伝えられたらと思っています。
―コラムがああいう表現になったのには、安倍1強政権だからこそのニーズや必然性があるようにも思います。言葉のすり替え、ごまかしが当たり前の安倍政権をバカ正直に論じてもはぐらかされてしまうというか。
その通りです。安倍政権の振る舞いや政策を正面から論じても読者はピンとこない。政府もヘッチャラです。なぜなら、向こうは百も承知で「人づくり革命」「1億総活躍」をはじめとする、欺瞞的で、人間を道具扱いするかのごときキャッチフレーズを次々と繰り出してはばからないからです。欺瞞を正面から論破するのは難しい。だから「なんか嫌だ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです。
―筆を走らせ過ぎると、“新聞の中立性”に目くじらを立てる人もいそうです。
中立って、真ん中に立つことでも、両論併記でもないはずで、各人が「正しい」と思うことを発信し、議論したりせめぎ合ったりする中でかたちづくられるものではないでしょうか。記事を読んだうえで目くじらを立ててくださるのであれば、うれしくはないけどありがたいですね。
―一方で安倍政権を手放しで応援する人も存在します。
差別や憎悪、妬みといった、人間の醜い感情を巧みに利用した「分断統治」が行われている印象を持ちます。社会が分断化されてしまっているのです。もちろん、首相自身が差別的な言葉を口にすることはありませんよ。でも、いつからか、「反日」「国賊」といった、国によりかかって異質な他者を排除するような言葉が世にあふれかえるようになりました。権力を持っている人たちの振る舞いが暗にそうした空気を社会につくり上げ、メディアの批判も届きにくい状況があるように思います。
―そういえば、コラムでも〈安倍首相はつるんとしている。政治手法は強権的だが、相手と組み合うのではなく、ものすごいスピードで勝手にコロコロッと転がってゆく〉と書いてました。
安倍政権はぷよぷよしたゼリーみたいなもので包まれている感じがします。いくら批判しても、吸収されたり、はね返されたりしてしまうもどかしさがあります。例えば、現状に不満を抱えた人たちの承認欲求を逆手に取って「動員」する。それが首相を包むゼリーのようになってしまっているのではないかと。そうした人の承認欲求は別の形で満たしてあげることこそ政治の仕事のはずなのに、人間のルサンチマンをあおって利用するなんて、政治家として絶対にやってはいけないことだと思います。
―「1億総活躍」もそうですが、もともと軍国主義の歴史を背負った言葉を平気で使うところに、首相の姿勢が垣間見えます。
安倍政権は「1億総活躍社会」のことを「包摂」と説明しています。しかし、私が取材した政治学者は、1億総活躍について「あれは包摂ではなく動員だ」と指摘していました。包摂とは、社会的に弱い立場にある人々を一定の範囲に包み込むこと。動員とは意味が全然違います。キチンと腑分けして見極めなければならないというのが、当座の私の結論です。
―1億総活躍と大衆動員する先に何があるのか。
動員されている人も、最初からモロ手を挙げて安倍政権を歓迎していたわけではないはずです。旧民主党政権が誕生した時は、「社会が変わるんじゃないか」と希望をもった人も多かったと思います。しかし、期待した民主党はダメだった。その後の東日本大震災から脱原発への動きも頓挫した。絶望と諦めが日本人の根底にはあると思います。でも、このまま「仕方ない」が続いていけば、結局、日本は何も変わらない。多くの人が自分の無力感を肯定しながら生きていくしかないんじゃないかなという気がします。
―本の中では「最後は金目でしょ」と言った石原元環境相の発言にも噛みついていましたね。
あの発言こそが安倍政権の本質を表していると思います。カネさえ付ければ、どんな政治手法でもありだと考えているとしか思えないとてつもない言葉ですよ。あらゆることを損得の基軸に落とし込もうとする安倍政治が、私は嫌い、というか、なんか悔しい。だからといって、言葉を強めて批判的な記事を書けば、読者に届くわけでもない。記者として今の政権に対峙するにはどうすればいいのか、非常に悩ましく思ってます。
2017年12月26日
ドナドナの荷馬車を降りよ!

ギター一本で「ドナドナ」を歌うジョーンバエズ。60年代反戦フォークの旗手も76歳になる。
「ある晴れた 昼さがり 市場へ 続く道 荷馬車が ゴトゴト 子牛を 乗せてゆく かわいい子牛 売られて行くよ 悲しそうなひとみで 見ているよ ドナ ドナ ドナ ドナ」
本来の歌詞は、もっとストレートなものである。
「縛られた悲しみと 子牛が揺れて行く。 ツバメは大空 スイスイ飛び回る。 風は笑うよ 一日中。 力の限り 笑っているよ。 ダナダナダナダナ ダナダナダナダン
『泣くな!』 農夫が言った 『お前は子牛か 翼があったなら 逃げて行けるのに!』
捕らえられむざむざと 殺される子牛 心の翼で 自由を守るんだ!」
「ドナドナ」の作詞者アーロン・ゼイトリン(Aaron Zeitlin)。ベラルーシ生まれのユダヤ人。1939年9月、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻が開始される少し前にニューヨークへ移住。1940年にこの詩を書いた。
19世紀後半に吹き荒れたポグロム(主にユダヤ人に対する集団的な迫害行為)。ミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』では、主人公がポグロムによって村を追われている。こうした歴史的経緯から、アメリカには多くのユダヤ人が流れ込み、新たな文化が形成された。これが「ドナドナ」を生み出す素地となる。
ナチス・ドイツによるホロコーストは、「収容所に追い立てられるユダヤ人」の記憶をそこに重ねさせた。しかし歴史の皮肉は「収容所に追い立てられるパレスチナ人」を生み出すことになる。「自由の国」アメリカでは、ベトナム反戦のメッセージとしてプロテストソング「ドナドナ」が歌われた。
何らかの体制やイデオロギーに普遍的正義があるのではなく、圧政からの解放にこそ普遍的な価値があるのだ。「ドナドナの荷馬車を降りよ!」 朝日新聞12月25日朝刊に面白い記事が出ていたので以下引用。
<私はよく、へんてこりんな服を着用している。片方だけ袖がないとか裾が異様に膨らんでるとか。しかして街を歩けば二度見され、同僚には見て見ぬふりをされ、肉親には「なんだその変な服は!」と指弾される。そんな時、私はとりあえずこう反論する。
「これ高かったんだよ!」
ひゃあ。ウソでもそう言えば、手っ取り早く相手を黙らせることができる、そう思っているわけですね。貧しいですね。サイテーですね。
以上、サンタが街にやってきたジングルベルな日になぜわざわざ生き恥をさらしているかというと、安倍内閣が過日決定した2兆円規模の「新しい経済政策パッケージ」に、私と似たにおいをかぎ取ったからである。くんくん。
パッケージの両輪は「人づくり革命」と「生産性革命」。いやはや、その名の下に行われる政策の方向性に異論はなくとも、聞くと心がスースーする言葉だ、人づくり革命。
人間が製造ラインに載せられている感じが、どうしてもする。工場の壁には「この道しかない」「一億総活躍」「国難突破」の標語が掲げられているわけで、首相がそこに「大胆に投資」するというからには、私のような「不良品」はダイタンにハジかれるのであろうなあとおぼろに不安を覚えて―おっと。大杉栄の「鎖工場」がただいま脳内に飛来した。自らを縛るための鎖を造る工場の話だ。
「もうみんな、十重にも二十重にも、からだ中を鎖に巻きつけていて、はた目からは身動きもできぬように思われるのだが、鎖を造ることとそれをからだに巻きつけることだけには、手足も自由に動くようだ。せっせとやっている」。そしてその脇では、多少風采のいいやつが「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである」と言い立て、「みんなは感心したふうで聴いている」。
2兆円スゲー。タダはうれしい。なのになんか気持ち、アガんなくないですか? 脳内に流れるBGMはなぜか「ドナドナ」。ある晴れた昼下がり、荷馬車がゴトゴトかわいい子牛は売られゆき―。
さてお立ち会い。私たちは自由か。お金で自由を買われてないか。上からの「革命」は果たして「われわれを保護」し「自由にする」だろうか。
「おだやかな革命」というドキュメンタリー映画が、来年2月に公開される。地域に根ざし、太陽光や小水力発電などでエネルギーを自治しながら、新しい暮らしの選択肢をつくり出そうとしている人たちの姿が描かれている。
監督の渡辺智史さん(36)は「震災後、人々の価値観はやはり変わってきている」と語る。私は「本当に?」の言葉をそっとのみ込む。私にはまだ「点」にしか見えない。
ただ、革命ってそんなもの、事後に初めて「線」として認知できるのかもしれない。
自分はどう生きたいか。どんな社会に暮らしたいか。個を出発点とするその問いこそが、おだやかな革命。鎖を切る。荷馬車を降りる。選択肢がなければ自らつくる。人はそのようにも生きられる。
みなさま、よいお年を。(政治断簡)ドナドナと革命、荷馬車はゆれる 編集委員・高橋純子 >
2017年12月13日
楽しさを紡ぎ出す

ウィリアム・モリスは、「社会主義者」だった。彼は他の社会主義者たちが「どうやって革命を起こすか」を考えていた時、「革命が起きた後、いかにして生活を飾るのか」を問いかけていた。

産業革命は機械による大量生産を可能にした。想像もつかないほどの多くの商品が供給されると共に、多くの粗悪品が市場に出まわった。そんな中、熟練職人による質の高い工芸品に回帰しようという運動がおこる。19世紀後半、英国に始まった「アーツ&クラフツ運動」である。

その中心的な役割を果たしたのが、思想家にしてデザイナーでもあったウィリアム・モリス(1834-1896)。彼は大量生産による俗悪な商品を嫌い、生活を美しく豊かにすることを求めた。そこで、芸術性の高い手作りの家具・壁紙・ステンドグラスなどを制作・販売するため、モリス商会を設立した。

自然の素材を活かし、過多な装飾を排したシンプルなデザイン。自然(植物・昆虫・鳥)をモチーフとし、自然環境や地域的な伝統を重視しようとするモリスの理念。それは、現代を生きる私たちにも、深く共有されうるものである。

その背景には、モリスが生まれ育ったイギリスの自然豊かな田園環境がある。私たちが都会での生活に疲れ果て、地域や自然の中での生活に憧れを抱くのと軌を一にしている。

「アーツ&クラフツ運動」は、芸術運動であると共に、資本主義経済や機械文明を批判し、ライフスタイルや社会変革を志す運動でもあった。様々な職人たちが共に仕事をし、有機農業で畑を耕し、共に学び、共に暮らす。仕事が喜びで、喜びが仕事になっているくらし。彼の描くユートピアは、時代の不合理と矛盾を鋭く告発していた。

自由な時間。自発性と創造性。自律と共生。本当に大切なことは、物欲に踊らされる「経済の自由」ではなく、自分が自分の主人公である「人間の自由」なのだ。ウィリアム・モリスは、「社会主義者」だった。「夢を描くこと」の大切さ、「楽しさを紡ぎ出すこと」を教えてくれた。

2017年12月01日
老いたギター弾き

「老いたギター弾き」。1903年後半から1904年初頭にかけてパブロ・ピカソによって制作された油絵。スペイン・バルセロナの通り。ボロボロの擦り切れた服。物憂げにギターを弾く盲目の老人。陰鬱な「青」。
ピカソ19歳の時、親友のカサヘマスが自殺。ピカソ自身の経済的な窮状。タヒチでのゴーギャンの死。ピカソを取り巻く困難・悲劇・不安。ピカソは青色を基調とした暗い画面でそれらを作品に描き始めた。盲人、娼婦、乞食など社会の底辺に生きる人々が題材となった。この作品も、その「青の時代(1901年~1904年)」のものである。
青は本来、西洋では「神の色」であり「高貴な色」。「遥かなる憧れの色」であり「希望」の色でもあった。ピカソは、そのような「青」のイメージを悲哀に満ちた作品の中に織り込んでいった。
モノクロームのカラー構成。フラットで二次元的なフォルム。抑えられた青色。憂鬱なトーンが悲劇的テーマを強調している。
ギター弾きにはすでに生命力がほとんどない。死が迫っているようなポージングは、男の状況の悲惨さを強調している。一方で、手に持つ大きな茶色のギターは、青みがかった背景から最も離れたカラーだ。
ギターはその絶望状況下にあるギター弾きにとって、唯一、生存するための小さな希望を象徴している。それはそのまま、当時のピカソの絵画への依存とそれが稼ぎ出すちっぽけな収入を表しているかのようでもある。
孤独と貧しさは青春の特権。「老いたギター弾き」は孤独と貧しさを抱えた青年そのものである。いつの時代も、そうであったはずだと“老いたギター弾き”は昔を振り返る。