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2017年07月31日

五輪という病


 過剰な同調圧力社会。「私は違う」。小さな声でも、そう叫べる社会であってほしい。「民主主義」とは、そんな立ち居振る舞いから始まる。
 久米宏氏へのインタビュー記事「日本人は“1億総オリンピック病”に蝕まれている」(日刊ゲンダイDEGITAL 2017年7月31日)
<メディアは24日に開幕まで3年を切ったと大ハシャギ。9条改憲も共謀罪も築地市場移転も東京五輪にかこつけ、押し通す。「そこのけそこのけオリンピックが通る」の狂騒劇に招致段階から反対し続けているのが、元ニュースキャスターでフリーアナウンサーの久米宏氏。
―前回の東京五輪を経験した年齢層ほど「返上」の割合が多い。
 64年大会には意義があったと感じているのでしょう。開会式前夜はどしゃ降りで「明日はとんでもないことになるぞ」と思ったら、朝起きると、雲ひとつない快晴でね。この光景が非常に示唆に富んでいて。戦後20年足らずでオリンピックをやるなんて奇跡です。当時は日本人が自信を持ち、世界に復興をアピールできたけど、今回は何の意義があるのかと疑問に思っているのでしょう。
―都心では「レガシー」とか言って再開発がドンドン進んでいます。
 僕がオリンピックに反対する大きな理由は、これ以上、東京の一極集中は避けるべきと考えるからです。既にヒト、カネ、コンピューターが集まり過ぎ。オリンピックは日本中の財や富をさらに東京に集中させます。首都直下型地震が起きたら、日本の受けるダメージが甚大になる。
―直下型地震はいつ起きても不思議はない、と危ぶまれています。
 日本で開催するにしても東京だけは避けるべきなのに、ホント理解できません。
―この季節、東京はうだるような暑さが続いています。
 競技を行うには暑すぎます。台風も来るし。日本にとって最悪の季節に開催するのは、アメリカ3大ネットワークのごり押しをIOCが聞き入れているだけ。今からでもIOCに10月に変えてと懇願すべきです。
―アスリートファーストをうたいながら、選手には過酷な環境です。
 ウソばかりつきやがってって感じですよね。なぜ真夏開催でOKなのか。本当に聞きたいんです、組織委の森喜朗会長に。アンタは走らないからいいんだろ、バカなんじゃないのって。この季節の開催は非常識の極み。開催期間の前倒しは難しいけれど、3カ月ほどの後ろ倒しは、それほど無理な注文じゃないと思う。工事のスケジュールも楽になる。絶対に開会式は前回と同じ10月10日にすべき。それこそレガシーですよね。
―こうした不都合な真実を報じるメディアも少ない。朝日、読売、毎日、日経が東京五輪の公式スポンサー。いわば五輪応援団です。誘致の際の裏金疑惑などを追及できるのか疑問です。
 国際陸連の前会長の息子が、黒いカネを派手に使ったって、みんな気付いているんですけど。なんで追及しないのかねえ、あんな酷いスキャンダルを。
―幼少期からオリンピック嫌いだったそうですね。その理由もメダルのことばかり騒いでいるのが疑問だったとか。
 間違ったことを言っちゃいけないと思ってオリンピック憲章をプリントアウトしました。第1章6項1に〈選手間の競争であり、国家間の競争ではない〉、第5章57項には〈IOCとOCOG(オリンピック組織委員会)は国ごとの世界ランキングを作成してはならない〉とある。
―どの国が何個メダルを取ったかの競争を禁じるようにしっかり明文化しているのですね。
 ところが、日本政府はもう東京五輪の目標メダル数を発表しているんです。JOCの発表は「金メダル数世界3位以内」。選手強化本部長は「東京五輪を大成功に導く義務があり、それにはメダルの数が必要」と言っていますが、ハッキリ言ってオリンピック憲章違反。国がメダルの数を競っちゃいけないのに、3年も前からJOCがメダルの数を言い出す。こういうバカさ加減が、子供の頃から変だと思ったんでしょう。
―お子さんの頃から鋭かったんですね。
 しかも、メダルの色や数で競技団体が受け取る助成金まで上下する。差別ですよ、完全に。
―普段から憲法を無視し、そのうえオリンピック憲章違反とはルール無用の政権ですが、丸川珠代五輪相も昨年ラジオのゲスト出演をドタキャンしましたね。
 出演交渉したら「喜んで行く」と言ったんですよ。久々に会うから楽しみに待っていたのに、政務がどうとか言ってね、1週間前にキャンセル。理解に苦しみます。
―反対の意見は聞きたくないという今の政権の姿を象徴しています。
 自分たちに非があるって分かっているんじゃないですか。プロセスがちっとも民主的じゃないですから。五輪開催について都民の声を一切聞かない。巨額の税金を使うのに、都民に意見を聞かずに開催していいのか。非常に疑問です。今からでも賛否を問う住民投票を行う価値はあります。
―多くの人々は「ここまで来たら」というムードです。
 それと「今さら反対してもしようがない」ね。その世論が先の大戦を引き起こしたことを皆、忘れているんですよ。「もう反対するには遅すぎる」という考え方は非常に危険です。日本人のその発想が、どれだけ道を誤らせてきたか。シャープや東芝も「今さら反対しても」のムードが社内に蔓延していたからだと思う。
―都民の声を聞くのはムダではない、と。
 90%が反対だったら、小池都知事も「やめた」って言いやすいでしょう。彼女はあまり五輪に賛成ではないとお見受けします。石原さんが決めたことだしね。五輪を返上すると、違約金が1000億円くらいかかるらしいけど、僕は安いと思う。それで許してくれるのなら、非常に有効なお金の使い道です。
―24年夏季五輪招致に乗り出した都市も住民の反対で次々断念し、残るはパリとロサンゼルスのみ。IOCも28年大会に手を挙げる都市が現れる保証はない、と2大会をパリとロスに振り分ける苦肉の策です。
 世界は気付いたんですよ、五輪開催の無意味さを。ソウル大会以降、開催国の経済は皆、五輪後に大きく落ち込みました。リオも今酷い状況らしい。しょせん、オリンピックはゼネコンのお祭りですから。つまり利権の巣窟。一番危惧するのは、五輪後のことを真剣に考えている人が見当たらないこと。それこそ「オリオリ詐欺」で閉会式までのことしか誰も考えていない。国民が青ざめるのは祭りの後。いいんじゃないですか、詐欺に遭っている間は夢を見られますから。今は豊田商事の証券を持っている状況です。
―また古いですね。
 結局、日本人はスポーツが好きなワケじゃない。オリンピックが好きなだけなんですよ。ノーベル賞も同じ。科学とか文学とか平和が好きなんじゃない。あくまでノーベル賞が好きなんです。
―確かにオリンピックの時しか注目されない競技があります。
フェンシングとかね。カヌーもリオで日本人が初の銅メダルを獲得した途端に大騒ぎ。異常ですよ。日本人はカヌーが好きなんじゃない。オリンピックが好き。メダルが好きというビョーキです。
―世間はオリンピックのことなら何でも許される雰囲気です。
 ラジオで「オリンピック病」の話をしたら、モンドセレクションも加えてくれって電話が来ました。いっそ立候補する都市がもう出ないなら、IOCもずっと東京に開催をお願いすればいい。一億総オリンピック病なら安心でしょう。IOC本部もアテネの銅像も全部、東京に移しちゃって。
―五輪反対を公言する数少ないメディア人として、向こう3年、反対を言い続けますか。
 何で誰も反対と言わないのか不思議なんですよ。そんなに皆、賛成なのかと。僕は開会式が終わっても反対と言うつもりですから。今からでも遅くないって。最後の1人になっても反対します。でもね、大新聞もオリンピックの味方、大広告代理店もあちら側、僕はいつ粛清されても不思議ではありません。>
  


Posted by biwap at 14:23biwap哲学

2017年07月26日

幻の名画


 ビデオにもなっていなければ、DVDにもなっていない。テレビで放送されることもない。上映用プリントは劣化し、退色が目立っていた。最新技術で色合いを復元したものの、作品の上映権は京都市が所持しており、権利関係も複雑に絡んでソフト化することもできなかった。幻の映画。
 50年前に見逃したこの映画が気になって調べてみた。一般公開される唯一の機会。それは、祇園祭のシーズンに京都文化博物館・映像ギャラリーで行われる上映会。さっそく、祇園祭・後祭(アトマツリ)の日に見に行った。「1960年代」のパワーとエネルギーに圧倒され、168分の時間も忘れ、見入ってしまった。


 1968年に公開された映画『祇園祭』。応仁の乱後の京都が舞台。戦禍にまみれた京の町で、町衆たちは、殺し合わない方法で権力に対峙し自治を獲得するため、30年間途絶えていた祇園祭を復興しようとする。中村錦之助や岩下志麻のほか、三船敏郎、美空ひばり、高倉健、渥美清らが登場する豪華さも見どころ。


 応仁の乱により京の都は荒廃。地方では百姓が土一揆を起こし、馬借や河原者と呼ばれる被差別の人々がこれに加勢。京都の町は何度も襲撃される。肝心の侍たちは機能せず、町衆は体を張って六角堂を守っていた。土一揆は念仏踊りにまぎれこんで京都の町の中心部まで潜入。町衆と一触即発になる。そこへ、その場の空気から完全に浮いている美女あやめ(岩下志麻)が登場。同じく笛の名手である染物職人の新吉(中村錦之助)は彼女に惹かれていく。
 新吉たちは細川家の依頼により山科へ出兵、京の町民と農民たちとの戦いが始まった。貧農に加勢する馬借の熊左(三船敏郎)と一戦を交え、ようやくこれを撃退した新吉。実は町民も農民も侍たちの犠牲になっているだけなのではないかと、疑問を持ち始める。


 土一揆をしていた百姓たちも過酷な年貢に苦しめられていた。京都に来た一揆に対して「無益な殺し合いはやめよう」と彼らを逃がした新吉の母親は、警護の侍に咎められ、たたき殺される。
 あやめは「河原者」と呼ばれる被差別の出自。新吉は、彼女の悲しみに触れる。同胞を殺すための戦争の道具を作らされている「弦召(ツルメソ)」の青年(北大路欣也)からは、「これでたっぷりと人殺しをするんだろう」と吐き捨てられる。


 対立する百姓と町衆、賤視される「河原者」「弦召」「馬借」。新吉は、本当の敵が何であるのかを本能的に見つけ出していく。
 武力で対抗しても侍には勝てない、ここはひとつ平和的な祭りで町おこしをしよう。目覚めた新吉のリードで、30年途絶えていた「祇園祭」の準備が始まった・・・


 原作は西口克己の小説。1961年、映画監督の伊藤大輔が中村錦之助主演を前提に東映に企画を提出したが、製作費が莫大になることがネックとなり、お蔵入り。その後、映画界は斜陽となり、東映は任侠路線へ転換。最終的には京都府政百年記念事業として京都府の協力と京都市市民のカンパを得て、「日本映画復興協会」の名の下、1967年、製作が開始。しかし、構想・企画段階からのスタッフの降板、監督の交代、政治的妨害、関連団体からの圧迫などの艱難辛苦の末、完成まで7年の歳月を要した。一方、映画会社主導ではなかったのが幸いし、東映・東宝・松竹のトップ俳優に加え、フリーの大物俳優が集結した。エキストラとして、京都市民も数多く参加。封切りは1968年11月23日。通常の邦画系映画館ではなく洋画系映画館にてロードショー公開され、大ヒットを記録。その後、様々な事情から一般公開は困難となる。
 相も変わらず、百田尚樹やケント・ギルバートなどのヘイト本が積み上げられる書店。文化の退廃と不健康さに心が凍りつく。「幻の名画」を見た後、この真っ直ぐなエネルギーとたくましい倫理観は何なのだろうかと考えた。映画技術の稚拙さ、時代的制約、そんなものを超えて圧倒的な説得力を持って迫ってくるもの。私たちがピンと背筋を伸ばし、胸を張って生きていくために必要なもの。それは、どこかで私たちが間違って手放してしまった、「自分の思想を鍛える」ということだったのではないか。
  


Posted by biwap at 15:15biwap哲学芸術と人間

2017年07月21日

隼人の舞



 青木繁『わだつみのいろこの宮』
 アール・ヌーヴォーのようなモダンな絵だが、題材は『古事記』から。
 「ニニギとコノハナサクヤビメから生まれたのがホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)。兄のホデリは海で魚を取り、弟のホオリは山で獣を取っていた。ある日、弟のホオリがお互いに使っている道具を交換しようともちかける。しぶる兄から借りた大切な釣り針をホオリは海でなくしてしまう。潮流の神シホツチがあらわれ、海の神ワタツミの住む宮に行くよう教えてくれる。竹で編んだ籠船に乗りワタツミの宮にたどり着いたホオリは、海の神の娘トヨタマビメと出会いねんごろになる。」
 ホオリ(山幸彦)が、釣り針を探して海底にある「魚鱗(イロコ)の宮」へ辿り着き、水を汲みに来た海神の娘トヨタマビメ(豊玉姫)と出会う場面だ。
 「海の神ワタツミにも気に入られ、ホオリはトヨタマヒメを妻にして海の底の宮殿で楽しい日々を送った。いつの間にか3年の月日が経っていた。ホオリはここへ来た理由をふと思い出し、急に憂鬱になった。海の神ワタツミが海中の魚に呼びかけ釣り針を探させた。赤い鯛の喉から釣り針は見つかり、ホオリは日向に帰っていくことになる。ワタツミはホオリに兄を従わせる策を授けた。
 ワタツミは水を操ることにより、ホオリを豊かにし、兄のホデリを貧しくした。生活に窮したホデリが怒って攻めてきた。ホオリはワタツミからもらった二つの真珠の呪力で兄を降参させた。このことから、ホデリの子孫は、未来永劫ホオリの子孫である天皇家に恭順を尽くすことになる。」
 弟・ホオリ(山幸彦)の子孫は天皇家となり、兄・ホデリ(海幸彦)の子孫は「俳優(ワザオサ)の民」として天皇家に仕えることになる。その子孫は「隼人(ハヤト)」と呼ばれ、九州南部の辺境の人たちを指し、北の辺境に住む人たちを「蝦夷(エミシ)」と呼ぶのと対になる。そこには、中央の側の差別意識が色濃く現れている。
 「俳優(ワザオサ)」とは、戯伎を演じる芸人の意だが、古代の宮中では、宮門の警護にあたる隼人が犬の鳴き声を発し仕えていたと言われる。


 京都府京田辺市大住。10月14日の夕刻、月読神社・天津神社の宵宮に奉納されるのが「隼人舞」。約1300年前に大隅隼人が朝廷に仕え、宮廷で演じたとされる古代芸能を復活させたものだ。
 舞人は地元の中学生の子どもたち。古代の衣装を身にまとい、手には剣や盾などの武具、扇、鈴を持ち、太鼓や龍笛の音に合わせて踊る。海で溺れているところを山幸彦に助けられた海幸彦。山幸彦への服従を誓い、その証として永久に俳優(ワザオギ)たらんと、水に溺れている様子を演武したもの。
 大和政権に反抗した隼人(ハヤト)は、畿内に移住させられた。隼人の一部は「隼人司」として大和朝廷に参加し宮廷の警護を行ったほか、芸能・相撲・竹細工などを行うようになった。また、天皇が即位するときの大嘗祭では隼人は獣のように吠え、邪気悪霊を祓った。平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれていた。狗吠(犬の鳴き真似)行為や身につけている緋帛の肩巾(ヒレ)や横刀が、悪霊を鎮める呪声であり、呪具であったといわれる。
 隼人の移配地は、いずれも畿内の主要河川・道沿いに立地している。奈良県五條市、京都府京田辺市、京都市上京区下横付近、京都府綴喜郡宇治田原町、大阪府八尾市、滋賀県大津市大石竜門町付近、京都府亀岡市などだ。
 特に山城国(京都府)南部に多く定住。「大隅」隼人の移り住んだ場所が、まさに京田辺市「大住」だったのだ。
  


Posted by biwap at 10:24勝手に読む古事記

2017年07月17日

草津よいとこ


 「草津です」「ああ、あの温泉で有名な」「・・・・」。そんな訳で、滋賀県民としては、一度は行かねばならぬ群馬県草津温泉。


 江戸時代の儒学者・林羅山は、有馬温泉・草津温泉・下呂温泉を「日本三名泉」とした。


 北西部に聳える草津白根山。草津温泉は、草津白根山から東へ流れる地下水に火山ガスが出会って生じたもの。


 泉質は炭酸水素塩泉で、pH2.1と強酸性。温泉街のシンボルとなっているのが「湯畑」。湧き出た湯を7本の木樋に通すことで、100度という高温の源泉を薄めることなく外気によって冷ます仕組み。


 草津温泉。直接史料での初出は、1472年。蓮如が訪れたときのものであると言われる。この頃にはすでに全国に名の知れた湯治場であった。豊臣秀吉が徳川家康に草津入湯を勧めた書状なども伝わっている。江戸時代。交通は不便にもかかわらず、年間1万人を超える湯治客で賑わった。60軒の湯宿があり、「草津千軒江戸構え」といわれた。


 強酸性泉による殺菌作用から「万病に吉」として、切り傷からハンセン病・梅毒・皮ふ病まで、幅広い湯治客を受け入れてきた。明治時代、草津温泉郷にはハンセン病集落ができていた。第二次大戦後、ハンセン病治療薬の登場により温泉療法は急速に廃れた。草津温泉は方向転換を余儀なくされ、一般観光客を集める温泉観光地としての道を歩むこととなる。


 温泉街の中心部に湧く源泉「湯畑」の周囲は、ロータリー状に整備されている。デザインは、湯治客としてこの地を訪れた岡本太郎。湯が滝のように湧き出る光景は全国的にも数少なく、夜間のライトアップが美しい。


 しかし、草津温泉イチオシの「魅力」をこんな所に発見した。地域の人たちが利用する無料の共同浴場が19ヶ所ある。勝手に戸を開けて中に入る。脱衣所と湯船だけ。


 とにかく熱い。さっと入り、さっと出る。驚くほどのスッキリ感!これぞ、日本一の湯。狭い浴室で、見知らぬ人と何気に声を掛け合う。そうか「温泉」とは、こういうものだったのだ。


 滋賀県草津市は、草津温泉を有する群馬県草津町と1997年に友好交流協定を結んでいる。2016年6月25日「京都新聞」には、次のような記事が出ている。
 <1925年に開業した草津市の老舗銭湯「草津温泉」が29日に閉店する。JR草津駅近くにあり、地元住民に愛され、群馬県の草津温泉と同名でも知られた名物浴場だった。生活習慣の変化で経営が難しくなり、91年の歴史に幕を閉じる。経営者は「よくここまで続けてこられた。お客さんのおかげ」と感謝している。>


 1925年、中山道から草津川堤防に沿う竹藪を切り開いて作ったのが「草津温泉」。西洋風の3階建てで、2階正面にはバルコニーもあり、モダンな造りとなっていた。左手の渡り廊下は、隣接する映画館へとつながっていて、人々の娯楽の場であった。
 第二次世界大戦後、ヨーロッパの市民は廃墟と化した自分たちの町を昔のように再生するため、煉瓦を一つずつ積み上げたという。自分たちの住む土地への誇りと愛着。それは偏狭なナショナリズムや暴力的な開発主義とは対極のものなのだ。

  


Posted by biwap at 15:36近江大好き旅行記

2017年07月11日

滋賀県の誕生


 戊辰戦争が終わって敵対者はいなくなったが、260余の「藩」は依然として残っている。明治新政府は、藩の枠を破り土地・人民の集権的支配を目指した。
 木戸孝允は山口に帰り、藩主毛利敬親に土地と人民を政府に出すようすすめる。大久保利通は薩摩藩主に、土佐・肥前もこれにならった。1869年1月、薩長土肥は、「版籍奉還」を政府に願い出た。4藩が連名で出せば他の藩もこれに従うだろう。目論見はズバリ的中。他藩も新政府から脱落する事を恐れ、争って奉還を申し出た。版=版図(土地)。籍=戸籍(人民)。”形式的”には封建制度が廃止。しかし、 旧藩主は「知藩事」と名称が変わり、国家の官吏として旧支配領に君臨。封建的主従関係は続いた。
 近代国家として国土・人民を直接支配する。そのために必要なのは暴力装置。大久保・木戸は鹿児島に帰っていた西郷隆盛を口説いて中央政府に入れ政府の軍隊を作った。薩長土の兵を東京に集め、皇居を守るという名目で1万人の親兵を組織。これを背景に「廃藩置県」が断行。「知藩事」として君臨していた旧藩主は解任。府知事・県令が中央から派遣された。鹿児島の島津久光は怒った。「大久保と西郷に騙されつづけた!」 もう後の祭り。1871年7月、「廃藩置県」。当初は「藩」をそのまま「県」にしたため 3府302県あった。11月、3府72県に整理。
 江戸時代の近江国は、藩領・公家領・寺社領・幕府直轄領など、大小様々な領地が入り組んだ状態だった。1871年7月に行われた「廃藩置県」では、旧来の「藩」を「県」に置き換えた膳所県や彦根県など8つの「県」が誕生。その他にも15県の飛び地が存在していた。全国的に県の統廃合が進む中、1871年11月、北半分が「長浜県」、南半分が「大津県」に大きく統合された。この「大津県」「長浜県」はそれぞれ「滋賀県」「犬上県」と改称され、1872年9月、両県が合併することで「滋賀県」が誕生。
 県名の由来について、司馬遼太郎は「街道を行く」で次のような面白い話を書いている。
 「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。長州藩-山口市が山口県。土佐藩-高知市が高知県。肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。の四県がその代表的なものである。戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
 これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
 戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている」
 戊辰戦争北陸での最大の激戦地「長岡」。当時最大の町であったが、県庁を置くとテロの恐れもあり、小さな港町「新潟」に県庁を置いた。新潟県。同じように治安上の理由で金沢市内に県庁を置けず、郊外の石川郡内に県庁を置いた。石川県。
 戊辰戦争の「賊軍」「官軍」に対する「報復」「賞罰」が県名にあらわれたという説は興味深い。しかし、この法則で一般化するのは無理がある。
 幕末の和親通商条約と異なった開港をしてしまったために、ずれてしまった神戸市/兵庫県、横浜市/神奈川県のような例もある。
 近江の場合、「長浜県」→「犬上県」については、県庁が長浜から犬上郡彦根へ移転したことと関係あるのだろう。彦根と長浜で県庁の取り合いをしていたようだ。「大津県」→「滋賀県」の理由は不明である。
 ところで、大老・井伊直弼を輩出した譜代大名筆頭の彦根藩。幕末、徳川慶喜との関係を重んじる家老と新政府寄りの下級藩士が対立。鳥羽・伏見の戦いでは、家老派は慶喜のいる大坂城へ参陣したが、藩の大多数の兵力は最初から新政府側に加わっていた。戊辰戦争において、彦根藩は完全に新政府軍として参戦。会津まで転戦し、功をあげている。1871年7月の廃藩置県では、彦根藩は「彦根県」に、藩主・井伊直憲が知藩事になっている。
 1876年、政府が経費節減を名目に3府35県に府県を統廃合。敦賀県(現在の福井県とほぼ同じ領域)が廃止となり、若狭国(三方郡・遠敷郡・大飯郡)と越前国敦賀郡が滋賀県へ、残りの地域は石川県へと移管された。滋賀県は一時的に若狭湾という海に面していた。1881年2月7日、福井県が設置。これに伴い、<若越四郡>は滋賀県を離れ福井県へ移管。海はなくなった。
 2015年2月、滋賀県議会で「県名を変えるのもひとつの方法では」との意見が出された。全国的に滋賀県の知名度が低いため。県名変更についての県政世論調査が行われた。7月27日に発表されたアンケート調査の結果。「変える必要はない」82.8%。「変えた方がいい」6.5%。
 15才まで滋賀県で暮らしていた尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんは、この“改名騒ぎ”に唖然。
 「最近、近江県とか琵琶湖県に変えたらどうかという話が出てきたので、びっくりしています。ぼくが滋賀を離れて50年以上たちますが、住んでいた頃は知名度が低いなんて意識もしませんでしたよ。ぼくは滋賀の歴史と文化に誇りを持っていますし、人情もあってとてもいい県だと思っていますから」
 まことに同感!
  


Posted by biwap at 18:24近江大好き歴史の部屋

2017年07月08日

先回りした服従


◎朝日新聞2017年7月7日朝刊「耕論」
「先回りした服従、悲劇生む」ヴィルヘルム・フォッセさん(政治学者)
 ドイツには「フォラウスアイレンダー・ゲホルザム」という言葉があります。忖度と同じように、訳すのは難しいですが、直訳すれば「先回りした服従」という意味です。なぜ、ホロコーストのような大量虐殺が起きたのかを説明する際によく使われます。
 法律や社会のルールを守り、税金を納める。家庭では、よい息子、よい娘で、ほめられたい。周囲に波風を立てないよい隣人で、異議を唱えようとしない態度が、結果として非人道的な悲劇を生む土壌になったのです。
 日本の政治と社会の研究を30年以上してきました。日本とドイツは似ています。まじめで時間を守り、先回りして自主的に服従します。ドイツの戦後と日本の戦後もある時期までは非常に似た道をたどったと思います。ドイツ人は独裁の被害者として、新しい国の再建に全力をつくしました。保守政権が続き、ドイツ車が世界を走るようになり、1954年にはサッカーのワールドカップで西ドイツが優勝しました。
 自信を取り戻しつつあったドイツ人に大きく影響したのが、68年から世界を覆った若者の反乱でした。きっかけは米国でのベトナム反戦運動です。日本でも、日米安保体制に対する反対や大学制度を見直す運動があり、環境運動などその後の市民運動にも様々な影響を与えました。ドイツでは若者たちが、教授や親の世代が戦争中に何をしていたのかを問いただす運動に発展したのが大きな特徴でした。
 「ガウンの下の千年のホコリ」。第三帝国を「千年王国」と称したナチスとの関係が、大学教授の着るガウンの下に隠れていないか。過去を白日の下にさらそうという動きが、社会全体に大きく影響しました。
 民主的だったワイマール体制がヒトラーの台頭を許してしまったのは、制度の欠陥ではなく、民主的な思考と行動をする市民が足りなかったとの理解が広まったのです。それまで、先回りして服従するのがよい市民だとされてきた考えから、疑問を公的に発する成熟した市民になることが重要だという考えが共有され、意識が変わったのです。
 日本はそうなっていません。この意識は国の発展も左右するでしょう。
 工場で高品質の製品を大量につくるには、波風を立てず、仲間や上司の期待に応えることが役立ちます。それは日本でもドイツでも証明されてきました。
 しかし、世界は新しい価値やそれまでになかったサービスや商品を生み出す大競争の時代に入っています。摩擦や対立を恐れず、多様な意見や価値を認め合う社会的な基盤は民主主義を存続させるだけでなく、経済的な競争の側面からも、求められていると思います。
  


Posted by biwap at 22:36

2017年07月06日

蜘蛛の糸


◎佐高信『週刊金曜日』6月16日号
 黒田勝弘が客員論説委員となって2016年3月26日付の『産経』の連載コラムに次のように書いたという。
 「ソウルの日本人学校は1972年に創立された。当初は都心の雑居ビルを借りた塾のような学校だった。80年に漢江の南の街はずれに畑地を購入し、運動場や体育館もある、ちゃんとした学校になった。(中略)それから30年後の2010年、学校が老朽化したため建て直しを機に移転した。(中略)新しい学校用地はソウル市が元の学校の土地と交換する形で提供してくれた。元の地域は地価が高騰していたため、差額で最先端の新校舎も建てられた。最初の土地購入は韓国政府のお世話になっている」
 よく、これが載ったなと思うような『産経』のこのコラムを秀逸として引いているのは前都知事の舛添要一である。『都知事失格』(小学館)に舛添はこれを引き、そして黒田の次の結びも引用する。
 「最近、東京の韓国人学校の移転先に都立高校跡地を提供する計画に反対、批判の声が出ているとの記事が本紙に出ていたが、こうした反対はまずい。ソウル日本人学校もお世話になっているのだから、ちゃんと実現してほしい」
 舛添がこのコラムを「干天の慈雨」として読んだのは、舛添が2016年3月16日に韓国人学校への用地貸与の方針を発表してから、嫌韓派からの猛烈なバッシングを受けたからだった。
 右翼の街宣車などが都庁だけでなく、舛添の自宅にまで押しかけ、「売国奴、国辱外交をやめろ!」と大音量の拡声器でがなりたてた。最大で車両17台を連ねてやってきたこともあり、特に自宅周辺の住民には大変な迷惑をかけたという。
 舛添が北京やソウルを訪問して展開した都市外交が気に入らなかったわけだが、特に元都知事の石原慎太郎のシンパは「親中派、親韓派の知事を排除せよ」と息まいたとか。
 問題なのは石原と小池が、この点では一致することである。都知事になって小池が最初にやったのは、韓国人学校への援助反対の急先鋒、野田数(ノダ・カズサ)を特別秘書に任命したことだった。野田は、小池が「都民ファーストの会」の代表になるまで、そのかわりを務めていた男である。
 私は舛添を弁護するつもりはない。しかし、ヘイトスピーチがはびこる中で、韓国人学校への用地貸与を進めようとしたことは重要だろう。
 舛添は前記の黒田のコラムを引用した後にこう書く。「小池百合子知事は、この計画を白紙に戻すことを決めて韓国側にもその旨が伝えられたという。日韓関係を改善する一歩だったのに残念でならない」
 この小池と公明党は都議選で手を組んだ。コウモリはまっすぐには飛べないトリだが、コウモリ党の公明党もデタラメな飛行を繰り返している。
 『都知事失格』で舛添は、その公明党の裏切りを批判する。「与党として支援してきた私を弊履のごとく捨てた」というのだが、それは自業自得の側面もあるだろう。裏切り常習の公明党に乗っかってきたからである。いまさら泣き言を並べても仕方がない。
 今度、「東京・生活者ネットワーク」も小池と手を結んだが、舛添が小池よりマシな一点は無視してもいいのか。私は多大の疑問を持っている。見逃してはいけないポイントだと思うからである。
  


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2017年07月05日

違うだろう!


 野田数(ノダ カズサ)、43歳。東京都東村山市生まれ。早稲田大学卒業後、東京書籍に入社するも1か月で退職。「歴史教科書のありかたに疑問を持ち、政治の道へ」。東村山市議から東京都議へ。
 2012年10月、現行の日本国憲法を無効とし、戦前の「大日本帝国憲法」の復活を求める請願を紹介議員として東京都議会に提出。その中で「我が国の独立が奪われた時期に制定された」と現行憲法の無効を主張するとともに、皇室典範についても「国民を主人とし天皇を家来とする不敬不遜の極み」「国民主権という傲慢な思想を直ちに放棄」すべきことを主張。
 石原慎太郎・都知事が尖閣諸島の購入計画を表明すると、右翼団体が実施した諸島の洋上視察に参加。
 「日本政府や軍が『従軍慰安婦』なるものを強制連行した事実はない」「正しい知識と正しい歴史観を東京都の子どもたちに教えるべきだ」と主張し、「教育勅語」を礼賛。都立高校の歴史教科書から南京虐殺を削除するよう圧力をかける。
 自民党を離党し、「東京維新の会」を立ち上げる。2012年12月、衆議院議員総選挙に日本維新の会公認で立候補するも落選。「政治評論家」「教育評論家」等の肩書きを自称して執筆活動を開始。「WiLL」「SAPIO」「正論」などの右派系雑誌に寄稿。戦前戦中の、日本の軍国主義を賛美。
 2016年、東京都知事選挙。かつて秘書を務めていた小池百合子の選挙対策本部責任者を務める。
 2017年1月、「都民ファーストの会」代表就任。6月、小池都知事の代表就任に伴い代表退任。
 7月3日、小池都知事の代表辞任に伴い、「都民ファーストの会」代表に復帰。「公金横領疑惑」「六本木ハレンチ豪遊」など、市民派のクリーンなイメージとは程遠い。
 小池氏自身も「日本会議」国会議員懇談会の副会長を務めていたことがある。都知事就任後にも、「ここ数年は距離を置いているが、日本の国益、伝統、歴史は大切にするという点では賛成」と発言。2010年には、ヘイト市民団体「在特会」(在日特権を許さない市民の会)の関連団体「そよ風」が主催する集会で講演。もちろん、憲法9条を変えるべきだという改憲論者。
 「韓国人学校への都有地貸与の撤回」を功績として語り、都立看護専門学校や首都大学東京での入学式・卒業式において、国旗の掲揚のみならず「国歌斉唱についても行うよう望んでいきたい」と発言。その結果、この4月に行われた7つの都立看護専門学校の入学式では「君が代」斉唱が行われた。
 メディアが持ち上げてやまない「小池劇場」。果たして、安倍批判票を投じた人たちの思いやいかに???
  


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2017年07月04日

真夜中のギター



◎朝日新聞2017年7月3日朝刊「政治断簡 個人と世界と真夜中のギター」(高橋純子)
 「自分の住む世界を変えたいんだよね? 君は。それを人に頼むんだ? 人のせいなんだ?」「自分が変わらずに、世界は変わらないよ」
 NHK連続テレビ小説「ひよっこ」の脚本を担う岡田惠和氏が、4年前に手がけたドラマ「泣くな、はらちゃん」。世界を変えてと“神様”に懇願する主人公に向け放たれるこのセリフを、知覚過敏の奥歯でかみ締めた。都議選最終日、首相に振られる日の丸の小旗の映像をながめながら。
 白い花柄のワンピースが、西日に映えてまぶしい。
 6月2日、国会議事堂前の歩道に、彼女はすっくと立っていた。不自然なほどまっすぐに伸びた背筋に、そこはかとない緊張感が漂う。胸元に掲げられたプラカードには、「FIGHT TOGETHER WITH SHIORI」(詩織と一緒に闘う)
 「性犯罪の被害を受けたのに、相手が不起訴処分になった」として検察審査会に不服を申し立てたフリージャーナリスト・詩織さん。その記者会見を見て、じっとしていられず、SNSで呼びかけられた抗議に参加したという彼女は21歳、大学3年生。
―ひとりで来たの? 勇気がいったでしょう。
 「いや、友達誘う方が、逆に勇気いるんで」
―どうして来ようと?
 「私、去年、電車で痴漢に遭って。本当につらくて、仲のいい男友達に相談したら、『お前でも痴漢されるんだ』みたいに言われて。これって何なんだろう?って、女性差別の勉強を始めて、自分がもっと主体的に社会を動かさないといけないって思って」
 同じようなプラカードを手にした150人ほどが、ただ黙って立っている。シュプレヒコールもなにもない静けさの底に、ずっしりとした怒りがたたえられている。
 でもそれは、詩織さんという固有名詞を超えて、自らの尊厳が傷つけられた時の痛みの記憶、その古傷から漏れ出す怒り、なのかもしれない。
 一緒に闘う。
 あなたは、ひとりじゃない。
 私たちは時に「誰か」に、そう伝えたくなる。誰も聞いていないのに、真夜中のギターを弾いてみたりする。
 「個人の尊厳 国民主権」
 先日、日本記者クラブで記者会見した前川喜平・前文部科学事務次官はこう揮毫(キゴウ)した。自分の信念、思想、良心は自分自身だけのものとして持たなければいけない、と。
 個人。良心。自民党改憲草案はこれをどう扱っているか。13条「すべて国民は、個人として尊重される」の「個人」は「人」に、19条「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」は「思想及び良心の自由は、保障する」に変えられている。なるほどね、そういうことね―。
 あったことがなかったことにされ、なかったことにはできないと良心に従い声をあげた個人が攻撃される国は美しい国ですかそうですか。
 あなたは、ひとりじゃない。
 私はギターをかき鳴らす。じゃがじゃがじゃがじゃがかき鳴らす。夜明けまで。世界がぱちりと目を覚ますまで。


◎スポーツニッポン2017年6月1日
 元TBS記者でジャーナリストの山口敬之氏(51)を準強姦罪で告訴も、不起訴処分となったことを不服として検察審査会に審査を申し立てたジャーナリストの詩織さん(28)が31日、都内でスポニチ本紙の取材に応じた。圧力があったとも感じさせた捜査、性犯罪被害者に不利に働く現在の法的・社会的状況を、時折、涙で声を詰まらせながら訴えた。
 名前を明かし顔も出した29日の会見で気丈な対応を見せたのとは対照的に、この日は涙を抑えられない場面が幾度となくあった。
 「今後も同じ思いをする方が出てきてほしくない」と開いた会見。見たくない部分に触れざるを得ないことから「猛反対」していた家族の反応を聞かれた際、「大切な妹がいるんですけど」と切り出すと、言葉を詰まらせた。「彼女にも未来があるのに、私が(表に)出ることによって迷惑がかかるんじゃないかと心配していたんですけど、やはりつらかったみたいで」
 “実名・顔出し”を決意した裏には、「黙っていたら(事件が)消されてしまう」との思いもあった。相手は安倍晋三首相に最も近いとも言われるジャーナリスト。捜査がゆがめられたのではないかとの指摘も出ている。
 捜査に消極的だった警視庁高輪署だが、「(現場の)ホテルには防犯カメラがあるから、データが消される前に必ず見てくださいと話してやっと見てくれて、事件性ありとみなされて、そこから少しずつ捜査がスタートしたんです」。ようやくこぎ着けた逮捕状の取得。しかし、それが執行されることはなかった。現場の捜査員からは電話で「上からの指示」と告げられた。
 執行にストップをかけたのは当時の警視庁刑事部長。菅義偉官房長官の秘書官を務めたこともある人物だった。「高輪署は捜査1課に話をしているし、著名人の捜査は大変だと聞いていたので、逮捕状を取る時もしかるべきところを通されているわけで…」と所轄と本庁とで情報共有がなされていたとした上で、突然の“捜査指揮”に言及。「誰に聞いても答えを教えてくれない。異例だとしか。本当に知りたいと思い自分でも調査をしていくと、(官邸人脈と刑事部長の)名前がリンクしたんです」
 扱いが1課へ移ると、警視庁から示談を勧められるという「極めて異例」(代理人弁護士)な展開を迎えた。準強姦罪は親告罪。大きな意味を持つ。「彼らの車で彼らが同席する中で示談の話を勧められるというのは…。警察の方は捜査する方たちで、示談を勧める立場ではないし、起訴できないと決めつけるところでもない」と切り捨てた。
 「2年前からストレスで髪が抜けるようになりました」と打ち明けた詩織さん。傷つきながらも心はなお闘おうとする一方、体には無理が表れてしまっているらしい。友人は「それほどつらい状況なのです」と察した。
  


Posted by biwap at 06:00biwap哲学

2017年07月02日

SEOUL ON THE STREET


 「野党は無力化され、情報機関が国民の動向を監視し、経済成長を低賃金で支える工場労働者の権利要求は、徹底的に抑えつけられた。マスコミは政府のしもべとなった。TVや新聞は、政権が与える『報道指針』に沿った報道を行い、政府に批判的な記者やテレビマンの多くはクビになった。公共放送局のニュースは政府広報と化し、保守系紙は、政権にゴマをすることで部数を伸ばした。国民の目を政治からそらすために、オリンピックを招致してお祭り騒ぎが演出された」
 今の日本の話ではない。1980年代、韓国。冬の時代。全斗煥(チョン・ドファン)大統領の独裁政治。歯向かう市民は投獄され凄惨な拷問を受けた。市民の怒りは「沸点」を越え、政権に反対の声をあげた。
 1987年に韓国で起こった、市民による民主化運動を描いたマンガ『沸点 ソウル・オン・ザ・ストリート』(加藤直樹:訳/ころから)。今回の朴槿恵(パク・クネ)政権退陣要求デモの一つの原点であるともいえる。


 公安刑事が「政治色も違う。宗教も別。あいつらに何ができる」と嘲笑する多様な人びとが合流する。そこから生まれる熱が1987年6月の路上を「沸騰」させた。普通の人たちの非暴力の抵抗は21世紀の「キャンドル世代」へと受け継がれていく。
 解説を書いたクォン・ヨンソクは言う。「資本と権力側が国を超えて提携している今、それに抗う側もトランスナショナルな提携を真剣に考慮すべきなのではないだろうか。原発、米軍基地、格差、教育、歴史修正主義、新自由主義、国家主義など、日韓は共通の課題を抱えており、市民社会の連帯は緊急の課題といえる」
 大韓民国憲法の第一条2項に『大韓民国の主権は国民にあり、全ての権力は国民から発する』とある。抵抗の歴史が、自分たちの手でこの国をつくってきたという自負を生む。市民が独裁政権と戦った1980年の『光州事件』の追悼式典には、保守派の大統領であっても必ず参加する。なぜならこれを否定することは、国民が戦って得た共和国の歴史、民主主義の歴史を否定することになるからだ。
 作品の中で主人公ヨンホの兄・ヨンジンが飲み屋で若者に向かって、「変節者が一緒に泣いてはいけませんか?」と語るシーンがある。不当逮捕と拷問の末に命を落としたパク・ジョンチョル(実在の人物)を悼む街の若者たちは、居合わせた大企業のサラリーマンであるヨンジンやその上司に、「お前らは何もしないくせに」と軽蔑のまなざしを向ける。しかしヨンジンは彼らに「怒り悲しむ資格は闘っている人にしかないのですか?」と問う。デモに参加しない=政治に無関心では決してなく、それぞれのやり方がある。その「優しさ」と「やわらかさ」と「したたかさ」こそ、過酷な圧政と闘う中で獲得したものなのだ。
 火炎瓶の学生運動時代から、若者の柔らかい感性はキャンドルを持った平和的なスタイルへと移行した。マイノリティーの人権や尊厳を求める運動も根付いている。嫌韓論者だけではない。あまりにも本当のことが知らされていないのだ。
 6月30日。民主労総の組合員らがソウル光化門広場で全面スト大会を開いた。非正規労働者、初の全面スト。そのスローガンは次のようなものだった。「子どもたちに非正規職のない世界を譲り渡そう」

  


Posted by biwap at 23:30KOREAへの関心