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2016年05月28日

ヒロシマというとき

ヒロシマというとき

 機能不全に陥った日本のジャーナリズム。そんな中、キラッと「意地」を見せた記事。
<原爆の被害と戦争の加害の両面を見すえた原爆詩人の作品が再評価されている。11年前に亡くなった広島の栗原貞子。英語やフランス語などに続き、韓国で今年、詩集が翻訳出版された。オバマ米大統領の広島訪問とも重なり、国境を超えた和解の祈りが注目されている。
 栗原の代表作の一つにあげられる詩集「ヒロシマというとき」は、1976年の発表から40年が過ぎた今年1月、韓国で翻訳版が出版された。表題作は、原爆に対して、ハワイの真珠湾攻撃や中国での南京事件など日本軍による加害の歴史を挙げ、和解のためには、「わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」と、自らに問いかける。
 訳者で、日本文学を研究する李英和(イヨンファ)・城西国際大助教は、2013年の栗原の生誕100年を祝って発行された記念誌で、この作品に出会った。韓国にとって、日本は植民地支配の加害者。だが、栗原の作品に触れて「被爆しながらも加害の歴史に目を向けた日本人詩人の存在を、韓国に伝えたくなった」という。
 栗原を作詩に向かわせたのは、韓国側の原爆観だった。ある国際会合で韓国代表が「(戦争を終結させた)原爆が私たちを解放してくれた」と語ったと知り、「衝撃を感じないではいられなかった」と82年のエッセー「核時代に生きる」に記している。
 原爆文学に詳しい水島裕雅・広島大名誉教授は「70年代において、いち早く加害の問題に取り組んでいた」と先駆性を指摘する。「原爆に対する強い怒りと同時に、日本や自分も突き放して見る詩人の感性が、加害に目を向かわせたのでしょう」とみる。
 栗原と原民喜、峠三吉ら被爆作家の資料をユネスコの世界記憶遺産に登録する運動も進んでおり、栗原の創作ノートは今月から広島市の原爆資料館で保管されることになった。
 広島市立大広島平和研究所の元所長、浅井基文さん(74)は、「負の歴史に向き合う姿勢と作品は、40年が過ぎたいまも意義がある」と指摘する。
 浅井さんはオバマ氏の広島訪問について、栗原が思い描いた「和解」ではないと感じている。「現実には、中国や北朝鮮を意識した日米同盟強化の儀式。原爆投下の非人道性を反省し、核廃絶に向かわないのなら、訪問を願った被爆者は片思いに終わる。栗原さんだったら怒りで憤死するでしょう」(朝日新聞5月25日夕刊)>

〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか
〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を
壕のなかにとじこめ
ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに
捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に
灼かれるパリアだ
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない

<栗原貞子> 1913年、広島市生まれ。45年に被爆。人々が避難する地下室で、新たな命が誕生するさまを描いた原爆詩「生ましめんかな」を翌年に公表。のちに教科書に収録され、女優の吉永小百合さんが朗読を続ける。2005年に死去。



Posted by biwap at 06:03 │辛口政治批評