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2017年01月03日

「白髭」の正体


 「しらひげの神のみまへにわくいづみ これをむすべばひとの清まる」。上の句は与謝野鉄幹、下の句は与謝野晶子の作。1912年に参拝した二人が、神社に湧き出る水の清らかさを詠んだもの。
 白鬚神社(シラヒゲジンジャ)。湖西を琵琶湖沿いに北上すると、湖と神社の隘路を通ることになる。琵琶湖の中に建てられた大鳥居。古くは陸上にあったそうだが、琵琶湖の水位上昇に伴い水中に立つようになったと伝えられる。日の出の方角なのか、それとも遠く「白山」を指向しているのか。
 全国にある白鬚神社の総本社。「比良山の神」を祀る原始信仰の場だったようだが、祭神は「猿田彦(サルタヒコ)」の1柱とされる。近江は朝鮮半島から多くの渡来人が定住した地。白髭神社も、渡来神を祀った神社なのかもしれない。
 いわゆる「天孫降臨」。アマテラスの孫ニニギが天降りしようとした時、分かれ道に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。アメノウズメに、その神の元へ行って誰であるか尋ねさせると、国津神の猿田彦で、ニニギらの先導をしようと迎えに来たという。ニニギらが無事たどり着くと、猿田彦はアメノウズメと共に故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ帰った。ある日、猿田彦が伊勢の阿邪訶(アザカ)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ヒラフガイ)に手を挟まれ、溺れ死んだという。猿田彦は伊勢国五十鈴川のほとりに鎮座し、中世には庚申信仰や道祖神と結びついた。
 不思議なことに猿田彦には椿がたえずついてまわる。平田篤胤は、猿田彦の「猿」は「サ」の当て字で出雲の「佐太」から出た名前であるとした。佐太大神はスサノオの孫で、出雲系の重要な神。宍道湖の北岸にある佐太神社。近くの許曽志は、古くから猿田彦の生地と伝えられる。「こそ」は「社」を意味する古代朝鮮語。猿田彦は新羅系渡来人金工集団が祀った神であるという説がある。彼らは鉱脈を探し求め、山に入る際、魔除けのための椿の杖を持っていた。鉄と渡来、そして出雲から伊勢への穴師の巡行。「白髭」の向こうには何かがある。

  


Posted by biwap at 06:42近江大好き神社解体新書

2016年11月22日

紅葉の徳源院


 紅葉シーズン。どこへ行っても人の山だが、ここはしっとりと落ち着いた気分になれる。米原市にある清瀧寺徳源院。中世、北近江を支配した京極家の菩提寺。
 春は京極道誉が愛したと伝えられるしだれ桜(道誉桜)、秋は庭園のモミジが美しく紅葉。あまり有名になってほしくない隠れスポットだが、中国人がここにも登場。微笑ましい。
 近江は本当に魅力的な所だ。歴史の深みを静かに漂わせている。人間もそうありたいものだ。

  http://biwap.raindrop.jp/details1052.html
  


Posted by biwap at 06:11近江大好き

2016年11月01日

びわ湖ホール「魔笛」




 ヨーロッパ各地を巡業していた旅一座の座長シカネーダー。モーツァルトとはザルツブルク時代の知り合い。シカネーダーは、仕事がなく生活に困っていたモーツァルトに大作を依頼。モーツァルトは1791年9月28日に完成させた。妻コンスタンツェはバーデンへ湯治。
 1791年9月30日、初演は大好評を博した。モーツァルトは妻に「サリエリが公演を聴きに来て大いに賞賛した」と手紙を書いている。しかし、この頃モーツァルトは体調を崩す。『レクイエム』に取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏した。12月、死の床にあったモーツァルトは、時計を見ながら当日の上演の進行を気にしていた。12月5日、35歳の若さで死去。シカネーダー一座のために書き上げた作品『魔笛』。
 物語は王子によるお姫様の救出劇。「夜の女王」対「賢者ザラストロ」。元夫婦のようでもあるが、途中で善玉と悪玉が入れ替わりハチャメチャな展開。でも本当の主人公は、舞台回しのパパゲーノ。シカネーダー自身がこの役を演じている。モーツァルトもこの役に親しみやすく魅力的な音楽を与えている。
 シカネーダーの興行は一般市民を対象としていた。『魔笛』の各所には聴衆を楽しませる大掛かりな見せ場が盛り込まれている。それは今までのような権力者のための音楽ではない。パパゲーノこそ、名もなき庶民の「具現化」。パパゲーノとパパゲーナの「パパパのアリア」が暖かく感動的だ。



 何と言っても「びわ湖ホール」のロケーションは最高。プラハ国立歌劇場『魔笛』。舞台装置はシンプルだが、素晴らしい音楽だった。何度か見た『魔笛』だが、やはり本物の魅力に感動。身近にある「びわ湖ホール」。近江の文化発信地として、これからも素晴らしい公演を期待したい。

  


Posted by biwap at 08:40近江大好き

2016年10月25日

ビワイチ完走


 念願のビワイチに挑戦。


 琵琶湖一周、約200km。前回は南湖を一周。今回は、北湖を2泊3日で回る。


 草津を出発。三上山を右に見ながら北上。三上山は、そんなに高くないのにどこからでも見える山だ。


 湖岸道路に沿ってひたすら走っていく。道を迷うことはまずない。


 沖島が見えてきた。淡水湖の中に人が住む島は国内唯一。世界的にも珍しいそうだ。140世帯、人口約400人。


 長命寺港付近。近江八幡へ入った。


 彦根を目指し、旧道を走る。集落を通り抜けるのは楽しい。


 自転車はクロスバイク。オフロード用マウンテンバイクとスピード系ロードバイクの中間。スピードではなく、軽く走るのに適している。さすがにママチャリでは難しい。


 朝妻港付近。旧米原町は「まいはら」と読むが、2005年米原市発足時、駅名に合わせて「まいばら」とした。


 今日の宿泊地・長浜が見えてきた。風呂に入ってゆっくり足を延ばそう。


 朝、ホテルから見た長浜港。幸い天気予報は外れてくれた。


 長浜城を横に見ながら出発。湖北を反時計回りに回っていく。


 湖南・湖東・湖北・湖西。湖国は、それぞれに違った表情を見せてくれる。湖北の田園地帯はのびやかで美しい。


 竹生島が見える。琵琶湖最北端へと進んでいく。


 旧賤ヶ岳隧道を登りきり、長いトンネルを抜けると・・・


 奥びわ湖が眼下に広がる。


 雄大な景色を一気に下っていく。塩津街道を進み、岩熊トンネルに向かう急坂が一番の難所。


 海津への湖岸は再び平坦な道をたどる。ビワイチのコースで急な坂は、2か所以外ほとんどない。でも、時計回りのコースを取ると結構だらだらとした登坂が続き大変そうだ。常に湖側の「反時計回り」が絶対おすすめだ。


 高島へ向かう道で、絶滅危機にあるコウノトリと遭遇。中国南部へ越冬する渡りの途中に、少数が日本を通過することもあるそうだ。


 登坂はギアチェンジで解決したが、意外な難所が白髭神社付近。通過する所がこの自動車道しかない。しかも、途中で歩道がなくなる。車の渋滞が幸いし、自転車はスイスイと潜り抜けた。


 全国にある白鬚神社の総本社。沖島を背景として琵琶湖畔に鳥居を浮かべることから、「近江の厳島」とも称される。祭神は、猿田彦命(サルタヒコノミコト)。白髭の正体は、猿田彦だったのか。


 日が暮れてくる。2日目の宿、近江舞子へ急ごう。


 3日目。草津までは、あとわずか。お昼には到着しそうだ。JR湖西線を横に見ながら走る。


 湖西路を南へ下っていく。サイクリングウェアに身を包んだロードバイクの若いグループに何度も会った。スポーツとして楽しんでいるようで、とてもいいことだと思った。のんびりグループも含めて、もっともっといろんな年代の人たちが楽しめればいいのだが。


 びわ湖大橋を渡り、湖南へ帰っていく。少し感慨深げに北湖を見渡す。滋賀県は、まさに自転車にぴったりの場所だ。未来の為にも、先進的なサイクル立県を目指してほしいものだ。知恵(resource)は、最大の資源(resource)なのだ。


 湖岸道路を草津へ南下。出発した時の三上山が出迎えてくれた。
 ビワイチ完走。とても大きな達成感と充実感。自動車ではスルーしてしまう風景を抱きしめることもできた。何よりも自分の足で実感した「湖国」が、明日への「生きる糧」となっていくような気がする。大きなものに包まれた安らぎと喜びのようなものを感じながら。
  


Posted by biwap at 18:15近江大好き旅行記

2016年06月02日

草津名物『姥が餅』




「勢多へ廻ろか矢橋へ下ろか、ここが思案のうばがもち」 
 草津から南草津へ旧東海道を進んでいくと、途中で道標が見える。直進すれば瀬田の唐橋、右へ曲がると矢橋道に入る。道標の横に案内板がある。草津名物「うばがもち」屋の浮世絵が描かれている。
 矢橋道は東海道から分かれて琵琶湖畔へ伸び、湖を横断する渡し場に旅人を導いた。水路は陸路より早いが、比叡山からの強風で船旅は危険を伴い、「急がば回れ」の語源にもなった。
 この分岐点にあったのが「うばがもち」屋。江戸中期、旅人の楽しみは道中グルメ。江戸のガイドブックにも登場する名物「うばがもち」。「交通の要所」を見据えた店舗展開で賑わった。店はその後、汽船ができると港へ向かう道の角に、鉄道が通ると駅のそばに、今は国道1号沿いに本店。草津駅前店、駅構内にはコンコース売店もある。




 もちは化学肥料、農薬を使用しない農法で自然環境に配慮して栽培した「滋賀羽二重餅米」を使用。餡は選り抜きの北海道小豆を職人が時間をかけ、なめらかなこしあんに炊き上げたもの。小さい餅をあんで包み、てっぺんに山芋と白あんの練り切りが少量載る。さて、この形は?
 乳母が幼い子どもに授けた乳房を表しているという。


 近江源氏・六角義賢は、織田信長に攻められ敗走。落ち延びた子孫は滅びていった。義賢のひ孫に3歳の子がいた。その子を託された「福井との」という乳母は、自らの故郷である草津に連れ帰る。とのは餅を作って売り始めた。大名や身分の高い人のかごや馬にすがり、「この子は由緒ある子、育てるための商いです」と嘆き悲しみながら語った。とのの思いに心を動かされて餅を買う人が次第に多くなり、ついには街道筋に小さな店を開くまでに繁盛した。乳母の誠実さを感じ、誰いうことなく「姥が餅」と名付けられた。
 徳川家康が大坂の陣に赴いた時のこと。その乳母が餅を献じた。家康は「これが姥が餅か」と問いつつ、その誠実な生き方を称え、流竹葉金ならびに御親筆「養老亭」の三字額を授けた。凱旋後、また駕籠をここで止めたので、以来、公卿や諸大名が必ずここで餅を求めたという。


 口コミだけが頼りの時代。文化人たちは競うように「姥が餅」を取り上げ、たちまちその評判は全国に広まる。芭蕉が食べ、蕪村が俳句に詠む。近松は浄瑠璃にして常磐津「名物姥が餅」。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」シリーズ草津宿には、「うばがもちや」と看板を出した店で、笠を脱いで一休みする旅人が描かれている。葛飾北斎の浮世絵や東海道名所図会にも登場、伊勢参宮名所図会にも描かれ「草津名物」としてすっかり定着した。
 時は流れ、経営者も幾度か変わり、現在「うばがもち」を製造販売している南洋軒グループが営業権を得たのは1956年のこと。現社長は乳母「福井との」から数えて19代目だという。家が滅ぼされても、今も残る餅。
 人々の住来で賑わった東海道・中山道の分岐点「草津宿」。「名物の餅」が、行き交う旅人の心を癒したことだろう。

  


Posted by biwap at 11:59近江大好き

2016年05月04日

草津サンヤレ踊り


 無形民俗文化財「サンヤレ踊り」。草津市内の下笠・矢倉・志那・志那中・志那吉田・片岡・長束に伝承されている。5月3日、それぞれの神社の祭礼の時、御輿(ミコシ)に随行して踊られる。踊の構成は、太鼓打ち・スッコ・ササラ摺り・棒振り・鼓打ち・太鼓受け・音頭取り・鉦摺り・笛吹きなど。団扇を片手に踊り、「サンヤレ、サンヤレ」の囃子詞がかけられる。「幸あれ」が訛って「サンヤレ」といわれるなど諸説いろいろ。とにかく意味不明の詞章を歌いながら踊る。室町後期から近世初期にかけて全国的に流行した風流囃物(フリユウハヤシモノ)に類似。


 矢倉のサンヤレは、稲荷神社から立木神社へ行き、若宮八幡宮まで5時間かけ戻ってくる。老杉神社は、お旅所まで行き、また神社に戻る一日の行程。下笠は派手な衣装。志那・三大・惣社神社は、「風の神」をまつり、白い法被にうちわを持つ素朴な感じ。


 昔の人たちを悩ませたのが伝染病・旱魃・飢饉。花の咲く時期、疫病神がもたらすと考えられた。疫病神を追い払うには、鉦・太鼓・笛などではやし立て、御輿・笹・榊などの依り代(ヨリシロ)につけ、踊りの行列と共に集落の外に追い払うのが一番。これには、疫病神もビックリ。なかなか「したたか」なものだ。


 今回は、志那神社の「サンヤレ」を見学。古事記に「志那都比古、風の神なり」とある。「志那」とは「風」を意味する古代の言葉。かって志那の町は、至る所に掘割のあるクリーク地帯だった。堀江には小船が行き交い、石垣を組んだ家の玄関から小橋が架けられていた。そして彼方には三上山が・・・
 「志那の村々のかなたに、秀麗きわまりない三上山が、くっきり浮かんでいた。すると、かってこの志那の地には、花摘寺の巨大な堂塔と、あの三上山がならびたっていたことになる。はるばると淡海をわたってきた大陸の人々にとって、これほどよい目標はまたとなかったのではあるまいか。ここに都があったのだ。数十もの大寺がならんでいた幻の古京が…」(邦光史郎『幻の近江京』)
 「サンヤレ」。見知らぬ彼方からやってきたのか。はるか古(イニシエ)、風に乗り。


  


2016年04月21日

高天原は近江に


 「天ノ朝」とは、記紀神話の「高天原(タカマガハラ)」のこと。そしてそれが「邪馬台国」。
 菊池山哉(キクチサンサイ1890年~1966年)。東京府出身。被差別の地をくまなく歩き、前人未到の学問をうちたてた民間学者。
 菊池は、高天原は大和から遠くない場所だと考えた。神話の中で、神々は比較的自由に高天原と地上の間を往来している。高天原は「高海(タカマ)」。淡海(オウミ)。つまり、「天ノ朝」は近江にあった。そこが邪馬台国。菊池は、記紀神話に登場する人物を、「天ノ……」で始まるかどうかを基準として、「天ノ朝=邪馬台国」の人物か、大和朝の人物かを区分けした。記紀に登場する「天ノヒボコ」も天ノ朝の人物。
 第9代開化天皇の子・日子坐(ヒコイマス)王。・アメノヒボコの後裔とも言われ、近江の「ハツクニシラス」と称される人物。神武以来の天皇家の中、「命」がつかず「王」と呼ばれる最初の人物である。菊池は、日子坐王を開化天皇の子ではなく「天ノ朝」の人物だとする。日子坐王の孫・倭姫。卑弥呼と擬せられる人物の一人。卑弥呼は「天照大神」のモデルとなる。
 近江高天原説を主張する人たちは地名のアナロジーにこだわる。正直、牽強付会(ケンキョウフカイ)の感は否めない。しかし、「正史」に対するゲリラ的抵抗は面白い。地方には、数多の「高天原」が存在する。「日本」とは、7世紀後半に作られた歴史的作為物に他ならない。

  


Posted by biwap at 06:06近江大好き

2016年03月23日

消えた景観


 「くさつ景観百選」の一つ「草津川隧道(トンネル)」。天井川の堤防下に箱形暗渠(アンキョ)を設置。そこを国道1号線が走る。戦前に開通して約80年、地域の風景にすっかりとけ込んでいった。現在は下の写真のように堤防ごと撤去中。より安全で見通しの良い国道へ生まれ変わろうとしているのだが・・・



 天井川として教科書にも登場する草津川。上の写真のように市中心部は鉄道と川で4区分される。天井川であることから、堤防が決壊した時は川の水があふれだし、大きな被害を与えた。新草津川が2002年に完成。旧草津川は行政上「廃川」となった。
 それにしても、とてつもない大掛かりな「公共」事業だ。洪水対策に絞ればもっと効率的な方法があったのかもしれない。旧河川を平地化し、中心市街地を開発することに狙いがあったようにも思える。しかし、大型公共事業の時代は終わった。現在は河川敷公園の工事が進行中。それはそれで結構なことなのだが、いまだに渋滞緩和と称し、道路建設などを狙っている人たちもいる。


 自分たちの住むところに愛着を持ち、誇りを持つ。「公共」という意識はそんなところから芽生える。わがもの顔に巨大看板が立ち並び、私利私欲の強欲経済が破壊する景観。それに加担する「お上」。私たちの「公共」とは似て非なるものだ。川はやっぱり川であるべき。故郷の景観を、みだりに乱してはいけない。草津川の桜。今年はどんなふうに咲き誇るのだろうか。  


Posted by biwap at 06:21近江大好き

2016年03月10日

いのちとびわ湖を守る


 大津地裁、山本義彦裁判長。2014年11月、関西電力大飯・高浜両原発の再稼働禁止仮処分を求めた住民の請求を却下している。その時の言葉、「原子力規制委員会がいたずらに早急に、再稼働を容認するとは考えがたい」。
 関西電力。原発が動かせないなら、電気料金値下げは先送りだ。この人たちの「頭の中」、いや「心の中」は一体どうなっているのだろう。
 原子力規制委員会、「新基準は常に新しい知見を取り入れ、安全を追求していくことになっている」。菅官房長官、「世界最高水準の新基準に適合すると判断されたもので、再稼働を進める方針に変わりはない」。誰も自分の言葉で「安全」とは言っていない。
 高浜町商工会、「再稼働で町経済への期待感が高まり将来設計をしようかという矢先で、失望感が大きい」。原発に依存しない地域振興の在り方こそが将来設計。
 嘉田由紀子・前滋賀県知事、「近畿の命の水源・琵琶湖を抱え、暮らし、環境を守りたいという県民の思いが届いた」。隣県である滋賀の住民が訴訟を起こしたことの意味を、東京のメディアは理解していない。
 明日は「3・11」。「原発事故」を「自然災害」という言葉で上書きしてはいけない。忘れてはいけないこと、責任を問わなければいけないことは何なのか。曖昧な言葉で思考停止する風土からは、もう「卒業」しなければならない。

  


Posted by biwap at 09:49近江大好き辛口政治批評

2016年02月13日

天海となった光秀


 東京上野にある東叡山寛永寺。東叡山は東の比叡山。不忍池は琵琶湖、中之島は竹生島。不忍池弁天堂は、竹生島の宝厳寺から弁財天を勧請し建立したもの。皇居の鬼門に建てられた比叡山延暦寺と同じく、江戸城の鬼門に建てられた東叡山寛永寺。幕府よりこの寺を寄進されたのが、天海僧正。徳川家康に寄り添う謎の人物。
 日光には「明智平」と呼ばれる場所がある。名付けたのは天海。日光東照宮にある多くの建物には明智家の家紋である桔梗の紋が描かれている。三代将軍家光の乳母・春日局。明智家筆頭家老・斎藤利三の娘である。春日局の子・稲葉正勝は老中となり、養子の堀田家も代々幕府の中枢を占めた。さらに家康は土岐明智家を復活させている。家康、天海、そして明智。
 山崎の合戦に敗れた明智光秀は坂本城を目指して落ち延びる途中、京都山科の小栗栖(オグルス)で百姓に竹槍で刺されて死んだという。それが光秀でなかったとしたら。
 天海という僧侶が歴史の表舞台に登場するのは秀吉が亡くなった後のこと。家康が天海を駿府に招き、初めて公式に対面したのは1608年のこと。実際にはもっと早くから家康は天海を知っていたはず。家康は信長焼き討ち後荒廃していた比叡山の復興を、天海にあたらせている。大阪冬の陣の2ヶ月後、比叡山の石灯籠が「光秀」の名で寄進。その3カ月後、大阪夏の陣で豊臣家は滅亡。
 天海は明智光秀の御膝元であった坂本の復興に力を注ぎ、美しい坂本の町並みを作った。滋賀院門跡は、天海が後陽成天皇から下賜されこの地に建立した。同じく坂本の日吉東照宮も天海が造営した建物である。
 天海の生年は、はっきりしない。没年は1643年、100歳以上の長命であったという。もし事実なら、天海が明智光秀であった可能性も出てくる。これが「天海=光秀説」。妄想とわかっていながら、この話は妙に面白い。歴史の断面を鋭く抉(エグ)っているのかもしれない。
  


Posted by biwap at 07:16近江大好き歴史の部屋