2016年06月02日
草津名物『姥が餅』



「勢多へ廻ろか矢橋へ下ろか、ここが思案のうばがもち」
草津から南草津へ旧東海道を進んでいくと、途中で道標が見える。直進すれば瀬田の唐橋、右へ曲がると矢橋道に入る。道標の横に案内板がある。草津名物「うばがもち」屋の浮世絵が描かれている。
矢橋道は東海道から分かれて琵琶湖畔へ伸び、湖を横断する渡し場に旅人を導いた。水路は陸路より早いが、比叡山からの強風で船旅は危険を伴い、「急がば回れ」の語源にもなった。
この分岐点にあったのが「うばがもち」屋。江戸中期、旅人の楽しみは道中グルメ。江戸のガイドブックにも登場する名物「うばがもち」。「交通の要所」を見据えた店舗展開で賑わった。店はその後、汽船ができると港へ向かう道の角に、鉄道が通ると駅のそばに、今は国道1号沿いに本店。草津駅前店、駅構内にはコンコース売店もある。



もちは化学肥料、農薬を使用しない農法で自然環境に配慮して栽培した「滋賀羽二重餅米」を使用。餡は選り抜きの北海道小豆を職人が時間をかけ、なめらかなこしあんに炊き上げたもの。小さい餅をあんで包み、てっぺんに山芋と白あんの練り切りが少量載る。さて、この形は?
乳母が幼い子どもに授けた乳房を表しているという。

近江源氏・六角義賢は、織田信長に攻められ敗走。落ち延びた子孫は滅びていった。義賢のひ孫に3歳の子がいた。その子を託された「福井との」という乳母は、自らの故郷である草津に連れ帰る。とのは餅を作って売り始めた。大名や身分の高い人のかごや馬にすがり、「この子は由緒ある子、育てるための商いです」と嘆き悲しみながら語った。とのの思いに心を動かされて餅を買う人が次第に多くなり、ついには街道筋に小さな店を開くまでに繁盛した。乳母の誠実さを感じ、誰いうことなく「姥が餅」と名付けられた。
徳川家康が大坂の陣に赴いた時のこと。その乳母が餅を献じた。家康は「これが姥が餅か」と問いつつ、その誠実な生き方を称え、流竹葉金ならびに御親筆「養老亭」の三字額を授けた。凱旋後、また駕籠をここで止めたので、以来、公卿や諸大名が必ずここで餅を求めたという。

口コミだけが頼りの時代。文化人たちは競うように「姥が餅」を取り上げ、たちまちその評判は全国に広まる。芭蕉が食べ、蕪村が俳句に詠む。近松は浄瑠璃にして常磐津「名物姥が餅」。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」シリーズ草津宿には、「うばがもちや」と看板を出した店で、笠を脱いで一休みする旅人が描かれている。葛飾北斎の浮世絵や東海道名所図会にも登場、伊勢参宮名所図会にも描かれ「草津名物」としてすっかり定着した。
時は流れ、経営者も幾度か変わり、現在「うばがもち」を製造販売している南洋軒グループが営業権を得たのは1956年のこと。現社長は乳母「福井との」から数えて19代目だという。家が滅ぼされても、今も残る餅。
人々の住来で賑わった東海道・中山道の分岐点「草津宿」。「名物の餅」が、行き交う旅人の心を癒したことだろう。

Posted by biwap at 11:59
│近江大好き