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2016年02月02日

草津に生まれし憲法学者


 草津市に転居してきた時、初めてここがその人の出身地であることを知った。学生時代、その人の講演を聴きに行った。いや正確には席に座って講演の始まるのを待っていた。突如、大講義室の後ろの扉が壊され、ゲバ棒にヘルメット姿の集団が乱入してきた。訳も分からないまま逃げ出した。些末な理論の違いがセクトを作り、近親憎悪を繰り返していた。以来、独善的な正義を振り回す言説は、左右を問わず苦手である。
 およそそれとは対極の誠実な憲法学者・田畑忍。1902年、滋賀県草津市に生まれる。同志社大学卒業後、1939年に教授、1946年に学長となる。1962年、憲法研究所を設立。機関誌「永世中立」を創刊。1972年、定年退任。1994年、死去。
 クリスチャンの立場から一貫して戦争に反対。「非武装永世中立」を唱え続け、戦後の護憲運動を担った。死後、遺族が著書や蔵書約5000冊を草津市に寄贈。市立図書館の一角に「田畑忍文庫」のコーナーが設けられる。
 田畑の講演「平和主義と憲法九条」に感銘を受け、憲法学を志した人物がいる。田畑の門下生・土井たか子。1995年6月、田畑忍文庫開設式に当時衆議院議長だった土井たか子はかけつけ、記念講演を行っている。「これを機に講座を開いては」との土井の提案で、市立図書館はその後「憲法講座」を開設。
 田畑忍の講演こそ聴き逃したが、今でも憲法9条こそ最も現実的な安全保障だと考えている。時代錯誤の軍拡競争の「愚」をいつまで繰り返すのか。逆流の中、だからこそ風化させてはいけないものがあるはず。草津に生まれし憲法学者の播いた種。それは深く静かに育っている。
  


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2016年01月13日

北進する琵琶湖


 日本最大の湖・琵琶湖。日本最古の湖、いや世界有数の古代湖でもある。その誕生は、今から400万年前。現在の三重県伊賀市付近。「大山田湖」と呼ばれている。断層運動により、窪地ができ、そこに水が溜まってできた断層湖である。この頃の日本列島の気候は亜熱帯。ゾウやワニの化石が見つかっている。
 流送土砂でいったん埋まっていた大山田湖は、300万年前に再び姿を現わす。これが「阿山湖」。これも次第に埋まり、また北側へ移動していく。「甲賀湖」。深い湖だったが、土地の隆起でなくなり、湖はさらに北上する。
 260万年前、蒲生町付近に沼沢地ができる。このあたりにはメタセコイアの林が広がっていた。「蒲生湖沼群」と呼ばれる多数の小さな湖沼。しかし、長期的な安定性はなかった。
 100万年前、「堅田湖」と呼ばれる湖が形成。この付近が40万年前に隆起。断層運動により陥没した凹地に現在の「琵琶湖」が形成された。地殻変動で、盆地を囲む山地は一段と隆起している。
 現在の琵琶湖もまた変遷していく。その何十万年もの間、人類は高レベル放射性廃棄物を隔離し続けねばならない。
  


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2016年01月07日

近江牛物語・その3


 「近江牛」をブランドとして確立した歴史はまだ浅い。時は戦後へと飛ぶ。1960年代に入ると、耕運機やトラックの誕生・普及により、日本農業に技術革新が起こる。1000年以上に渡り日本農業を支えてきた役牛は、その役割を終えた。滋賀県でも、農家から役牛が姿を消していった。一方で、多くの家畜商が肉用牛としての肥育に取り組み始めた。1970年代に入ると、近江八幡では大中湖が埋め立てられ干拓地が整備。広大な農地の中に牧場もできた。


 恵まれた環境の中で、ホルスタイン牛の肉向け肥育が始まる。1991年、牛肉輸入自由化。安いアメリカ産の牛肉が入ってきた。滋賀の畜産農家は、差別化を図るため、高級化路線に舵を切る。ホルスタイン牛から交雑種、さらに黒毛和牛の肥育へと移っていった。“霜降り肉”への切り替えである。「近江牛=高級和牛」というブランディングが定着する。TPP参加。「近江牛」は、否応なく国際競争の波にさらされる。ブランド和牛「近江牛」は、いかにして未来を切り拓いていけるのか。
 
 話を戻す。東京浅草に竹中久治・森嶋留蔵兄弟が開業した牛鍋屋「米久」。文人墨客にも愛され、「往来、絶えざる浅草通り。御蔵前の定舗の名も高旗の牛肉鍋」と歌われ、高村光太郎も「米久の晩餐」という詩を作ったほどだ。近江の牛鍋は一世を風靡し、数年で26店舗を構えるまでに成長した。


 生きたままの牛の運搬は大仕事であり、牛を追う旅の途中で盗賊に遭うこともあった。それを救ってくれたのが清水次郎長。以来親交が続いたという逸話もある。竹中久治は東京にそのまま定着。弟・森嶋留蔵は、関西に残って牛を供給する役を果たした。
 一世を風靡した「米久」も関東大震災・統制経済の影響を受けて存続を断たれた。近江牛の肥育技術向上と振興に努めた森嶋家が、近江商人の理念「三方良し」の理念を反映させ、1978年にレストランを創業。
 髪の「毛」ほど細くて、僅かな「利」益で、勤勉・倹約・正直・堅実の「志」を忘れず、すべての人に「満」足していただける店。近江牛レストラン「毛利志満」の開業である。

  


2016年01月05日

近江牛物語・その2


 文明開化のシンボル「牛鍋」をつつきながら、「肉を食わないものは、無教養だ」と男があおり立てている。明治初期の戯作者・仮名垣魯文の書「牛店雑談安愚楽鍋」の挿絵である。「安愚楽鍋」は、牛鍋屋を舞台に牛肉のおいしさや効用を庶民に伝えた。あぐらをかきながら、安い鍋を囲み話に花を咲かせている。時を幕末に戻そう。



 幕末、外国人写真家が来日して間もない頃に撮った宿場町厚木の風景。赤丸の店の看板を見てみよう。左に「薬種」の看板。右の看板は「生製牛肉漬」と書かれ、その左右に「彦根・江州」の文字が見える。彦根産の牛肉が薬用として売られている。牛肉の「薬喰い」は地方の庶民にまで広がっていたのだ。しかし、この彦根牛肉がそのまま近江牛に発展していったわけではない。舞台は近江国蒲生郡に移る。
 蒲生郡苗村。家畜商・西居庄蔵。幕末の「開国」で急成長した横浜。外国人居留地を中心に大きな牛肉需要が生まれた。これを知った西居庄蔵は、陸路17日から18日かけて、近江から横浜まで牛をひき運び、外国人と直接取引を開始した。やがて東海道五十三次には、「牛宿」が設けられるようになる。



 同じ苗村出身で、米穀仲買と運送業を営んでいた竹中久治。明治に入り家畜商に転身。1879年、東京進出。1885年、浅草茅町に弟・森嶋留蔵と共に牛肉問屋・牛鍋屋「米久」を開業。江州産の肉牛を売りさばいた。東京府で屠畜される牛の三分の一は江州産。最大のシェアを持っていた。しかし、それは「神戸牛」と呼ばれていた。なぜか。
 1882年、西居庄蔵は取引量の増加に伴い、より効率的な搬送方法を考えた。神戸港から芝浦港(東京)へ海運によって「江州牛」の出荷を開始。しかし、京浜では摂津や播州の肉牛と一緒に出荷地神戸の名称「神戸牛」の名となる。
 1889年、東海道線が開通。滋賀と東京が鉄路で結ばれると、東京への牛肉の大量出荷が幕を開けた。1890年、近江八幡駅より東京への鉄道輸送が始まる。東京の消費者は、これまでの「江州牛」に替わり「近江牛」の呼称を使うようになっていく。
  


2016年01月03日

近江牛物語・その1


 
 赤穂浪士、大石内蔵助から堀部弥兵衛に宛てた手紙。
「しかるべき人から手に入れたものですが、あなたには差し上げようと思います。それは彦根産の黄牛(アメウシ)の味噌漬けです。高齢者の健康にはとても役に立つ食品ですから、あなたには大変いいと思います。私の息子などに食べさせたら精がつきすぎて、かえって体の毒になりましょうな。わっはっは・・・」

 家畜としての牛は、古墳時代後期、朝鮮半島より渡来したものと思われる。新羅の王子アメノヒボコの渡来伝説は、それを象徴する。肉食に慣れはじめた頃、天武天皇は肉食禁断の詔勅を出している。狩猟漁労の獲物を除外しているのを見ると、役畜として重要な牛馬の保護に重点があったのかもしれない。
 中世に入ると、新興武士階級を中心に狩猟獲物の獣肉食がさらに広まった。一方、貴族階級を中心に肉食に対する禁忌意識が形成される。そのころ成立した神道の穢れ意識と仏教の不殺生戒が結びついたものである。貴族から庶民へ、京畿から諸国へと広がっていった。
 下剋上の戦国乱世。死穢、血穢など気にしていられない。しかも、皮革は重要な軍需産業。牛馬屠畜が日常化する。そして、「南蛮人」の渡来。熱心な切支丹大名・高山右近は、日頃から牛肉を賞味し、蒲生氏郷や細川忠興らに牛肉を振る舞ったという。


 秀吉・家康の肉食禁制。それは、キリシタン弾圧と仏教による宗教統制に関わるものだ。体制化された仏教寺院、身分制度の固定。中世以来の肉食禁忌意識がこれに加わる。これをさらに厳しく制度化したのが5代将軍・綱吉。殺生禁断令、触穢令。
 きびしい禁制の中、それでも牛肉を食べていた。大石内蔵助の手紙はそれを物語っている。彦根藩。3代藩主・井伊直澄の家臣に花木伝右衛門という武士がいた。伝右衛門は江戸在勤中に読んだ「本草網目(ホンゾウコウモク)」に従い、黄牛(あめうし=立派な牛の意味)の良肉を使い「反本丸(ヘンポンガン)」と言う薬用牛肉を製造した。
 養生薬「反本丸(ヘンポンガン)」は、彦根藩主井伊家より江戸の将軍家や諸侯に献上。牛皮を幕府に献上していた彦根藩は、公式に牛の屠殺が認められていた。彦根藩内最大の宿場町・高宮には屠場があった。役牛として使えなくなった老牛を農家から集め、幕府公認で屠殺していた。そして、肉も。
 彦根藩士・花木伝右衛門の読んだ「本草網目」には、「黄牛の肉は佳良にして甘味無毒、中を安んじ気を増し、脾胃を養い腰脚を補益す」と書かれていた。近江国中山道鳥居本宿には、「湖水清製 反本丸」と書かれた版木が残されいる。公然と売られていたのだ。これぞ「近江牛」のルーツなるかな。

  


2015年12月09日

草津で見つけた「石の長者」




 草津市北山田を歩いていると、「木内石亭」の文字があちこちに貼られていた。


 木内 石亭(キウチ セキテイ)。江戸時代の奇石・珍石収集家、本草学者、鉱物学者。近江国志賀郡下坂本村の捨井家に生まれる。幼くして母の生家である木内家の養子となり、栗太郡山田村(現・草津市)に移る。木内家は膳所藩郷代官を務める家柄だった。しかし20歳の時、罪に連座して禁固3カ年に処される。その3年間、歳月が過ぎるのを忘れ石に没頭。近江南部は名石や奇石の産出で知られていた。
 その後も、諸国を精力的に旅し、2000種を超える石を収集。その中には、石鏃などの石器も含まれており、考古学の先駆者とも評される。シーボルトの著書「日本」には、石器や曲玉についての石亭の研究成果が利用されている。



 大坂に赴いた石亭は、津島桂庵から本草学を学んだ。津島塾では木村蒹葭堂と同門。その後、江戸に移り、田村藍水に入門。門下の平賀源内らと交流した。自らの研究の集大成となる著作が「雲根志」。「雲根」とは、雲が岩石の間から出るという故事にちなんだもの。


 石亭74歳の時。全国的に知られていた「東海道名所図会」に、石山寺・琵琶湖と並び「石亭」の項が掲載されている。当時それだけ「石の長者」が脚光を浴びていたのだろう。石亭85歳で没。守山市今宿の本像寺に墓がある。墓碑には次のように彫られている。「湖上の遺老、石を以って名を成し、水と同じく潔く、石と同じく貞なり」



  


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2015年11月07日

近江で生まれた三井


 藤原道長の後裔・藤原右馬之助信生。近江に地方官として赴任・土着し、武士となる。琵琶湖の領地を視察中、三つの井戸を見つけ、そこに財宝があったため、これを祝して三井姓に改めた。信生から12代目・三井出羽守乗定は男子に恵まれなかった。主家・六角佐々木氏から養子を迎える。その養子は三井備中守高久と名乗り、家紋を佐々木氏と同じ「四つ目結」とした。高久以降、三井一族の当主は名前に「高」の字を付けるようになる。


 高久は琵琶湖の東・鯰江に居城を構えた。高久から5代目・三井越後守高安の時代、織田信長により六角氏は滅ぼされる。主家を失った三井一族は近江から伊勢の地に逃れ、津・松阪などを流浪。最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とした。その後、高安の子・三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始める。高俊の父・三井越後守高安の官位から「越後殿の酒屋」と呼ばれる。


 武士の子である高俊は商いに疎く、家業は妻・殊法が取り仕切った。伊勢の大商家の娘であった殊法は商才に富んだ女性で、信仰心が厚く、倹約家でもあった。高俊と妻・殊法との間には4男4女があり、8番目に生まれた末子が三井高利である。高利は殊法から渡された10両分の松阪木綿を手に、江戸へ旅立つ。江戸にいた長兄・俊次の下で修行を重ね、その類まれな商才を発揮していく。


 しかし、俊次から才腕を忌避された高利は、母の面倒を見るよう言い含められ、松阪へ帰国する。郷里で高利は妻・かねを迎え、やがて10男5女の子宝に恵まれる。高利は、松阪で家業を拡張し、商業に加えて金融業を営み、資金を蓄積していった。高利は、自分の子どもたちが15歳になると、江戸の商人の下に送って商売を見習わせた。また、知り合いの中で眼鏡にかなった若者たちも、手代見習いとして江戸に送り込み、基礎固めを着々と行った。


 長兄・俊次の病死を機に、高利は江戸進出を果たす。高利は息子達に指示し、江戸随一の呉服街である江戸本町1丁目に間口9尺の店を借り受けさせ、「三井越後屋呉服店」(越後屋)を開業。「越後屋」の屋号は松阪の店から受け継いだもの。江戸には老舗大店が軒を連ねていた。高利は天才的な創意と新機軸の商法でこれに挑戦していった。


 その革命的な商法とは。当時、一流の呉服店では、前もって得意先の注文を聞き、後から品物を持参する見世物商いと、直接商品を得意先に持参して売る屋敷売りが一般的であった。高利はこれを店頭販売に切り替えた。それも奥へ入って呉服の反物を少しずつ持ってくるのではなく、山のように積み上げられた呉服の中から客が自分の好みに合わせて好きなものを選べるようにした。代金は「現金掛け値なし」。まとめてツケで払う掛売りは、貸倒れの危険や金利もかさみ、商品の値が高くなり資金の回転も悪かった。現金払いにする代わり、その分安くする。安くしてあるので値切ってもまけない。買う方も安心して、安い値段で買える。


 さらに呉服業者間では禁じられていた「切り売り」を断行した。わずかな布でも客の需要に応じて切り売りした。店員たちは、羽織なら羽織専門と受け持ちを定め、専門的な知識で相談にのった。一生懸命働けば自分の店が持てるので、きびきび良く働いた。数十人の細工人を用意しておいて注文があればその場ですぐに仕立てた。この「仕立て売り」も好評で客が集まる、よく売れるので最新の品物が並べられる、それがまた客を呼び、よく売れるという好循環を起こした。越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛した。


 元々、武家の出である三井家は、近江源氏・六角佐々木氏と同じ佐々木一族の「四ツ目結」を家紋としていた。高利も、越後屋の開店時には「四ツ目結」を引き継いだが、新たに暖簾印として定めたのが「丸に井桁三」。着想は高利の母・殊法の夢想によるものと伝えられている。丸は天、井桁は地、三は人を表し、「天地人」の三才を意味している。このマークは三菱のスリーダイヤ、住友の井桁と並び三井グループを代表する商標として、今も一部の三井系各社の社章に受け継がれている。

  


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2015年10月30日

近江の民衆文学・愛護若

<牛頭天王と蘇民将来・その7>



 説経節。中世から散所の民・声聞師(ショウモジ)の唱導文学として語り継がれる。近世には傀儡(クグツ) 、操り人形と提携し、被差別民の担う大衆芸能の一つとなる。それ故に、虐げられた民衆の解放への願いが込められている。折口信夫はこの説教節の中にわが国の文学の原型となる「貴種流離譚(キシュリュウリタン)」を見出した。そんな説教節の一つが京・近江を舞台にした「愛護若(アイゴノワカ)」 。

<愛護若>
 嵯峨天皇の御代、左大臣清平という人がいた。清平夫妻は子供に恵まれず、奈良の長谷観音に詣って祈願する。観音は、一子は授けるが、三つになった年、父母のどちらかが死ななければならぬと言う。北の方は玉の様な愛護若を生む。誓約の三年は過ぎ、愛護若はすでに十三歳。父母は神仏にも偽りがあると慢心を持った。これが観音に聞こえ、母は命を失う。
 清平は、雲井ノ前を後添いとした。愛護は父の再婚を聞き、持仏堂に籠り母の霊を慰めていた。その姿をすき間見た継母・雲井ノ前は、自分の子とも知らず恋に陥る。一日に七度迄も懸想文を送る。気がついた雲井ノ前。清平に告げられることを恐れ、逆に愛護を陥れる。重宝の鞍・刀を盗み出し、愛護に罪をなすりつけた。怒った清平は、愛護若を桜の木に吊り上げる。愛護は苦しさのあまり、血を吐いて悶える。
 死んで冥途に行った母がそれを知った。鼬(イタチ)に姿を変えてこの世に現れて縄を食いきり、比叡山にいる神の使い・「手白の猿」とともに愛護若を助けた。鼬(イタチ)は母が仮りに姿を現したのだと告げ、比叡山西塔北谷にいる叔父・帥ノ阿闍梨の処へ逃げて行くようにと諭し、姿を消す。
 暗く雨降る夜、愛護は家を抜け出る。四条河原にかかると火の漏れる茅屋がある。細工(賤民)の住処(スミカ)である。愛護の話を聞くと、細工は敬い畏(オソ)れみ、荒菰を敷き、米を賀茂の流れで七度清め献上した。夜が明けて、細工に送られ叡山へ志す。中途まで来ると、細工禁制の禁札。愛護は引きとめるが、「仰せ尤にて候へども、賤しき者にて候へば、只御暇」と言い、引き返した。
 愛護一人で、帥ノ阿闍梨を訪ねた。叔父は、稚児が一人立っていることを伝え聞くと、天狗の所業と思い込んだ。そんな甥はいないと言い放ち、大勢に打擲せしめた。愛護は山を下りようと、三日、山路に迷う。三日目の暮れ方、志賀の峠に達した。そこで疲れ休んでいると、粟津の荘・田畑之介兄弟に出会った。二人は愛護の話を聞くと同情し、柏の葉に「粟」の飯を分け与えた。
 田畑之介と別れた愛護は、穴生(アノウ)の里に出た。垣根になっている桃の実を一つ取ろうとし、その家の老婆に追われる。麻の畑に隠れるが、老婆はそこまで追いかけてきて、愛護を杖で打った。毎日、毎夜、このような苦しさと悲しみが続いた。絶望した愛護若は、ついに「霧降(キリュウ)の滝」へ身を投げ、十五歳の人生を終えた。
 山法師が滝のほとりにかかっている小袖を見つけた。小袖の紋で、愛宕若なる事がわかった。二条へ使いが行く。父・叔父などが集まって調べが始まった。雲井ノ前は簀巻にして川に沈められた。かの滝に来て見ると、浮んで居た骸が沈んで見えない。祈りをあげると、大蛇が愛護の死骸を背に乗せて現れた。清平が池に入ると、阿闍梨も、弟子共も、皆続いて身を投げる。穴生の老婆も後悔して、身を投げた。細工夫婦は、唐崎の松を愛護の形見とし、そこから湖水に入った。この時死んだ者、上下百八人とある。大僧正が聞き及び、愛護を山王権現として祀った。


  


2015年09月07日

穴村名物串だんご



 琵琶湖上で初めての蒸気船「一番丸」が就航したのは明治の初め(1869年)。その後、汽船は草津の穴村港へ寄港するようになる。明治から昭和初期にかけて多くの利用客であふれた。目的は「穴村の墨灸(もんもん)」。



 現在も草津市穴村にある穴村診療所。「穴村のもんもん」と呼ばれる墨灸が夜泣きや癇の虫に効くことで有名だった。穴村港から「もんや」までの約2kmの道のりは、遠く大阪や京都、大津から診療を受けにきた親子連れで溢れかえった。穴村港には、魚幸、港屋、大津屋という茶店が軒を連ねていた。三軒の茶店や港の待合室は何千人という人で賑わい、馬車や人力車がひっきりなしに往復した。



 診療所付近には、下駄屋・まんじゅうや・郵便局などが並び、今では信じられないような賑わいを見せていた。中でも、吉田玉栄堂で作る「穴村名物串だんご」が大人気。醤油を絡めた素朴な味。残念ながら、今は草津でもお祭りの時などにしか出会えない。現代という何事も「過剰」な時代。なぜかこのシンプルさに心がほっとする。

  


Posted by biwap at 06:23近江大好き

2015年08月29日

実りの秋へ


 秋の気配が漂ってきた。稲刈りをするコンバインの後ろをサギが群がる。こぼれ種を食べるのかと思いきや、耕された跡から出てくる虫をついばんでいるようだ。サギは害虫を食べてくれる益鳥。驚いて出て来るバッタを狙っている。なかなか賢い。
 県別コメ収穫量ランキングを調べてみた。1新潟県 2北海道 3秋田県 4山形県 5茨城県 6宮城県。北海道などは面積が広いということもある。そこで、農業就業人口100人あたりの収穫量ランキングを出すと。1富山県 2秋田県 3新潟県 4山形県 5石川県 6滋賀県。滋賀県が堂々と登場する。米は暖かいところほどいいと思うのだが、日本海側で生産量が多いのはなぜか。米の品種改良や栽培技術の向上と、昼と夜の気温差が大きいことが稲の生育にはよいらしい。
 近江は古来、豊かなコメの生産地であった。再生エネルギーが普及すれば、地域としての自立が進む。豊かな地域社会を作り出すこと。それこそが真の富国であり、安全保障に他ならない。憎しみを背景にした威嚇や軍拡競争はもうおしまいにして、もっと楽しい未来図を描きたいものだ。

  


Posted by biwap at 06:36近江大好き