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2025年05月06日

中国史上唯一の女帝

とりあえずの中国史・その12

中国史上唯一の女帝

  隋末には各地に反乱勢力が割拠した。この混乱を収拾して618年に唐を建国したのが李淵(リエン)。

中国史上唯一の女帝

 隋を建てた楊堅は北周の軍人だったが、その時の同僚が李淵。楊堅は皇帝に、李淵はその将軍となる。しかも、李淵と2代目・煬帝はいとこ同士。お互いの母親が鮮卑族の名門貴族の姉妹。
 李淵は旗揚げ後すぐに長安に入城し、隋の統治組織をそっくり手に入れた。隋の官僚や軍人たちにとっては、同じ仲間内で皇帝の地位をまわしているようなものだった。

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 唐建国の真の実力者は李淵の次男・李世民(リセイミン)だった。軍事の失敗から捕らわれそうになっていた父の李淵をたきつけて旗揚げさせ唐を建国。626年には、皇太子だった兄と弟を殺害(玄武門の変)。父から譲位させて二代目の皇帝となる。これが唐の「太宗」。太宗は中国史上三本の指に入る名君と呼ばれ、その治世(626~649)は「貞観の治(ジョウガンノチ)」といわれることになる。
 その政策は、土地制度は均田制、税制は租庸調制、軍制は府兵制、律令格式といわれる法律も整備される。律令制度が完成し、唐の絶頂期を迎える。このような唐の諸制度は遣唐使によって日本にも積極的に取り入れられた。

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 政治的には成功をおさめた太宗(李世民)だったが、跡取り問題に悩まされることになる。長男が皇太子になるのだが、少し変わっていて、突厥、トルコ人の遊牧文化にあこがれていた。宮殿の庭にテントを張って住み込む。食事は羊の肉を剣にさしたまま、火であぶって食べる。家来には弁髪をさせ、トルコ語で会話をした。もともと唐の皇室・李家には鮮卑族など北方民族の血が色濃く入っていたからかもしれない。
 太宗(李世民)としてはよろしくないと考え、この長男を皇太子からはずして、一番おとなしい三男を皇太子にした。これが第三代皇帝・高宗(649~683) 優柔不断で頼りない皇帝だったが、唐の基礎づくりがしっかりしていたため、高句麗を滅ぼし唐の支配領域は拡大した。

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 しかし、歴史上有名なのは高宗ではなくその皇后である。則天武后(ソクテンブコウ)といわれる人物。もともと彼女は李世民(太宗)の後宮に入っていたのだが、息子の高宗が見初めてしまう。父・太宗の死後、彼女を自分の後宮に入れた。息子が父親の妻を自分のものにするなんて儒教文化ではありえない。この辺は遊牧民的な行動なのかもしれない。

中国史上唯一の女帝

 則天武后は高宗の愛を独占し皇后の地位に登りつめる。彼女は頭がきれる。高宗は決断力がないので、政治向きの相談を彼女にする。やがて、彼女なしでは政務ができないほどになる。
  高宗が死ぬと則天武后が実権を握ることになる。彼女と高宗との間には二人の息子がいた。まず中宗が即位するが、則天武后は気に入らない。中宗を退位させて、もう一人の息子・睿宗を即位させるが、これも気に入らない。とうとう睿宗も退位させ、63歳位の時に自分で即位してしまった。中国史上唯一の女性皇帝の誕生である。

中国史上唯一の女帝

 武照(ブショウ)というのが彼女の本名。皇帝家が李家から武家へ変わったので国号も周と変更し、都を洛陽に移した。80人の男妾を囲った稀代の悪女などと評されるが、女性ということで必要以上に貶められているのではないか。「則天武后」という呼び名も、これは高宗の皇后としての呼び方である。皇帝名ではない。「武則天(ブソクテン)」といった方がよいのかもしれない。彼女の時代に貴族ではない新官僚層が政権中枢部に登用され、投書箱を置いて民衆から意見を集めるなど、悪評とは裏腹に政治上の功績は大きかった。同時期に「日本」という国家を建設していたのが持統女帝であった。

中国史上唯一の女帝

 最晩年、病に伏せがちになった武則天は退位し、息子の中宗が再び即位する。国号も唐に、都も長安に戻された。705年に武則天が死去すると夫高宗の陵墓(乾陵)に葬られた。唐の歴代皇帝の陵墓で夫婦が合葬されているのは、ここだけである。

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 再び即位した中宗の皇后が韋后(イコウ)。彼女ずっと則天武后のやり方をみていた。韋后は夫・中宗が死ぬのを待ちきれず、とうとう娘と共謀して毒殺してしまう。さすがにこれはやりすぎ。中宗の弟が睿宗だが、その息子・李隆基(リリュウキ)が兵士を率いて宮中に乗り込み韋后らの一派を排除した。則天武后から韋后までのゴタゴタを「武韋の禍(ブイノカ)」という。さてこの李隆基が「玄宗皇帝」となり、次の楊貴妃の話につながっていく。