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2017年07月11日

滋賀県の誕生

滋賀県の誕生

 戊辰戦争が終わって敵対者はいなくなったが、260余の「藩」は依然として残っている。明治新政府は、藩の枠を破り土地・人民の集権的支配を目指した。
 木戸孝允は山口に帰り、藩主毛利敬親に土地と人民を政府に出すようすすめる。大久保利通は薩摩藩主に、土佐・肥前もこれにならった。1869年1月、薩長土肥は、「版籍奉還」を政府に願い出た。4藩が連名で出せば他の藩もこれに従うだろう。目論見はズバリ的中。他藩も新政府から脱落する事を恐れ、争って奉還を申し出た。版=版図(土地)。籍=戸籍(人民)。”形式的”には封建制度が廃止。しかし、 旧藩主は「知藩事」と名称が変わり、国家の官吏として旧支配領に君臨。封建的主従関係は続いた。
 近代国家として国土・人民を直接支配する。そのために必要なのは暴力装置。大久保・木戸は鹿児島に帰っていた西郷隆盛を口説いて中央政府に入れ政府の軍隊を作った。薩長土の兵を東京に集め、皇居を守るという名目で1万人の親兵を組織。これを背景に「廃藩置県」が断行。「知藩事」として君臨していた旧藩主は解任。府知事・県令が中央から派遣された。鹿児島の島津久光は怒った。「大久保と西郷に騙されつづけた!」 もう後の祭り。1871年7月、「廃藩置県」。当初は「藩」をそのまま「県」にしたため 3府302県あった。11月、3府72県に整理。
 江戸時代の近江国は、藩領・公家領・寺社領・幕府直轄領など、大小様々な領地が入り組んだ状態だった。1871年7月に行われた「廃藩置県」では、旧来の「藩」を「県」に置き換えた膳所県や彦根県など8つの「県」が誕生。その他にも15県の飛び地が存在していた。全国的に県の統廃合が進む中、1871年11月、北半分が「長浜県」、南半分が「大津県」に大きく統合された。この「大津県」「長浜県」はそれぞれ「滋賀県」「犬上県」と改称され、1872年9月、両県が合併することで「滋賀県」が誕生。
 県名の由来について、司馬遼太郎は「街道を行く」で次のような面白い話を書いている。
 「明治政府がこんにちの都道府県をつくるとき、どの土地が官軍に属し、どの土地が佐幕もしくは日和見であったかということを後世にわかるように烙印を押した。その藩都(県庁所在地)の名称がそのまま県名になっている県が、官軍側である。薩摩藩-鹿児島市が鹿児島県。長州藩-山口市が山口県。土佐藩-高知市が高知県。肥前佐賀藩-佐賀市が佐賀県。の四県がその代表的なものである。戊辰戦争の段階であわただしく官軍についた大藩の所在地もこれに準じている。筑前福岡藩が、福岡城下の名をとって福岡県になり、芸州広島藩、備前岡山藩、越前福井藩、秋田藩の場合もおなじである。
 これらに対し、加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした。
 戊辰戦争の段階で奥羽地方は秋田藩をのぞいてほとんどの藩が佐幕だったために、秋田県をのぞくすべての県がかつての大藩城下町の名称としていない。仙台県とはいわずに宮城県、盛岡県とはいわずに岩手県といったぐあいだが、とくに官軍の最大の攻撃目標だった会津藩にいたっては城下の若松市に県庁が置かれず、わざわざ福島という僻村のような土地に県庁をもってゆき、その呼称をとって福島県と称せしめられている」
 戊辰戦争北陸での最大の激戦地「長岡」。当時最大の町であったが、県庁を置くとテロの恐れもあり、小さな港町「新潟」に県庁を置いた。新潟県。同じように治安上の理由で金沢市内に県庁を置けず、郊外の石川郡内に県庁を置いた。石川県。
 戊辰戦争の「賊軍」「官軍」に対する「報復」「賞罰」が県名にあらわれたという説は興味深い。しかし、この法則で一般化するのは無理がある。
 幕末の和親通商条約と異なった開港をしてしまったために、ずれてしまった神戸市/兵庫県、横浜市/神奈川県のような例もある。
 近江の場合、「長浜県」→「犬上県」については、県庁が長浜から犬上郡彦根へ移転したことと関係あるのだろう。彦根と長浜で県庁の取り合いをしていたようだ。「大津県」→「滋賀県」の理由は不明である。
 ところで、大老・井伊直弼を輩出した譜代大名筆頭の彦根藩。幕末、徳川慶喜との関係を重んじる家老と新政府寄りの下級藩士が対立。鳥羽・伏見の戦いでは、家老派は慶喜のいる大坂城へ参陣したが、藩の大多数の兵力は最初から新政府側に加わっていた。戊辰戦争において、彦根藩は完全に新政府軍として参戦。会津まで転戦し、功をあげている。1871年7月の廃藩置県では、彦根藩は「彦根県」に、藩主・井伊直憲が知藩事になっている。
 1876年、政府が経費節減を名目に3府35県に府県を統廃合。敦賀県(現在の福井県とほぼ同じ領域)が廃止となり、若狭国(三方郡・遠敷郡・大飯郡)と越前国敦賀郡が滋賀県へ、残りの地域は石川県へと移管された。滋賀県は一時的に若狭湾という海に面していた。1881年2月7日、福井県が設置。これに伴い、<若越四郡>は滋賀県を離れ福井県へ移管。海はなくなった。
 2015年2月、滋賀県議会で「県名を変えるのもひとつの方法では」との意見が出された。全国的に滋賀県の知名度が低いため。県名変更についての県政世論調査が行われた。7月27日に発表されたアンケート調査の結果。「変える必要はない」82.8%。「変えた方がいい」6.5%。
 15才まで滋賀県で暮らしていた尾木ママこと教育評論家の尾木直樹さんは、この“改名騒ぎ”に唖然。
 「最近、近江県とか琵琶湖県に変えたらどうかという話が出てきたので、びっくりしています。ぼくが滋賀を離れて50年以上たちますが、住んでいた頃は知名度が低いなんて意識もしませんでしたよ。ぼくは滋賀の歴史と文化に誇りを持っていますし、人情もあってとてもいい県だと思っていますから」
 まことに同感!