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2022年07月27日

天下三分の計

とりあえずの中国史・その9

天下三分の計

 後漢王朝は辛うじて「黄巾の乱」を鎮圧するが、189年、宮廷の混乱に乗じて首都洛陽を制圧した武将・董卓が実権を掌握、恐怖政治を布いた。この「董卓の乱」によって後漢王朝は実質的に滅亡する。
 192年、董卓は養子の呂布に殺害される。呂布軍には騎射に優れた遊牧民の匈奴兵が多く含まれていた。呂布自身が遊牧民の血を引いていたのかもしれない。呂布の死後、曹操は彼の軍をそっくりそのまま自分の軍隊に吸収した。また、黄巾軍の一部も自軍に編成している。利用できるものは何でも利用し強大化していった。

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 曹操の魅力の根本は儒学の道徳から解き放たれているところにある。その行動の常識にとらわれない大胆不敵さが醸し出す爽快さが人を惹きつける。清流派のホープとされる優秀な知識人が集まって来た。彼らは軍事的・行政的に大局を見渡す戦略を次々に提案し、曹操も彼らの意見をよく取り入れた。
 華北の覇者となった曹操は後漢を亡ぼし、「魏」を建国。事実上は曹操が建国したのだが、彼は皇帝にならずに死去し、息子の曹 (ソウヒ)が後漢最後の皇帝に位を譲らせて魏の初代皇帝になっている。

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 劉備は現在の河北省の出身。役人の家に生まれるが、父の死後、家は貧しくなり、母と共に筵を織って生計を立てていた。前漢王朝劉氏の末裔とされるが、逆に身分の低さを際立たせている。黄巾の乱が発生すると、関羽・張飛らと共に義勇軍を結成し、次第に群雄の一人として名をあげていく。

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 曹操が華北を支配すると居場所を失い、荊州(湖北省)に身を寄せることになる。鳴かず飛ばず、落ち込む一方の劉備を上昇気流に乗せたのが、諸葛孔明との出会い。みずから隠棲先を訪れ三度目の訪問でようやく会うことができた(「三顧の礼」)。劉備の真情溢れる要請を受け軍師となった諸葛孔明は、劉備の為に智謀の限りを尽くしていくことになる。
 それもつかの間、曹操が天下を統一すべく大軍を率いて南下、荊州攻撃を開始した。激戦の末、かろうじて脱出した劉備に残された道は、江東(長江下流域)を支配する孫権と手を組んで早々に対抗することだった。

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 孫堅の跡を継いだ・孫権(ソンケン)。エラが張った頬に大きな口。眼が青く赤茶けたヒゲを生やし(「碧眼(ヘキガン)紫髭(シゼン)」)、西洋人風の容貌をおもわせる。三国志の君主の中で最も長命だった。曹操、劉備に比べるといささか印象が薄い孫権だが、3人の中でも一番思慮深く、外交策に長けており、偉大な現実家だったともいえる。

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 孫権と劉備の連合軍は、曹操の大軍を長江中流域で迎え決戦となる。圧倒的な兵力の差にも関わらず、水軍に慣れない曹操軍が大敗する(「赤壁の戦い」)。この敗北で曹操は統一を諦め、二度と再び長江を渡ることはなかった。中国の分裂は決定的となり、魏・呉・蜀の三国時代になる。

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 孫権が長江下流域に建国したのが「呉」。南方土着豪族の勢力を結集。首都は建業(現在の南京)。中国の長江以南の地域(江南)は、経済力の面で華北に後れを取っていたが、呉の時代から始まった開発、特にクリーク網の開削などによる農業生産の向上をもたらした。建業はその後も南朝の歴代の都として繁栄する。
 また呉は、蜀を牽制する意図から、ベトナム北部に進出した。それに対抗して蜀の諸葛孔明はさかんに雲南地方に出兵している。ベトナム北部を領土に組み入れた呉は、ベトナム中部のチャンパー(林邑・占城)からも朝貢を受け、さらに南ベトナムからカンボジア一帯を支配して扶南にも使節を派遣した。中国文化がインドシナ半島南部のインド文化と接触したのはこの頃からのことである。

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 劉備は現在の四川省を中心に「蜀」を建てる。首都は成都。法制度を充実させ、新しい貨幣を作り貨幣制度を整備した。益州は鉱物資源が豊富で塩を産出したため、劉備は塩と鉄の専売による利益を計り、国庫収入を大幅に増加させた。