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2022年07月14日

王侯将相いずくんぞ種あらんや

とりあえずの中国史・その6

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 秦滅亡のきっかけとなったのが、陳勝・呉広の乱。始皇帝の死の翌年(B.C.209年)、陳勝ら楚地方の農民に千キロ離れた場所への警備が命ぜられた。定められた日までに着かなければ処刑される。ところが大雨で川が氾濫し、先に進めなくなってしまった。陳勝と仲間の呉広は、どうぜ遅れて処刑されるくらいなら、いっそ秦に反乱しようと考えた。
 これが導火線となり、各地で様々なグループによる反秦蜂起が起こった。陳勝は叫んだ。「王侯将相いずくんぞ種あらんや(王、貴族、将軍、大臣であろうと、われわれ農民とどこに違いがあるというのだ)」。二千年以上前、ただの貧しい農民が叫んだ強烈な平等意識と反骨精神だ。
 陳勝・呉広の反乱軍は秦の地方駐屯群軍を破り、瞬く間に数万の軍勢にふくれあがった。しかし、しょせんは農民出身の烏合の衆。半年後、秦の精鋭部隊に鎮圧され、陳勝も呉広も死んでしまったのだが、既にこの時、反乱は全国に広がっていた。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 全国に広がった反乱軍のリーダーが項羽と劉邦だった。項羽は楚国の名門将軍家の出身で血気盛んな若きエリート武人だった。一方、劉邦は田舎の農民出身。各地で反乱が勃発すると自分の郷里に戻り、「侠」の仲間を集めて挙兵。反乱軍を束ねどんどん大きくなっていった項羽軍の傘下に入る。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

王侯将相いずくんぞ種あらんや

      (函谷関)

 前206年、項羽率いる反乱軍は秦の都咸陽を攻める作戦を取った。主力軍は関羽が率いて西に向かい、別働隊を劉邦が率いて南回りで咸陽に進撃した。両者は事前に、先に咸陽を占領したものがその地域の主となると約束を交わしていた。
 古くからの要衝「函谷関」で足止めされた項羽に対し、劉邦は険しい道のりが幸いして先に咸陽の都に突入し、占領に成功した。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 秦では(例の「馬と鹿」の)二世皇帝が趙高に殺され、その趙高もまた殺されて、二世皇帝の甥・子嬰(シエイ)が即位したばかりだった。子嬰は自分の首に縄をかけて劉邦のもとにやってきて、全面降伏の意を示した。劉邦は子嬰を殺さず保護し、阿房宮を封印して略奪を禁じた。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 遅れて関羽の本隊が咸陽に到着すると、子嬰をはじめ秦の皇族を殺し、阿房宮を略奪した後、火を放った。火は3カ月間も消えなかったという。その後、楚の国に帰って「西楚の覇王」と称し、反乱集団のリーダーたちを王として各地に封じた。
 劉邦は約束によれば咸陽の地で王となるはずだったが、項羽に警戒され現在の陝西(センセイ)四川(シセン)省の奥地の王とされた。この地名が「漢」である。これを不服とした劉邦と関羽はその後5年間にわたる戦いを繰り広げることになる(「楚漢の戦い」)。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 軍隊としては圧倒的に関羽軍が強く、劉邦軍は負けてばかりだったが、面白いことに負けるたびに劉邦の勢力は強大になり、項羽軍は弱体化していった。部下に対して尊大な項羽に対し、自分では何もできないという自覚のある劉邦は部下の能力を引き出し恩賞もはずんだ。項羽のもとでは働き甲斐がないと感じた武将たちは劉邦軍に寝返っていった。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 劉邦と項羽の最後の決戦が垓下(ガイカ)の戦いだった。垓下の城にこもった項羽軍は十万、これを囲む劉邦軍は三十万。夜になって包囲軍の兵士がうたう歌が、項羽の陣地に聞こえてきた。敵の劉邦の軍から自分たちの「楚」の歌が聞こえてくる。つまり、かっての項羽の兵士たちは、今みんな劉邦軍にいるのだ。これが「四面楚歌」の故事。

王侯将相いずくんぞ種あらんや

 ついに観念した項羽は、最後まで付き添っていた武将たちと別れの宴を開いた。心境を歌った項羽の最後の言葉が「虞や、虞や、なんじを奈何せん」。
 虞というのはずっと項羽に付き従ってきた愛人「虞美人」のこと。彼女は項羽の歌を聞いて自分が足手まといであると悟り、自ら命を絶った。彼女の血を吸った大地から真っ赤な花が咲いた。これが、「虞美人草」。
 項羽の遺体は、劉邦によって手厚く葬られた。そして、時は劉邦の「漢」の時代に移っていく。