2020年05月01日
雪の日の反乱
今は昔の話。ドイツ・イタリアのファシズムは大衆運動として高揚していった。一方、日本では一部過激で純真な青年将校たちが反乱を起こした。その反乱は利用し泳がされ、ある枠を超えようとすると叩き潰され、国家総動員体制という戦時体制が形成された。1936年「二・二六事件」。
1936年2月26日早朝、雪が深々と降り積もっていた。陸軍の青年将校らは兵1400余りを率いて反乱を起こした。反乱軍は首相官邸や陸軍省を含む永田町一帯を占拠。軍部は戸惑っていた。初めは彼らを賞賛するような態度を見せたが、3日後にようやく鎮圧する方針を決定。その呼び方も「決起部隊→占拠部隊→反乱部隊」と変わっていく。
ラジオの拡声器から流れた「下士官に告ぐ」という名文句。「今からでも遅くないから原隊に帰れ、お前たちの父母兄弟は皆泣いておるぞ」。熱狂的な天皇主義者も反乱軍として扱われたことを知るとたちまち戦意を失い、下士官以下はすぐに帰順し4日目には反乱は終わった。
彼らは幕末の志士に習い「昭和維新」の断行を主張。「尊皇討奸」と書いた白たすきを着けた。日本国民の9割は貧苦に喘いでいた。青年将校らが隊長として指揮している部下の兵士たちの多くは農村出身。「キャベツ五十が敷島一つ(敷島は20本入り18銭のタバコ)」。農産物の暴落。追い討ちをかけるように冷害。欠食児童。娘の身売り。日本の農村は深刻なパニック状態だった。こうしたことを背景に蜂起が起こった。
奸(軍閥・財閥・政党・官僚)を取り除き天皇と臣民が一体となる政治。青年将校の理論的指導者が北一輝。「日本改造法案」は青年将校のバイブルだった。軍事クーデターを決行し、天皇大権を発動。3年間憲法停止、両院解散、全国に戒厳令。私有財産の限度超過者を調査し徴収。華族制度の廃止、普通選挙の実施、私有財産の制限、生産手段の国有化。対外的には侵略。剣による正義を主張。
では天皇はこの二・二六事件に対してどう反応したのか。「本庄日記」によると。2月26日。行為は許せないがその国を思う精神は咎めるべきではないとする側近の声に、「自分の老臣を殺した将校たちをその精神においてもなんら許すべきものはない」と答えている。2月27日。反乱軍の鎮圧が進んでいないことにイライラし、自分が近衛師団を率いて鎮定すると述べた。2月28日。川島陸相は青年将校の自決によって事態収拾を図ろうとした。天皇「自殺するならば勝手に為すべく、此の如きものに勅使などもっての外なり」。
天皇は二・二六事件の最中、反乱が財界なり国際為替相場に与える悪影響を絶えず心配し続けていた。もし青年将校からみて天皇の側近が「奸」ならば、天皇はより純粋に本質的に「奸」であった。
天皇崇拝の国体論者であった青年将校たちの反乱は鎮圧される。直接行動としては参加しなかったが、教祖的存在であった北一輝は首謀者として銃殺刑に処せられた。銃殺に処せられる直前、天皇陛下万歳三唱を提案した同志に対して北一輝はこう言った。「それには及ぶまい 私はやめる」。
首謀者であった磯部浅一は、獄中において天皇の実像にある程度触れる。「天皇陛下何という御失政でありますか」という叫びを一身にみなぎらせて、この31歳の青年も処刑されていった。
陸軍内「皇道派」(天皇親政・天皇主義)によるクーデターの失敗の後、「統制派」(陸軍のエリート幹部)が実権を握る。軍需産業や資本家官僚と連携しながら軍部独裁体制を固めていく。15年戦争へ突入。未曾有の惨禍を生み出した。歴史学者・家永三郎は、日本の近代化に内在したすべての矛盾が積もり積もって行き着いた結果であると述べている。
日本の近代において、主体的な思想形成はしっかりと根を下ろさなかった。その状況下に置かれた人間にとって、死を押し付けられる戦争で死んでいくことは、運命としか表現の仕様のないことであった。個人が何をしようと引きずり込まれていく。しかし歴史が人間を作り人間が歴史を作るものである以上、戦争に国民大衆は全く責任がなかったといえるのか。
皆が皆、天皇を神だと確信し戦争へ参加したわけではない。戦争反対を叫んで牢獄へ繋がれた人がいた。兵役を拒否した宗教者がいた。中江兆民は「日本に哲学なし」と言った。主体的責任意識の欠如は、「一億総懺悔」という言葉の下、戦争責任を曖昧にしたままの戦後処理へとつながっていった。日本人自身の手で戦争責任を明確にしなかった。そのことの批判の中にこそ戦後の思想的課題があった。思想とは、誰か特権的な人間のものではない。ごくごく当たり前の人間の「thought」である。
私たちが「戦後民主主義」の意味を自分の中に血肉化し、「thought」しない限り、再び「雪の日の反乱」を見ることになるだろう。
Posted by biwap at 17:27
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