2023年04月18日
神の沈黙

江戸時代初期、長崎の宗門目明しとしてキリシタン弾圧に辣腕を振るった沢野忠庵という人物がいた。沢野忠庵ことクリストワン・フェレイラ。遠藤周作の小説『沈黙』に登場する実在の人物である。
1580年、ポルトガルに生まれる。1596年、イエズス会に入会、マカオのコレジオで4年間神学を学んだのち、1609年に長崎に上陸。有馬のセミナリオで2年間日本語を学ぶと、1612年、京都に派遣される。1633年、長崎潜伏中に捕縛され穴吊りの刑に処される。この時、一緒に吊るされたもう一人の人物がいた。
1582年、九州のキリシタン大名らが、その名代として少年たちをローマに派遣した。「天正遣欧少年使節」という。伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルティノの4名。彼らはポルトガル、スペインを経由してローマにたどり着き、教皇グレゴリウス13世に謁見。ローマ市民権を与えられるなど、東洋の少年たちは大歓迎を受けている。1590年、長崎に帰国。彼らを待ち受けていたのは、出国した時とは正反対のキリシタン弾圧の時代だった。
千々石ミゲルは棄教、伊東マンショは長崎で布教中に死去、原マルティノは日本を追放されてマカオで死去。中浦ジュリアンは正式な司祭となるが、フェレイラと同じ時に捕縛され、穴吊りという拷問を受ける。
足を縛った逆さ吊りで体を穴の中に入れる。全身の血が頭に溜まって苦しむものの、すぐには死なないよう、両耳の後ろに穴を空けて血が流れ出るようにしていた。
この時吊るされたのは、中浦ジュリアンとフェレイラ、そして3名の外国人宣教師。中浦ジュリアンは4日間耐えて死亡。最期に、「私はこの目でローマを見た中浦ジュリアン神父である」と言い放ったという。
フェレイラは刑の苛烈さに堪え切れず、刑執行の5時間後に棄教した。そしてこの時、フェレイラは「転び伴天連」となった。棄教後のフェレイラは洪泰寺の檀徒となり、沢野忠庵という日本名を名乗る。長崎に邸宅が与えられ、三十人扶持、宗門吟味役が宛がわれた。すなわち権力に与し、弾圧する側に転向したのだ。1644年にはキリスト教を攻撃する『顕偽録』を出版している。
フェレイラ棄教の報は、殉教者の振る舞いを英雄視していたカトリック世界の人々に大きな衝撃を与えた。そうした中、フェレイラに回心を求める試みが幾度かなされている。イエズス会士により組織された宣教団は、1643年に日本に潜入するが、直ちに捕えられてしまう。
その際フェレイラは江戸に呼び出され、宣教団員の一人として囚われの身となっていた、イエズス会士ジュゼッペ・キアラの詮議通訳として立ち会うことになる。程なくしてキアラもまた「転び伴天連」となり、岡本三右衛門の名が与えられた。彼は宗門改役の業務の傍ら、幕府の要請で、キリスト教の教義を論じた『天主教大意』を著している。来日してから43年後、幽閉先であった小石川の切支丹屋敷で83歳の生涯を閉じている。
沢野忠庵と名を改めたフェレイラは、京都所司代板倉重宗からキリシタン吟味役に取り立てられ、長崎に住み、「宗門目明し」となる。滋賀県草津市にある「芦浦観音寺文書」にも「長崎之者」として登場する。
「芦浦観音寺文書」にはこんな記述がある。永原源七という「きりしたん」が死亡。その子九左衛門は常念寺の「もんと」となるのだが、観音寺の指示のもとにその行動が監視されている。「笛吹新五郎」なる人物が訴人となり九左衛門がかくれキリシタンであることが観音寺に密告される。九左衛門は京都所司代の命により入牢せしめられ、12年にして牢死している。
被差別民と考えらえる「笛吹新五郎」も何らかの転向者であったのかもしれない。それを統括していた「長崎之者」も転向者であった。
フェレイラは晩年に再び回心し殉教を遂げたともいわれているが定かではない。1650年11月、長崎で波乱に満ちた生涯を終えた。
遠藤周作の『沈黙』に次のような言葉がある。
「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地にキリスト教という苗を植えてしまった」
Posted by biwap at 10:21
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