2023年04月22日
夢に消えたジュリア


「永遠の愛にさまよう 燃えろ夏の十字架
南の空高く 夜の闇を照らす」
(桑田佳祐『夢に消えたジュリア』)

伊豆大島の南東部、筆島を眼前にする海岸にあるのがオタア・ジュリアの十字架。
豊臣秀吉の朝鮮侵略。キリシタン大名・小西行長は3歳前後だった朝鮮の少女を保護して九州に連れ帰った。少女はキリシタン信者だった小西行長夫妻に育てられ、長じてジュリアの洗礼名を受ける。
南蛮貿易によって栄えていた日本有数の商業都市・堺。宣教師たちも相次いで来港し、信徒となるものも多くいた。堺の豪商・小西立佐(リュウサ)も熱心なキリシタンだった。世間から見捨てられた窮民の救済に奔走し、ハンセン病患者の病院を建てるなど慈善事業に尽くした。小西立佐の次男が小西行長であった。
行長は秀吉の船奉行を務めキリシタン大名として名を馳せたが、関ヶ原の戦いで家康と戦って敗れ、六条河原で処刑された。ジュリアはその才気と美貌により家康の侍女に召し上げられた。
1612年、家康はキリシタン禁教令を発する。家康の小姓だった原主文(モンド)は、転宗を拒否して逐電するも捕まえられ、額に十字の焼印を押され、手足の指を切断され追放された。主文(モンド)は江戸に潜入するとハンセン病者たちの小屋に住んで活動を続けた。
家康の侍女として仕えていたジュリアが改宗を求められたのもこの時。迫害にも負けず棄教しなかった彼女は、見せしめとして伊豆大島へ流される。駿河から網代港までは自ら裸足になって歩き、街道で見かけた困窮者に自分の着物を分け与えたという。



伊豆・網代から御用船に乗せられ、伊豆諸島の大島、新島を経て神津島へと流刑にされたジュリア。今でも神津島ではジュリアを偲んで「ジュリア祭」が行われている。

2023年4月19日、萩博物館(山口県萩市)は、家康に仕えた女性の直筆の書状が見つかったと報道陣に公開した。朝鮮半島から連れてこられ、棄教の命令を拒んで流刑となった悲劇のキリシタン女性「ジュリア」の直筆書状が初めて見つかったのだ。専門家は「歴史的にも極めて貴重な資料」と話す。家康に仕えていたジュリアが、朝鮮半島で生き別れた弟に似た男性が毛利家にいると伝え聞き、素性などを尋ねる内容などが記されている。
Posted by biwap at 15:44
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