2023年04月17日
裏切りの友

「百姓は生かさぬように殺さぬように」という言葉がある。出典は、本多正信が『本佐録』に記した「百姓は財の余らぬように、不足なきように治むる事道なり」。
本多正信は徳川家康が「友」とさえ呼んだ、生涯の盟友で唯一無比の忠臣であった。しかし、彼こそ主君家康を裏切った反逆者だった。
三河平定へ向かった若き家康を大いに苦しめたもの、それは一向一揆であった。事の発端は一向宗寺院への強引な兵糧米徴収。当時の三河では、一向宗の有力寺院が水運や商業を掌握していた。さらには、課税や外部の立ち入りを拒否できる「守護使不入」の自治権などを持っていた。三河支配を目指す家康と衝突するのは時間の問題であったともいえる。
しかし、家康の強硬な姿勢への反発は大きく、各地で一揆は勃発していく。一向門徒だけではなく、国人や土豪、農民も加わって一揆は拡大していった。そして、主君に忠実なはずの三河武士たちにまで一揆側への寝返りが続出することになる。本多正信もその一人であり、反逆のリーダーとなる。
家康は自ら先頭に立ち一揆の鎮圧に乗り出す。次第に一揆の勢いは抑え込まれていく。一揆側から和議が要請された。家康を説得したのが、代々松平家に仕えた大久保忠俊だった。忠俊は厳罰に処することで、民の心が家康から離れることを心配した。家康は折れて起請文を取り交わす。
寺院は以前と同じにようにする。そう言って、すべてを水に流すかに見えた家康だったが、和議に至ると態度を一変。一揆を引き起こした寺院は、改宗を迫られた。拒否すると寺内は破壊され、坊主たちは追放された。家康はこう言い放ち、堂塔の破壊にとりかかった。「以前は野原だったのだったから、もとのように野原にせよ」(『三河物語』)。
「一揆側についた者も許す」という約束についても守られなかった。本多正信らの家臣は追放されている。正信は加賀へ向かい一向一揆を戦い続ける。家康にとって今回の騒動は、宗教勢力の脅威を肌で感じた経験でもあった。これ以後の三河では、20年にわたって本願寺教団の活動が禁じられている。
宗教一揆への憎悪は、その後のキリシタン弾圧へとつながっていく。主君か信仰かの家臣たちの動揺は、それに対抗する権力側のイデオロギー装置の構築を必然ならしめた。
本多正信が一向一揆側についたことに、後世の人々が驚くのは、その後の活躍ぶりを知っているからだ。正信が家康の元に戻るのは姉川の合戦あたりと言われている。家康による正信への信任が厚くなるのは、本能寺の変以降のこと。家康の参謀的な立場にまで登りつめている。家康が江戸幕府を開いた時には、欠かせない側近だった。家康が首を縦に振るか横に振るかは、そばにいる正信の表情でわかったという。
自分が最もつらい時期に、裏切った家臣・本多正信。はらわたが煮えくり返るはずの、その人物の帰参を許し、最大の腹心とした家康。裏切り続けた本多正信が家康の謀臣たりえた裏側。それを推し量るすべはない。
Posted by biwap at 16:23
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