2014年10月04日
異端の近江商人「西武」

1889年、滋賀県東部に東海道本線開通。1890年、関西鉄道・草津‐四日市間全通。両鉄道ルートから外れた湖東平野を縦断する鉄道計画が持ち上がった。旧彦根藩士族・有力近江商人を中心に近江鉄道株式会社が設立された。近江鉄道は設立当初から資金難に悩まされる。建設工事費を削るため、終着駅を深川から貴生川に短縮。1900年、彦根‐貴生川間が開通。その後、宇治川電気の系列に入るが、太平洋戦争時、宇治川電気は鉄道事業を手放した。1943年、「近江鉄道」を自らの経営傘下に入れたのが堤康次郎(ツツミ ヤスジロウ)である。
堤康次郎。1889年、滋賀県愛知郡八木荘村の農家の長男として生まれる。幼くして父を亡くし、母親とも生き別れる。21才で上京、早稲田大学政治学科に入学。在学中は副業やアルバイトに熱中し、政治活動にものめりこんでいく。卒業後、康次郎の着手した事業はいずれもうまくいかず、最後の望みを不動産事業に託した。別荘地開発を皮切りに成功を収めていく。軽井沢は日本の代表的なリゾート地となる。1924年、36歳で故郷滋賀県選出の衆議院議員となり、以後13回当選。政治家になった康次郎は、土地に関する情報を手に入れ、安値で買い叩き、高値で売却していった。関東大震災後には、都内皇族・華族の大邸宅を買収し住宅地として分譲。東京大空襲の最中も、戦災で地主が不在となったところを次々と自らの名義にした。戦後は、皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担に苦しむ旧宮家・華族の邸宅地を買収。華族やその関係者をグループで雇用して面倒を見ると共に、邸宅地を活用して「プリンスホテル」を開業。鉄道事業にも進出。康次郎の武蔵野鉄道は旧西武鉄道を吸収合併する。通常、社名は吸収する側の武蔵野鉄道になるはずだが、西武鉄道従業員への配慮から社名は「西武鉄道」となった。「西武」の名称は武蔵国の西部に由来する。康次郎が上京して早稲田大学に入学する前のこと。郷里の滋賀県の女性との間にもうけたのが長男の清だった。清は、グループ会社「近江鉄道」の社長に就任。のち、康次郎の逆鱗に触れ、堤家とは断絶することになる。
Posted by biwap at 07:01
│近江大好き