2022年07月12日
春秋戦国の合理主義
とりあえずの中国史・その4

西方辺境の異民族統治に失敗した周は、都を東の落邑(ラクユウ)に移す(東周)。宗族として本家の周王を形式的にも立てていたのが前半の春秋時代。それも完全に有名無実化し、覇を争うようになったのが後半の戦国時代。下剋上の乱世と云われるが、歴史が大きくうねりながら動いていった時代でもある。

「矛盾」という言葉がある。ある武具商人が矛を売るときは「どんな盾でも貫く」と言い、盾を売る時には「どんな矛でもはね返す」と言っていた。それを見ていた者が「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」とツッコミを入れる。
矛は最新式の鉄製。盾も鉄張り。口上しながら売っているところをみると、注文生産ではなく流通を前提に生産されていた。

鉄製農具が登場し牛耕が普及。耕地は急拡大し人口も増加していく。点としての邑(ムラ)の支配から、面としての領域国家に変化していく。大国では人口数十万規模の都市も出現。商業と工業が生まれていったのだ。
農業・商業・流通の発展、社会の活性化と流動化のなかで戦国の諸国は生き残りをかけて富国強兵策を行った。出身地も身分も関係ない能力主義。諸子百家と呼ばれる、新しい学問・思想が生まれた時代でもあった。

西方辺境の三流国だった秦。人材を求めていた秦の孝公は、自分を売り込みにやって来た衛国出身の商鞅(ショウオウ)を高く買い、今でいう総理大臣に抜擢した。周囲の反感を尻目に「商鞅の変法」と呼ばれる政治改革を断行していく。

五戸、十戸毎の隣組を組織し、納税や防犯の連帯責任を取らせた。兵士や人夫を出すのも連帯責任で厳しく統制した。農家では、次男以下に強制的に分家させ、未開の土地に入植させた。耕地が増え、戸数が増え、税収は拡大し、軍事力は強化された。
地方の長老たちが「政治が厳しすぎる」と訴えたところ、商鞅は全員処刑してしまった。盗賊はいなくなり、道に財布が落ちていても処罰を恐れて誰も拾わなくなった。別の地方の長老たちが来て「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになりました」と褒め称えたところ、政治を評価するとは不遜だと、またもや全員処刑。

秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長。しかし、孝公が死ぬと反対派貴族たちは商鞅に謀反の罪を被せた。国外逃亡を図った商鞅は、ようやく国境近くの宿屋までたどり着いたが、通行手形がない。
宿の主人は、「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません」。それでも何とかと頼む商鞅に、「商鞅様の法は厳しいので、泊めると私が後で首を刎ねられますから」。
結局、商鞅は捕らえられ、車裂きの刑で処刑された。これぞ「自業自得」。

しかし、孝公の跡をついだ息子の恵文王は商鞅のやり方を真似たので、秦の力は衰えず一層強くなっていった。
洛陽の人で蘇秦という者がいた。秦に用いられなかった蘇秦は燕の文侯にこう説いた。「諸侯の兵力は秦の十倍あります。力を併せて西の秦に対抗したら、秦は必ず破れるでしょう。六国(斉・楚・韓・魏・趙・燕)が合従して、秦を退けるにこしたことはありません」。

燕は蘇秦に資金を出して、諸侯たちの説得にあたらせた。蘇秦は言った。「鶏口牛後」=「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」。秦に服従するより独立を保てということ。
「従」とは「縦」つまり「南北」のこと。斉・蘇・韓・魏・趙・燕の六国が従に合わさって秦に対抗する(「合従」)。それに対する秦の方策。諸国と個別に同盟を結ぶことで諸国の同盟を分断するもの(「連衡」)。「衡」は「横」に連なること。「合従連衡」はどうなったのか。
結局、諸国は秦に滅ぼされ、秦が初めて天下を統一することになる。

西方辺境の異民族統治に失敗した周は、都を東の落邑(ラクユウ)に移す(東周)。宗族として本家の周王を形式的にも立てていたのが前半の春秋時代。それも完全に有名無実化し、覇を争うようになったのが後半の戦国時代。下剋上の乱世と云われるが、歴史が大きくうねりながら動いていった時代でもある。

「矛盾」という言葉がある。ある武具商人が矛を売るときは「どんな盾でも貫く」と言い、盾を売る時には「どんな矛でもはね返す」と言っていた。それを見ていた者が「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」とツッコミを入れる。
矛は最新式の鉄製。盾も鉄張り。口上しながら売っているところをみると、注文生産ではなく流通を前提に生産されていた。

鉄製農具が登場し牛耕が普及。耕地は急拡大し人口も増加していく。点としての邑(ムラ)の支配から、面としての領域国家に変化していく。大国では人口数十万規模の都市も出現。商業と工業が生まれていったのだ。
農業・商業・流通の発展、社会の活性化と流動化のなかで戦国の諸国は生き残りをかけて富国強兵策を行った。出身地も身分も関係ない能力主義。諸子百家と呼ばれる、新しい学問・思想が生まれた時代でもあった。

西方辺境の三流国だった秦。人材を求めていた秦の孝公は、自分を売り込みにやって来た衛国出身の商鞅(ショウオウ)を高く買い、今でいう総理大臣に抜擢した。周囲の反感を尻目に「商鞅の変法」と呼ばれる政治改革を断行していく。

五戸、十戸毎の隣組を組織し、納税や防犯の連帯責任を取らせた。兵士や人夫を出すのも連帯責任で厳しく統制した。農家では、次男以下に強制的に分家させ、未開の土地に入植させた。耕地が増え、戸数が増え、税収は拡大し、軍事力は強化された。
地方の長老たちが「政治が厳しすぎる」と訴えたところ、商鞅は全員処刑してしまった。盗賊はいなくなり、道に財布が落ちていても処罰を恐れて誰も拾わなくなった。別の地方の長老たちが来て「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになりました」と褒め称えたところ、政治を評価するとは不遜だと、またもや全員処刑。

秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長。しかし、孝公が死ぬと反対派貴族たちは商鞅に謀反の罪を被せた。国外逃亡を図った商鞅は、ようやく国境近くの宿屋までたどり着いたが、通行手形がない。
宿の主人は、「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません」。それでも何とかと頼む商鞅に、「商鞅様の法は厳しいので、泊めると私が後で首を刎ねられますから」。
結局、商鞅は捕らえられ、車裂きの刑で処刑された。これぞ「自業自得」。

しかし、孝公の跡をついだ息子の恵文王は商鞅のやり方を真似たので、秦の力は衰えず一層強くなっていった。
洛陽の人で蘇秦という者がいた。秦に用いられなかった蘇秦は燕の文侯にこう説いた。「諸侯の兵力は秦の十倍あります。力を併せて西の秦に対抗したら、秦は必ず破れるでしょう。六国(斉・楚・韓・魏・趙・燕)が合従して、秦を退けるにこしたことはありません」。

燕は蘇秦に資金を出して、諸侯たちの説得にあたらせた。蘇秦は言った。「鶏口牛後」=「寧ろ鶏口と為るとも、牛後と為ること無かれ」。秦に服従するより独立を保てということ。
「従」とは「縦」つまり「南北」のこと。斉・蘇・韓・魏・趙・燕の六国が従に合わさって秦に対抗する(「合従」)。それに対する秦の方策。諸国と個別に同盟を結ぶことで諸国の同盟を分断するもの(「連衡」)。「衡」は「横」に連なること。「合従連衡」はどうなったのか。
結局、諸国は秦に滅ぼされ、秦が初めて天下を統一することになる。
Posted by biwap at 08:30
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