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2020年10月02日

2021年の敗戦

2021年の敗戦

 1941年4月、30歳代のエリート官僚・軍人、民間企業人など、合計36名が集められて発足した「内閣総力戦研究所」。
 もともとは、国家総力戦体制に向けてのものだったが、その過程で日米開戦の是非を検討した。出身省庁のデータなどを持ち寄り、客観的かつ合理的に机上演習を重ねた。彼らが1941年8月に導き出した結論は「日本必敗」。それにもかかわらず、1941年12月、日本は開戦に至る。
 陸軍大臣だった東条英機は「戦争の勝敗はやってみなければ分からない」と発言。メディアは戦争へと国民を煽り続けた。非戦の声は「アカ」というレッテルのもと、牢獄の拷問へ閉じ込められた。
 「1941年の敗戦」から80年後、「2021年の敗戦」を語る人がいた。本間龍。新聞では書けない「朝日」は「論座」という雑誌の中でインタビュー記事を載せている。以下、要約抜粋。

2021年の敗戦

 東京五輪の開催はワクチンや治療薬の開発が間に合うかどうかにかかっている。可能性はきわめて低い。WHOはコロナワクチンの普及は来年中盤以降との見方を示し、世界の製薬・バイオ企業9社が拙速な承認申請はしないという共同声明を発表した。いくら政治の圧力で開発を急いでも、重篤な副作用が発生して訴訟沙汰になれば会社は潰れる。
 組織委は入国した選手を「隔離」して複数回のPCR検査を受けさせるといった案を話し合った。でも、選手、コーチ、関係者、合わせて数万という数の人の健康管理を徹底するのはきわめて困難だ。また、事前合宿する各国の選手を迎える「ホストタウン」が全国400以上で決まっている。多くはコロナ専用病床などない小さな自治体。地域住民が不安なく受け入れられる態勢を準備できるだろうか。
 コロナ対策は「簡素化」の真逆をいくもの。選手村専用の感染検査態勢や機器等の準備、選手や関係者専用の病院と語学力のある医療従事者の確保、各会場やバックヤードでの検温器や空気清浄機、扇風機などの設置、その運用のためのマンパワーの確保。こうした対策費を上乗せすれば、追加支出が5千億円程度で済むとは思えない。明日の生活に困っている人がこれだけ発生しているのに、さらに数千億円も投じることが、都民や国民に理解されるだろうか。

2021年の敗戦

 あらゆる判断材料が「中止」を示している。いたずらに決断を先延ばして淡い希望を抱かせるのは、世界中のアスリートに対しても失礼だ。早々に撤退の判断をすべき。招致委員会は、7月下旬からの開催期間を「この時期の天候は晴れる日が多く、且つ温暖であるため、アスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候である」と述べていた。近年の梅雨明け後の東京の気候を「温暖」などという生やさしい言葉で表現している人がいたらお目にかかりたいものだ。
 国が外出や運動を控えるよう呼びかける熱中症警戒アラートを出しているような環境下で、アスリートたちに競技をさせ、観客やボランティアをも危険にさらす。組織委と都は、テントやミストシャワー、打ち水、遮熱材舗装、瞬間冷却剤の配布といった酷暑対策を打ち出し、予算も100億円規模に大幅拡大したが、どれも効果は限定的。戦時中の「竹槍作戦」同様の悪い冗談にしか見えない。熱中症で搬送される人が続出すると、これも「自己責任」になるのか。そもそも、なぜ真夏の開催になったのかと言えば、巨額の放映権料を支払う米国のテレビ局の都合。商業主義、営利事業の極みだ。

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 大会ボランティアへのアンケートによると、回答者の67%が活動時のコロナ感染症対策を不安と答えている。コロナが収束していないのに無理に開催して酷暑の季節にマスク着用を義務づけることになれば、熱中症の危険性も増すことになる。ボランティア募集はすでに終わっているが、今後やめる人が続出することも考えられる。もしボランティアが足りないということになれば、自治体や勤務先や所属団体を通じた様々な方法による動員が行われることになるだろう。
 文部科学省とスポーツ庁は全国の大学と高等専門学校に大会期間中は授業や試験期間を繰り上げるなどの対応を求める通知を出していた。大会期間中の授業や試験をずらすことを検討していたのは79大学、ボランティア参加を単位認定するところは59大学もあった。
 東京都や千葉県は「体験ボランティア」という名目で中高生をも組み込んでいる。あくまで「任意」「体験」という説明をしているが、現場では半強制的な割り当てと受け止めている。「就職に有利になるのでは」「内申書で不利になるのでは」といった不安や同調圧力からボランティアに参加しようとする生徒学生もたくさんいるだろう。現代版「学徒動員」?

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 この「総動員態勢」がどうにも気持ち悪くて仕方ない。こういう、自分が少数派になっているような気分にさせられるのは、やはりメディアが五輪を盛り上げるための報道ばかりしてきて、それに取り囲まれているからだろう。
 オフィシャルパートナーには朝日、読売、毎日、日経の各新聞社が入り、全国紙すべてが東京五輪のスポンサーになっている。報道機関がこういうかたちで参画するなんて、ロンドンでもリオでもあり得なかった。スポンサーになって協賛金を払うということは、主催者と利益を共有する立場になるということ。公正な報道、ジャーナリズムとしての監視などできるはずがない。
 テレビ局にとってはスポンサー企業と組織委の広報を一手に握る電通の存在が大きい。テレビCMで3割以上のシェアを持つ世界一の広告代理店である電通は、特に放送業界に強い影響力を持っている。電通批判は巨大広告に依存する業界にとってはタブーと言ってもいい。五輪を批判するということは、電通を批判すること。
 今回の五輪も、選手たちの思いを聞き、戦後復興の頂点としての前回東京大会を懐かしみ、メダル量産で地元開催を盛り上げたいという金太郎アメのような報道ばかり。組織委が熱中症対策に頑張っている、苦慮している、という記事はたくさん載ったが、真夏の開催の危険性やボランティア問題をきちんと検証し疑問を投げかける記事は皆無。むしろ総動員機運を煽るような報道ばかりが目立った。

2021年の敗戦

 東京五輪は極論すれば「電通の電通による大会」だ。ここまで営利事業化、肥大化した現在の五輪が「おもてなし」「一生に一度」「世界の人々と交流」といった美辞麗句で多くのボランティアを動員し、日当も払わずに拘束するのは「やりがい搾取」「感動搾取」以外の何ものでもない。懐が潤って安泰なのはIOCと組織委のごく一部のオリンピック貴族だけ。それでも、この巨大商業イベントは止まらない。太平洋戦争の時と同じで、だれも責任をとらず決断しないまま、泥沼化していく。
 メディアは、招致活動以来のこの五輪の問題点をきちんと検証し、後世のための教訓として残すべきだ。さきの戦争での過ちを繰り返さないためにも。