2018年06月13日
梅雨の中休み

「石見神楽」の魅力にとりつかれ、はるばる島根県へ。「石見神楽」は島根県西部の石見(イワミ)地方に古くから伝わる伝統芸能。古事記や日本書紀などの日本神話を題材にしている。

まず、石見銀山の見学から。電動自転車をレンタルし、坑道のある龍源寺間歩(マブ)まで坂道を登る。歩くと40分以上かかる登り道も実に快適。

銀山採掘のために掘られたのが「間歩(マブ)」と呼ばれる坑道。700余り確認されている。

石見銀山(イワミギンザン)は、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山。この時期、日本はなんと世界の銀の約3分の1を産出していた。そのかなりの部分がこの石見銀山だった。

とてつもない富が動き、賑わったはずの町並み。今、その繁栄の痕跡を探すのは難しい。

2007年、世界遺産登録。観光客が殺到し、治安悪化や騒音などの観光公害に直面した。車の乗り入れ制限などの対応がとられたが、皮肉なことに今は観光客の減少に悩まされている。

石見銀の輸出港でもあった温泉津(ユノツ)。温泉街をしばらく歩くと龍御前神社に着く。毎週土曜日20時から、この場所で石見神楽が演じられる。

一番前の席にかぶりつき。この臨場感がたまらない。本日の演目は「八幡」と「武内」。

「八幡」。武勇の神、八幡宮の祭神である八幡麻呂を讃える神楽。九州宇佐八幡宮に祀られている八幡麻呂という神様が、異国から飛来した大六天の悪魔王が人々を殺害しているのを聞き、神通の弓、方便の矢をもって退治する。

八幡神は日本神話とは無縁な存在で、歴史の舞台に忽然と登場する。『豊前国風土記』には、「新羅の国の神、みずからわたり来たりて、この河原に住みき」とある。豊前は「秦王国」があったとされる場所。八幡神社の総本社である宇佐神宮(宇佐八幡宮)がある。渡来人が自分たちの信仰する神を祀った可能性が大きい。
武神である八幡神は、源氏の守り神となる。源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家と呼ばれる。源頼朝は鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎え「鶴岡八幡宮」としている。

2番目の演目は「武内」。武内宿禰(タケノウチノスクネ)は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣。300年以上、生きたとされる。

神功皇后が他国を外征の為、住吉の神に戦勝を請うと、『潮干る瓊(シオヒルニ)・潮満つる瓊(シオミツルニ)』の二つの瓊(タマ)を授かる。日本に攻め入った賊を撃退する為、海上での戦いで神功皇后は武内宿禰(タケノウチノスクネ)を従えて2つの宝珠を巧みに使いこれを打ち破る。撃退された賊徒は最後には神功皇后と武内宿禰に命を助けられ、忠誠を誓うという物語。
神功皇后「三韓征伐」の話や、海幸彦・山幸彦の話が入り混じっている。討伐されたのは「隼人」なのか「新羅」なのか?

それはさておき、この2つの演目の人間関係が気になる。
仲哀天皇が九州で熊襲を討とうとしている時、皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神が依り憑いた。「西の方にある、金銀財宝であふれた国を与えよう」というお告げ。夫・仲哀はこれを疑ったため、神の怒りに触れ滅する。神功は神託に従い胎児を宿したまま軍を率い、新羅を目指した。戦前の皇国史観でもてはやされた「神功皇后の三韓征伐」である。

産気づいていた神功は石を腰に巻きつけ出産を遅らせ、筑紫に帰国後、男子を出産。これが、後の応神天皇。実は、八幡神は応神天皇(ホムタワケ)と習合され同一視されている。その父は、不遇の死を遂げた仲哀天皇ではなく執事の武内宿禰だったという異説も。つまり、神楽の2つの演目の主人公は「父と母とその子」だったのか?

梅雨の中休み。石見への旅はいつの間にか想像力の翼で、異次元の世界へとタイムスリップしていった。山陰の鄙びた温泉街・温泉津(ユノツ)温泉。そこは、その秘密の入り口なのかもしれない。
つまらない人生をつまらないと言っても、いつまでもつまらないだけ。楽しもうと思えば、人生はなんだって楽しめるものだ。
Posted by biwap at 06:41
│旅行記