2015年10月20日
お葬式の民俗学

参列者は例外なく、葬儀場に安置されている死者の柩(ヒツギ)や写真を拝む。しかし、仏教では死者の肉体に意味はない。僧侶が拝むのは、死体ではなく法(ダルマ)なのである。お経を読むとはそういうこと。数珠をどう持つか、焼香を何回するかなど全く意味のないことだ。ところで、柩に手を合わせることは、もともと仏教ではなく儒教のマナーである。
儒教では、人間を精神と肉体とに分ける。精神の主宰者が「魂(コン)」。肉体の主宰者が「魄(ハク)」である。魂魄が一致している時が「生きている」状態、分離している時が死の状態である。理論的には、分離していた魂と魄は再び一致する可能性を持つ。従って、遺体は大切な存在。土葬、墓、お骨が重視されるわけだ。なお、死を「穢れ」ととらえるのは「神道」独特のもの。「喪中」とは死者を出した近親者が忌み籠もっている状態。特に死後間もない時はもっと厳格で「忌中」と言う。
いわゆる「仏教」では、肉体の死と共に霊魂は浮遊するとされる。肉体は抜け殻に過ぎない。従って、荼毘に付す(火葬)。肉体の死と共に、霊魂は「中陰」という時間に入る。その長さ49日。この間、次に生まれる場所が定まる。そこで死者が少しでも良い所に行けるようにと「供養」する。初七日に始まり7日ごとに行われ、49日後に生まれ変わり先が決定。これを「満中陰」と言う。
中陰法要(忌明け)の後にも、100日目に「百ヶ日」の法要。そして、「一周忌」、「三回忌」と続く。儒教祭祀の影響で付加されたものだ。この間、供養が続く。数えてみると、「初七日」から7日ごと、「七七日(四十九日)」までで7回。「百ヶ日」で8回目。「一周忌」で9回目、「三回忌」で合計10回。これは、冥界の十人の王に審判を受ける回数だ。閻魔(エンマ)さんだけでなく、「十王」もいると大変だ。その審判ごとに、遺族は「追善供養」を行い、少しでも審判を有利にしてもらうのだ。まあ早い話が、坊さんのお布施稼ぎとも言える。
これで終わりかと思いきや、日本独自にどんどん付加されていった。三と七を重視した七回忌・十七回忌・・・。十二支が1巡する「十三回忌」、2巡する「二十五回忌」・・・。二十三回忌・二十七回忌・三十三回忌・三十七回忌・四十三回忌・四十七回忌・五十回忌。以後50年ごとに百回忌、百五十回忌…と続く。もうエエ加減にしなさい。特に、三回忌・七回忌・十三回忌・三十三回忌が重視。三十三回忌で一応キリになる。「弔い上げ」と称し、死者の霊が「ご先祖様」という神様(祖霊)に仲間入りする。
ただし浄土真宗の教えでは、死者はすぐに浄土に直行する。従って、「追善供養」などは必要ない。霊という怪しげなものを否定しているところは、なかなか高度な宗教性だ。法要も、仏法や故人にふれる機縁という意味を持つらしい。
宗教は「内心の自由」に関わる大切な問題。信じるのも自由、信じないのも自由。他者によって強要されるものではないし、ましてや国家によって管理されることなどあってはならない。ただ、自分が自分の心の主人公となるためには、「知る」ことが大切だ。
Posted by biwap at 06:25
│民俗と文化への興味