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2018年04月21日

隣人への礼節

隣人への礼節

隣人への礼節

 他人の痛みを感じ取れるには、知識や感性や想像力が必要だ。子どもたちが塾に通い、必死に目指そうとしているはずの、この社会の超エリートたちの知識や感性や想像力の貧困に愕然とさせられる。まさに、私たちの国の隣人に対する品性のなさをも象徴している。
 無知が罪なのは、本当に大切なことを知らないのに、自分が知っていると思ってしまうことにある。「隣人として、せめて、そしるようなことはやめて欲しい」 この言葉に激しくショックを受けた。無知が罪なのだと改めて考えさせられた。

隣人への礼節

朝日新聞4月20日朝刊「融和の動き、そしらないで」
 奈良県に住み、「在日」として日本語で書き続けてきた詩人の金時鐘(キムシジョン)さん(89)の作品や講演録などを収録した『金時鐘コレクション』(全12巻、藤原書店)の刊行が始まった。朝鮮半島の分断から70年の今年、11年ぶりの南北首脳会談が予定され、緊張緩和に向けた動きもみえてきた。分断の悲嘆を作品にしてきた金さんは何を思うのか。
■晴れやらぬ生の痕跡
 金さんは植民地朝鮮で生まれ、日本語を「国語」として習った。そんな「因縁の絡んだ」言葉で詩作を続けてきた。
 「恥ずかしいぐらい日本の唱歌を知っています。植民地は、私にはやさしい歌としてやって来たのです。意識の下地は日本語で敷き詰められています。私の作品はそんな晴れやらない生の痕跡ですが、朝鮮と日本の関係を知る手がかりになればと願っています」
 1945年に母の郷里の済州島(チェジュド)で解放を迎え、一家は父の郷里の元山(ウォンサン)(現北朝鮮)を目指したが、北緯38度線に行く手を阻まれた。朝鮮半島は米ソが分割占領する冷戦の最前線だった。
 「真夜中、川を渡る段になって警察につかまり、故郷に戻れないと悟った父が慟哭する姿は忘れられません。解放とは何だったのかという問いは、今も続いています」
 南北に別々の政府が樹立し、分断が固定化した48年、済州島では南側単独選挙に抗する民衆蜂起を機に、軍や警察が数万人の島民を虐殺する「4・3事件」が起きた。金さんの友人や親類も殺され、日本へ逃れる契機になった。この春、済州島の追悼誌に「死者には時がない」という詩を書いた。
 《記憶が褪(ア)せないかぎり 私たちが怠らないかぎり 四・三の死者は生きている》
 「分断がうんだ悲劇を決して忘れてはなりません」
 在日になって間もなく勃発した朝鮮戦争(50~53年)で同胞が殺しあい、祖国は荒廃した。大勢の離散家族もうまれた。
 《父と子を 割き 母と わたしを 割き わたしと わたしを 割いた『三八度線』よ、 あなたを ただの 紙の上の線に返し てあげよう。》(55年刊行の第1詩集『地平線』から)
■行き来できるように
 今月27日、南北首脳会談が分断線(軍事境界線)の通る板門店で開かれる。
 「休戦状態を終結させる平和協定が成立すれば、ハリネズミのように身をかたくしている北朝鮮も核を手放すことができるでしょう。会談が実りあるものになれば、非核化への第一歩になるのでは」と期待を寄せる。
 平昌(ピョンチャン)五輪を機に南北融和の動きが進むなか、日本では「北に惑わされるな」という反応があふれた。
 「ひき裂かれた同胞同士が融和しようとしているのに、どうして冷ややかに見るのか。隣人として、せめて、そしるようなことはやめて欲しい」
 2000年の初の南北首脳会談で祖国統一の夢を膨らませた在日1世の多くは、すでに他界した。
 「分断の悲嘆で流した涙もかれるほどの歳月が過ぎました。植民地統治を強いられてから、私たちの民族は、自分たちのひとつの国に帰一したことがない。すぐに統一できなくても、同胞が南北を行き来できるようになることを願います。日本社会という『ひとつところ』に生きる在日から、対立の状況を克服したい。それが在日を生きるということでもあると考えています」