2016年12月07日
八幡信仰

日本神社ベストテン 1位・八幡信仰(7817社)、2位・伊勢信仰(4451社)、3位・天神信仰(3953社)、4位・稲荷信仰(2924社)、5位・熊野信仰(2693社)、6位・諏訪信仰(2616社)、7位・祇園信仰(2299社)、8位・白山信仰(1893社)、9位・日吉信仰(1724社)、10位・春日信仰(1072社)
堂々の1位は八幡信仰。八幡神社、八幡宮、若宮神社と呼ばれる。八幡神は日本神話とは無縁な存在で、歴史の舞台に忽然と登場する。『豊前国風土記』には、「新羅の国の神、みずからわたり来たりて、この河原に住みき。すなわち、名づけて鹿春(カワラ)の神という」。東へ進むと、八幡神社の総本社である大分県宇佐市の宇佐神宮(宇佐八幡宮)。豊前は「秦王国」があったとされる場所。渡来人が自分たちの信仰する神を祀った可能性が大きい。八幡神は、もともとは新羅の神であったのかもしれない。
やがて、八幡神は応神天皇(誉田別命)と習合されていく。第15代天皇とされる応神。母の胎内ですでに皇位に就く宿命にあったため「胎中天皇」とも称される。さて、その経緯から。
景行天皇(12代)の死後、成務天皇(13代)が即位するが男児が生まれず、直系は途絶える。そこでヤマトタケルの子タラシナカツヒコ(仲哀天皇)が皇位を継承。彼はなぜか下関や福岡にある仮宮で国を治めていた。そこで熊襲を討とうとしている時、皇后のオキナガタラシヒメ(神功皇后)に神が依り憑いた。「西の方にある、金銀財宝であふれた国を与えよう」というお告げ。
夫・仲哀はこれを疑ったため、神の怒りに触れ滅する。神功は神託に従い胎児を宿したまま軍を率い、新羅を目指した。恐れをなした新羅はもとより、百済も帰順したと記紀はいう。戦前の皇国史観でもてはやされた「神功皇后の三韓征伐」である。
産気づいていた神功は石を腰に巻きつけ出産を遅らせ、筑紫に帰国後、男子を出産。これが、後の応神天皇。しかし、大和にいる母親の違う兄たちとの世継ぎ争いが待ち受けていた。西から東へ攻め込み、政権を奪取。突如、河内平野に出現する巨大古墳の始まりは応神天皇陵から。馬具・武具の出土。天皇に「神」の字がつけられているのは、第1代・神武天皇、第10代・崇神天皇、第15代・応神天皇の三人のみ。いずれも「ハツクニシラス(初めて国を治める)」と言われる。つまり、西から来た征服王朝を物語っている。
769年、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になる」旨の託宣が宇佐神宮からあったという。朝廷は和気清麻呂を宇佐神宮に遣わし、宇佐八幡の神意を確認。「無道の者掃除(ソウジョ)すべし」との託宣が下る。道鏡を皇位につけようとした称徳女帝は怒り、和気清麻呂を「穢麻呂(キタナマロ)」と名前を変え追放。しかし、道鏡の皇位就任は達成されなかった(宇佐八幡宮神託事件)。
源氏の棟梁・源義家は、石清水八幡宮で元服し自らを「八幡太郎義家」と名乗った。平将門は、天慶2年(939年)に八幡大菩薩から「新皇」の地位を保証されたという。源頼朝は鎌倉幕府を開くと、八幡神を鎌倉へ迎え「鶴岡八幡宮」とした。かくの如く、八幡神は全国の武家から武運の神(武神)として崇敬を集めることになる。また早くから神仏習合がなり、「八幡大菩薩(ハチマンダイボサツ)」とも称されていた。
滋賀県にある近江八幡市。地名は、「日牟礼八幡宮」に由来。総本宮は宇佐神宮。宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮の三社を日本三大八幡宮という。
Posted by biwap at 17:09
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