2015年01月13日
フランスの9・11

たとえそれがどんなに正義であろうとも、一切の批判を許さない世界は不気味である。テロとの戦いという高揚に微妙な違和感を覚えてしまった。あらゆる「暴力」廃絶のため、人々は手をつなぐべきだと信じる。でも、この違いが何なのかが、もどかしかった。期待はずれの多かった最近の天声人語だが、今回は思わず「そうだったのか」。というわけで、今朝の紙面から転載。
「新聞社襲撃をはじめテロが及ぼした衝撃と恐怖は大きく、フランスの9・11だという声が聞こえてくる。ならば、同じ轍(てつ)は踏んでほしくないと願うばかりだ。9・11のあと、米国にはイスラム教徒への不寛容の風が吹き荒れた▼9・11直後、ニューヨーク大のある教授が「社会が自由を失ったら、それこそテロリストに勝利させてしまう」と案じていた。だが、そうなってしまった。政府は対テロを名分に人権を軽視し、米社会にはいらだちと敵意が高まっていった▼アラブ系移民が射殺される。パキスタン人の母子が若者らに殴られる。この手の事件が、9・11から1年ほどしてもよく聞こえてきた。多くの移民が国境を越えてカナダへ逃れるのを、そのころ米国にいて取材した▼フランスは人口の約7%がイスラム教徒だという。差別や排斥が新たな憎しみを生むなら、それこそテロ組織の思うつぼだろう。多様性の尊重という欧州の理念も、血塗られた手につぶされかねない▼日曜日には数百万人という市民がパリや各地を行進した。その光景は、星条旗があふれ愛国の空気に支配された米国と印象は異なる。しかし結束感の高揚は往々に、聞くべき意見さえはじきがちだ▼言論への暴力は許されない。それは動かぬこととして、週刊新聞「シャルリー・エブド」の宗教風刺画をめぐる議論などは、あってしかるべきだろう。それもまた大切な言論の役割といえる。自由、平等、博愛をうたう国には説法無用のことかもしれないが。」(2015.1.13.朝日新聞天声人語)
Posted by biwap at 08:34
│辛口政治批評