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2016年04月13日

その反撃に拍手!

道草百人一首・その70

「忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな」(右近)【38番】


 「忘れ去られる私の身は何とも思わない。けれど、いつまでも愛すると神に誓ったあの人が、神罰で命を落とすことになるのが惜しまれてならないのです」。私はどうなってもいいの。それより、裏切ったあなたが心配なの。何とも痛烈な皮肉。
 右近(ウコン)。右近少将藤原季縄(スエナワ)の娘。醍醐天皇の中宮・穏子(オンシ)に仕えた女房。当代きってのプレイガール。実名で登場する「大和物語」には、百人一首43番藤原敦忠(アツタダ)・44番師輔(モロスケ)・20番元良(モトヨシ)親王などとの恋愛が描かれている。この歌のお相手は、藤原時平の息子・敦忠。
 「源氏物語」の一節。政敵に敗れ、明石に退居した光源氏。失意のどん底に打ちひしがれているのかと思いしや、ちゃっかり明石の君と結ばれ子どもまでつくっていた。都で寂しく留守番をしていた紫の上。光源氏からこの話を聞かされ、思わずつぶやいた。「忘らるる 身をば思はず・・・・」。
  


Posted by biwap at 06:20道草百人一首

2016年04月11日

夷酋列像を読む


 アイヌの首長ツキノエの図。耳にはイヤリング、身に纏っているのはコート、その下には竜の文様の服、そしてブーツを履いている。「雲竜文」と呼ばれる竜の文様は、中国江南地方で織られた錦織のデザイン。沿海州から樺太を経てアイヌに渡った。江戸・大坂へ伝わり、「蝦夷錦」として流行する。コートやブーツは、ロシア製。
 この絵は、江戸時代、松前藩・蠣崎波響(カキザキハキョウ)が描いた「夷酋列像(イシュウレツゾウ)」の中の一枚。1789年、和人との商取引や労働環境に不満を持ったクナシリのアイヌが、首長ツキノエの留守中に蜂起し、商人や商船を襲った。これにメナシのアイヌも呼応する。「クナシリ・メナシの戦い」。鎮圧に赴いた松前藩は、アイヌの首長たちを説得し和睦させた。しかし、蜂起の中心となったアイヌは処刑される。
 夷酋列像は松前藩に加担し、同族を裏切ったアイヌの長たちを描いたものともいえる。しかし、ツキノエたちは、招聘された松前には足を踏み込まなかった。いや、殺された仲間を思うと行けなかった。代わりに描かれたのが「夷酋列像」。かくの如く勇猛なアイヌたち、異国との交易と富。この絵は、それらが松前藩の支配下にあることを誇示している。
 幼い頃から絵を志し、ついに「夷酋列像」を描き切った充足感。しかし、蠣崎波響の心の中に去来した思いは、果たして何だったのだろうか。

  


Posted by biwap at 10:20芸術と人間歴史の部屋

2016年04月09日

ミダス王の罠


 ギリシャ神話に登場するミダス王。触れたものを黄金に変える能力を得たが、欲深さが災いとなる。「王様の耳はロバの耳」の王でもある。朝日新聞コラム「ミダス王の誘惑」から抜粋。


 図は、実質GDPと各年末の株価を2008年の指数を100にして指数化したもの。GDPは生産活動の指数だが、それが増えずに株価は2倍以上になっている。これは、株価が実体を伴わないバブルか、賃金を抑えて企業収益ばかりを膨らませているか、いずれかしか考えられない。
 失業率が下がっているのにGDPが増えていないということは、労働者1人あたりの生産性が下がっているということだ。実際、雇用が増えても実体はアルバイトの増加であり、正規雇用は増えていない。賃金も上がっていない。本当に雇用がよくなれば、人手が不足して、雇用環境も賃金も改善するはずだ。
 このことは、株価の上昇ともつじつまが合う。同じ量の製品を売るだけでも、雇用の質を下げて労働コストを安くすれば、企業収益が向上して株価は上がる。
 結局、実際の経済活動へは何の効果もないのに、分配だけが変わって、明るい兆しがあるように見せているだけだ。その結果、企業や投資家は喜び、アベノミクスを称賛する。
 大胆な金融緩和に効果があるとすれば、お金の増大が物の購入に向かう場合だけだ。しかし、日本ではお金の増大は需要に結びつかず、蓄財ばかりに向かっている。そのため、経済活動は活発化せず賃金も上がらず、株価だけが上がる。数字上のお金ばかりで実態が伴わない。
 このような経済で大規模金融緩和を続け、国債と貨幣という数字上の資産を拡大していれば、いつかは実体との食い違いが表面化し、株価や国債価格、さらには円の信用すら崩壊しかねない。
  


Posted by biwap at 06:03

2016年04月07日

湖国の祈り竹生島






 長浜港発9時の船に間一髪で飛び乗り、竹生島へ。桜満開。観光地の桜は人だかりの喧騒だが、ここでは祈りの島に「春の命」が芽吹いていた。竹生島信仰を「能」に見てみよう。



 延喜帝(醍醐天皇)の臣下が、休暇を賜って竹生島参詣のため琵琶湖を訪れる。湖畔で出会った老いた漁師と若い女の釣り舟に便乗し、湖春のうららかな景色を楽しんでいるうちに竹生島へ着く。到着した一行は翁と女に案内され、島の守り神・弁才天を参詣。臣下は聖域に女が足を踏み入れていることを不審に思う。二人は、竹生島は女体の弁才天を祀り、女性を隔てないのだと切り返す。その後、女は人間ではないと明かし社の御殿に、老人は湖の主であると告げ波間へ消えていった。夜、参籠している臣下たちの前に、弁才天が来臨して妙なる舞を見せる。次いで琵琶湖の竜神が水中から出現し、宝珠を臣下たちに献上し舞い遊ぶ。ある時は天女となって衆生の願いをかなえ、ある時は下界の龍神となって国土を鎮める。衆生済度の誓いを現した後、天女は社殿に、龍神は湖水の波を蹴立て湖底の竜宮に姿を消した。(能「竹生島」)


 琵琶湖は竜の聖地。竹生島のまわりにとぐろを巻き、守り神として信仰されていた。その竹生島に祀られているのが、七福神の一つ「弁才天」。琵琶を弾く女神「弁才天」は、宇賀神(ウガジン)という蛇の神と同体。竜は蛇の姿でイメージされていたため、竹生島を守る「竜神」もまた「弁才天」と同体なのだ。能「竹生島」では、「弁才天」は永遠の命をもつ釈迦仏が姿を変えたものだという。神仏習合、民間信仰の姿がそこに見られる。

「近江史を歩く・57」は、「湖国の祈り竹生島」

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Posted by biwap at 06:25近江史を歩く

2016年04月04日

ぜいたくは素敵だ


 朝の連ドラが始まった。興味が惹かれたのは、「暮らしの手帖」。その創刊者・花森安治(ハナモリ ヤスジ)。1911年、神戸市に生まれる。東京帝国大学文学部美学美術史学科入学。卒業後、伊東胡蝶園宣伝部に入社。1930年代末期から手がけた化粧品広告は、手書き文字で顧客に語りかけていた。日中戦争で徴兵され、ソ連と満州の国境地帯に派遣される。戦地で辛酸をなめた後、肺結核にて除隊。日本に戻ってきた後、大政翼賛会の外郭団体に籍を置き、国策広告に携わる。「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」のキャッチコピーは、花森が関わったもの。そして、敗戦。「ぜいたくは素敵だ」のカウンターコピー。
 戦時中、戦争に対して反感を抱きつつも「宣伝」という仕事の面白さに引きずられた。戦争に加担してしまった自分自身への嫌悪感。1946年、編集者・画家の大橋鎭子と共に衣装研究所を設立、雑誌「スタイルブック」を創刊。1948年、生活雑誌「美しい暮しの手帖」(後に「暮しの手帖」に改題)を創刊。「暮しの手帖」は生活者の立場に立った提案や長期間・長時間の商品使用実験を行うというユニークな雑誌。中立性を守るという立場から、企業広告を一切載せない。花森は編集長として自ら紙面デザインや取材に奔走し、死の2日前まで第一線で編集に当たった。創刊号から死の直前に発行されたものまで、「暮しの手帖」の表紙画は、全て花森の手によるものであった。
 豪放な性格、反骨精神と真摯な行動、おかっぱ頭やスカート姿。数々の逸話を残す花森。戦後最大の国民雑誌「暮しの手帖」は、なぜ創刊されたのか。花森はこう語る。「これからは絶対だまされない。だまされない人たちをふやしていく」。花森安治の生きた時代。それは、まさに「戦後」そのものであった。
 日中戦争に始まる長い戦争。大日本帝国が完敗を喫した1945年。そして高度経済成長の60年代を経た1970年、「一戔五厘(イッセンゴリン)の旗」は発表された。

 http://biwap.shiga-saku.net/e1069972.html
  


Posted by biwap at 09:40芸術と人間