2023年9月11日、チリ・サンチアゴの大統領宮殿では50年前のクーデター発生時刻に合わせて軍政による犠牲者への黙とうをささげる行事が行われた。
今から約半世紀前のことだった。世界で初めて自由選挙による社会主義政権がチリに誕生した。
チリの基幹産業は銅。世界の生産量の約3割を占めている。しかし、銅産業はアメリカ資本の傘下に置かれていた。これに対し、銅鉱山はチリの主権の問題である。国営化すべきと主張したのがサルバドール・アジェンデ。
アジェンデは1908年に中産階級の名家として生まれた。医師としてサンチアゴの貧困地区に住み、社会的弱者と接してきた。1937年の国会議員選挙でアジェンデは社会党から下院議員に立候補し当選した。貧困の解決には社会化した計画経済しかないと主張し、銅鉱山を国営化しチリ人の手に取り戻すことで、その収益を貧困にあえいでいる労働者に還元しようした。
アジェンデは、社会主義政党を中心とした勢力に1970年大統領選挙に担ぎ出された。一方、米国は銅鉱山の利権喪失、アジェンデの対米自主路線が他国に与える影響を懸念した。ニクソン米政権はアジェンデ大統領当選阻止に向けてあらゆる妨害工作を行った。
アジェンデの社会主義路線をソ連と同様であるとしたネガティブキャンペーンが行われた。ソ連によって蹂躙されたプラハの春に関するポスターがばらまかれた。妨害活動に膨大な資金がつぎ込まれた。しかし、アジェンデは大統領選挙に勝利する。
アジェンデは主要企業の国有化や大地主からの土地の収用といった社会主義政策だけではなく、社会的弱者の生活を保障するための政策を行った。物価凍結、賃金・年金の引き上げ、緊急住宅計画の実施、教育施設の拡充、機動隊の解散、公共事業拡大計画の実施、15歳以下の子どもへのミルクの無料給付など。
従来の政権とは異なる社会的弱者を重視した政策は民衆から大きな支持を獲得し、大統領就任の翌年1971年4月の地方選挙では与党人民連合は圧倒的勝利を収めている。
しかし米国や既得権益を保持する特権層にとっては自身の権益を脅かすもの以外の何物でもなかった。一日も早いアジェンデ政権の崩壊を!彼らは政権を崩壊させるためのあらゆる手段に出た。
米国はチリへの融資の停止を行い、チリ経済を締め上げた。その一方で、チリ国内での軍事クーデターを促すべく、チリ軍部に対して500万ドルの信用供与を行うなど経済的支援を惜しまなかった。米国傘下のケネコット社はチリの主要産業である銅の暴落を図るべく、銅の大量放出を行い銅の価格を下落させた。
米国のコリー大使は「アジェンデ政権下では、ナットもボルトも一つとしてチリに入れるのを許さない。あらゆる手段を使ってチリを最低の貧困状態に陥れてやる」と豪語している。
チリ国内の社会情勢が不安定となる中で行われた1973年3月の総選挙ではCIAが選挙資金を反アジェンデ勢力に注入したにもかかわらず、人民連合は大きく勝利した。
業を煮やした反アジェンデ勢力は、もはや軍部によるクーデター以外にアジェンデ政権を倒せないと判断。軍部に対して本格的なクーデターの画策を行うようになった。
1960年代には「軍の近代化」の名の下に米国指揮下の訓練プログラムが組み入れられ、反共産主義教育や反乱鎮圧活動の訓練が行われた。4000名ほどのチリ人将校が米軍の訓練を受けており、米国はここで育成した親米将校らを最大限駆使した。
1973年9月11日早朝、軍がクーデターを起こした。アジェンデ大統領は私邸からモネダ宮殿に向かった。陸海空軍および国家警察は、大統領に対し投降を呼びかけた。午前8時30分頃、軍は新政権誕生の放送を行った。しかしアジェンデは辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否した。
正午ごろ、モネダ宮殿に対し4機のホーカー ハンター戦闘機によるロケット攻撃が行われ、その後陸軍が突入し、およそ2時間の白兵戦の後、炎上するモネダ宮殿内で、アジェンデは自ら自動小銃を握って自殺した。顎から頭に向けて銃弾が2発発射されていた。
15時30分頃、ラジオ放送で、アジェンデ政権側の無条件降伏およびアジェンデの死亡が伝えられた。22時、軍政評議会発足。陸軍総司令官であり軍事評議会委員長に就いたのが、9・11クーデターの首謀者で、この後チリの独裁者として君臨するアウグスト・ピノチェトであった。ピノチェトはさらに、チリ全土を恐怖に陥れることになる秘密警察DINAを自らの直属の組織として創設した。
「左翼狩り」が行われた。人民連合の関係者、労働組合員、市民や活動家が逮捕・拘束・殺害。サンティアゴの室内競技場エスタディオ・チレには、多くの左派市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは、投獄あるいは非公然に強制収容所に送られた。また、左翼系の書籍や雑誌はことごとく没収され、公衆の面前で焚書された。
米国政府は経済面でもピノチェト軍事政権を支援した。米国農務省は10月と11月にそれぞれ2400万ドルを供与した。米国国際開発庁は3年間で1億3200万ドルを提供した。米国が牛耳る国際金融機関も対チリ信用供与を再開した。
プロパガンダの面でも米国政府はピノチェトを支援した。その多くは、ピノチェト政権の国際的イメージアップを狙ったもので、チリのキリスト教民主党の著名な議員たちがラテンアメリカとヨーロッパを回ってクーデターを正当なものとして説明するというツアーの資金を提供した。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共主義を理由にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、クーデターを「天の声」と賛美した。
ピノチェトの政治体制に反する者への拷問は悲惨を極めた。目、鼻、口、膝、敏感な陰部に狙いを定めて繰り返し打撃をしたという物理的な暴力が行われたほか、爪の下に針を差し込みそこに電流を流すといった電気ショックを行うなどした。女性に対しては性的に辱める拷問も行われていたという。直接的な拷問以外にも、2m四方の部屋に押し込められた上、トイレに行くことも許されず汚物をそのまま垂れ流すといった人間の尊厳に反する行為も行われていた。
ピノチェト政権下では、新自由主義学派のミルトン・フリードマンの弟子 で俗に「シカゴ・ボーイズ」と呼ばれる経済学者の政策が採られた。彼らの経済学は反ケインズ主義に基づくものであり、政府による規制、貿易障壁を資本主義の理念に反するものであるとして、政府による規制撤廃、徹底した民営化、財政縮小による自由放任経済を理想とするものであった。
ピノチェトは彼ら「シカゴ・ボーイズ」を経済顧問とし、彼らの進言に沿って国営企業の民営化、関税の引き下げ、財政支出の削減、価格抑制の廃止などを行った。
その結果、クーデターの翌年1974年にはインフレ率375%を記録。失業率も増加し、一般庶民はパンを買うのにも苦労する有様となった。
ピノチェト政権を容認していたアメリカ政府もチリ国内での民意の不満の高まりやアメリカ議会からのピノチェト政権の軍事独裁に対する批判の声が出始めると、アメリカ政府はピノチェト政権に民政移管を行うよう求め始めた。
ピノチェトは1990年に大統領を辞任。1998年に病気療養のために渡英した際、国際逮捕状が発行され、ジェノサイドと人道に対する罪で逮捕・拘束された。しかし、健康上の問題があるとして拘束が解かれた。
その後もチリ国内でもピノチェトを裁判にかける動きはあったものの、健康上の問題や認知症を理由に有罪となることはなく、2006年に91歳の長命でこの世を去った。
この間、チリは新自由主義の実験場に位置づけられ、国営企業を次々に多国籍企業に売り渡し、外国からの輸入自由化、医療や教育を中心にした公共支出の削減、食料などの生活必需品の価格統制を撤廃した。
フリードマンはこれを「チリの奇跡」と呼び、米国は同様の手法でアルゼンチン、ウルグアイ、ブラジルにも軍事独裁政権を成立させ、多国籍企業の草刈り場にした。
チリ経済は破綻し、貧富の格差が極限にまで拡大した。同時にCIAが暗躍する反政府運動の弾圧は続いた。拷問や投獄などの被害者は7万人をこえたとされる。
一握りの富裕層をさらに富ませ、中間層をも消滅させ、大多数を貧困化して社会を荒廃させた。その恩恵を受けたのは多国籍企業と「ピラニア」と呼ばれる投資家の小集団だけだった。
だが、いまや南米をはじめ世界的に幾多の犠牲をともなってくり広げられた新自由主義の壮大な実験は、その失敗が明白になり、米国の支配は行き詰まりを迎えている。
アジェンデは死の間際、唯一残ったラジオ放送局から最後の演説をおこなった。
「我々のまいた種は、数千のチリ人民の誇り高き良心に引き継がれ、決して刈り取られることはないと確信する。軍部は武器を持ってわれわれを屈服させるだろうが、犯罪や武器をもってしても歴史の進歩を押しとどめることはできない。歴史は我々のものであり、人民がそれをつくるのだ。
人民は、破壊され、蜂の巣にされたままであってはならない。屈服したままであってはならない。我が祖国の労働者たちよ!
私は、チリと、その運命を信じている。私に続く者たちが、裏切りが支配するこの灰色で苦い時代を乗り越えていくだろう。遅かれ早かれ、よりよい社会を築くために、人々が自由に歩くポプラ並木が再び開かれるだろう。」
あれから半世紀の時をこえて、2021年12月、チリで「新自由主義の墓場にする」ことを宣言する新大統領が誕生した。南米において、狂気に満ちた軍事的経済的謀略や、内政干渉をともなう新自由主義を乗りこえた新しい歴史の端緒がひらかれようとしている。
独立と民主主義を求める人々のたたかい。激しい弾圧と紆余曲折の中、そのたびに増していく民衆の力を押しとどめることはできないことをチリ人民は教えている。