露国社会党に与ふる書

biwap

2022年08月20日 15:28



 1904年2月10日、日本は対露宣戦布告し日露戦争が勃発。幸徳秋水、堺枯川らの『平民新聞』は、日露戦争は帝国と帝国との戦争であるとし、日本とロシアの国民の反戦意思を明確なものにしようと連帯を呼びかけた。公開書簡の反響は全欧州に湧きあがった。
 この同年8月、オランダ・アムステルダムで開催された万国社会党大会。日露の代表が並んで副議長席につき、堅い握手は満場に鳴りやまぬ感動の拍手喝采を得たという。


 「嗚呼あゝ露国に於ける我等の同志よ、兄弟姉妹よ、我等諸君と天涯地角、未だ手を一堂の上に取て快談するの機を得ざりしと雖(イヘド)も、而(シカ)も我等の諸君を知り諸君を想うことや久し。
 諸君よ、今や日露両国の政府はその帝国的欲望を達せんが為めに、漫(ミダリ)に兵火の端を開けり。然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく、国籍の別なし、諸君と我等とは同志也、兄弟也、姉妹也、断じて闘うべきの理有るなし、諸君の敵は日本人に非ず、実に今の所謂愛国主義也、軍国主義也、然り愛国主義と軍国主義とは、諸君と我等と共通の敵也。
 然れども我等は一言せざる可らず(ベカラズ)、諸君と我等は虚無党に非ず、テロリストに非ず、社会民主党也、社会主義者が戦闘の手段は、飽まで武力を排せざる可らず、平和の手段ならざる可らず、道理の戦ひならざる可らず、我等は憲法なく国会なき露国に於て、言論の戦闘、平和の革命の極めて困難なることを知る、而して平和を以て主義とする諸君が、其事を成す急なるが為めに、時に干戈(カンカ=武器)を取て起ち、一挙に政府を転覆するの策に出でんとする者にあらん乎、我等は切に其志を諒とす。而も是れ平和を求めて却つて平和を撹乱する者に非ずや。」 (「平民新聞」明治三十七年〈1904〉三月の第十八号冒頭 大要)


 この公開書簡に接し、ロシア社会民主党は直ちに返信を送った。
 「力に対するには力をもってし、暴に対するには暴をもってせざるをえないが、わが党は決して個人的なテロリズムを肯定するものではない」「然れども此問題は今此場合に於て、さしたる重要の事にあらず。今我等の最も重大に感ずるは、日本の同志が我等に送りたる書中に於て現したる一致聯合の精神に在り。我等は満幅の同情を彼等に呈す」
 この返信に接し『平民新聞』は、「吾人は之を読んで深く露国社会党の意気を敬愛す、然(サ)れど吾人がさきに、暴力を用ふる事に就て彼等に忠告したるに対し、彼等が猶(ナホ)終に暴力の止むを得ざる場合あるを言ふを見て、深く露国の国情を憎み、深く彼等の境遇の非なるを悲まざるを得ず」と述べている。


 幸徳秋水は言う
 「平和を乱した責任は確かに両国政府にある。しかし、この平和擾乱から生じる災禍は、すべて平民の負担になるのです。戦争をおっぱじめた政府は何の罰も受けないで、その責は我々平民の肩にかかってくるのです。だからこそ我々は戦争を否認し、一日も早く平和が回復することを祈るのです。我らは口あり、筆あり、紙ある限り戦争反対を叫び続けるでしょう」
 言論の自由も結社の自由もなく、普通選挙も行われず、その本質において全く専制主義だった天皇制国家日本。変革の思想を深めれば深めるほど、それは天皇制権力との命を懸けた戦いとなる。
 1911年1月24日午前8時6分、大逆事件への連座を口実に幸徳秋水の死刑は執行された。


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