1919年頃から、山川均・菊栄夫妻の家には、山口小静(コシズ)(19歳)ら数人の女子大生が出入りするようになった。週1回のペースで労働問題や社会主義やロシア革命についての研究会が開かれるようになる。当時女性は、夫や子どもにひたすら仕えるものとされ、政治結社に参加するのはもとより、政治演説を聴くことさえ禁じられ、戸外で3人以上集まるときは警察に届けなくてはならなかった。
東京女子高等師範学校の秀才・山口小静は社会主義者と接触したことが知られ、退学処分となる。小静は生まれ故郷の台北へ帰郷。東京にいた時からエスペラントには相当の実力があり、台北のエスペランティストの中心にいた連温卿と交流することになる。
連温卿は1895年4月、台北に生まれる。日本の台湾支配が始まった年である。植民地支配の負の遺産を一身に背負った世代である。学校教育では日本語が強制された。台湾で通用している様々な言語を改良して民族の言語を作りたい。そんな思いが連温卿をエスペラント運動へと向かわせた。
1923年、連は仲間と共に社会問題研究会を結成する。この時期、台北の女子学校で教員をしていた山口小静と知り合い、小静の紹介で山川均・菊栄夫妻と交流するようになる。
台湾の社会運動の核となったのは台湾議会設置請願運動だった。台湾では、日本が設置した台湾総督府の独裁的な権限が認められており、台湾人の間では自治を要求する声が高かった。そこで案出されたのが台湾議会設置の請願だった。
台湾議会期成同盟会が結成されたが、総督府は請願運動の活動家たちを治安警察法違反で逮捕した。総督府の強圧的態度、請願運動の無力と軟弱さへの失望、社会主義思想の影響などから運動は分裂していった。
コミュンテルン指導の下に台湾共産党が結成された。上海大学で中国共産党の影響を受けたメンバーが中心だった。運動からアナーキスト系が排除され、山川均と親しかった連温卿も山川イズムの社会民主主義者として糾弾された。「単に資本主義と戦うのみでなく、これら社会民主主義者ともまた、戦わなければならない。最も陰険な憎むべき左翼社会民主主義者・連一派と最も徹底的に戦わねばならないのだ」
社会民主主義を主敵とする台湾共産党の方針が、コミュンテルンの指令に基づいていたことは明らかだ。1931年、全島的な大弾圧の下、台湾共産党は壊滅状態になる。連温卿は政治運動から退隠し、民俗学の研究に専心する。生涯、社会主義への信念は失わなかった。
1945年に日本が敗戦した後の台湾では、国共内戦に敗れた蔣介石・中国国民党が、官僚や軍人らを率い大陸から進駐。台湾の行政を引き継いだ。
中国から来た国民党政府の官僚や軍人らを歓迎した台湾の人たちも、やがて彼らの汚職の凄まじさに驚き失望した。中国から来た軍人・官僚は質が悪く、強姦・強盗・殺人を犯す者も多かったが、犯人が処罰されぬこともしばしばあった。人々の不満は高まっていった。
1947年2月27日、台北市でタバコを販売していた女性を、中華民国の官憲が摘発。女性は土下座して許しを懇願したが、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収した。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は民衆に威嚇発砲し、まったく無関係な台湾人を死亡させてしまった。
この事件をきっかけとし、民衆の「中華民国」への怒りが爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が公舎に大挙して押しかけたが、庁舎を守備する衛兵は屋上から機関銃で銃弾を浴びせかけ、多くの市民が死傷した(二・二八事件)。
嘉義市の議員で民衆側に立った陳澄波が市中引き回しのうえ、嘉義駅前で銃殺されたのをはじめ、この事件によって多くの台湾人が殺害・処刑された。
1949年5月19日に改めて発令された戒厳令は38年後の1987年まで継続し、白色テロと呼ばれる恐怖政治によって、多くの台湾人が投獄、処刑されていった。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、1992年に李登輝総統が登場し、言論の自由が認められてからのことである。
台湾の「山川主義者」連温卿は、1947年の「2・28事件」の連累を幸いまぬかれ、1957年11月に死去した。山川均の死に先立つ約4か月だった。
プロレタリアート独裁や暴力革命を否定した社会主義者山川均は、日本型社会民主主義の道を模索し1958年1月7日に永眠。
日本人が台湾で疑いの目をもって見られる中、山口小静だけは「口先ばかりでない真実の台湾の友として、戦友として迎えられていた」と連温卿は言う。『山川均全集』第五巻にエスペラント旗を持った連温卿と山口小静が並んだ写真が掲載されている。連温卿が山川に送ったものであろう。
台北に帰郷した山口小静は、その1年半後には病死している。台北の女学校で教えたり、ロシアの飢饉救済の募金活動に奔走したという。小静は台湾の社会運動と山川を結びつけた人物として歴史に名を刻んだ。
堺利彦は山口小静の遺書に次のような弔辞を残している。
「また一つの莟(ツボミ)が落ちた/立ちどまり/振り返り/いとほしむ暇もない/我々の道の歩み」