15円50銭
「15円50銭と言ってみろ」「君が代を歌ってみろ」
1923年9月。関東大震災で廃虚と化した東京一帯。刃物を携えた男たちが徒党を組み、殺気を帯びた目で道行く人々を脅した。「15円50銭」の発音で生死が決まった。語頭が濁らない朝鮮語。「じゅうごえんごじっせん」は「チュコエン コチュッセン」。発音が少しでもおかしいと思えば、「鮮人(=朝鮮人の意)だ」という叫びとともに、暴行と殺人がほしいままに行われた。
地震当日の9月1日夕方。警察が「朝鮮人が殺人・放火を行っている」というデマを広めていた。「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「産業施設を破壊している」「略奪や婦女暴行まで行っている」。根拠のないうわさが駆け巡った。
9月2日午後6時、戒厳令布告。「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり」という電報が全国に打電。実弾を持った戒厳軍が出動し、東京や千葉などで朝鮮人を殺害。各地で自発的に組織された約3600の自警団は、街中を歩き回り虐殺を繰り返した。
俳優・演出家の千田是也。本名、伊藤国夫。19歳だった彼は東京・千駄ヶ谷に住んでいた。震災翌日夜。朝鮮人の集団が日本人を襲っているという流言を信じた彼は、杖を手に街に飛び出した。反対に朝鮮人に間違えられ、竹やりやこん棒で武装した男たちに襲われる。偶然通りがかった知人のおかげで九死に一生を得た。
9月6日、戒厳司令部は「朝鮮人暴動」の流言を明確に否定。10月下旬には、関東各地で繰り広げられた朝鮮人虐殺の事実が大々的に報じられた。むごたらしい出来事を伝える紙面を読み進めるうち、彼の胸に一つの思いが膨らんでいった。もしあの時、自分が本物の朝鮮人を発見し、とり囲む側の一人であったら、何をしただろうか?
「私も加害者になっていたかも知れない。その自戒をこめて、センダ・コレヤ。つまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけた」
1973年、「朝鮮人犠牲者追悼碑」を建立しようという呼びかけに応えて多くの人が集まった。千田是也もそこに足を運んだ。千田のように朝鮮人迫害の現場を経験した人。それを見聞した人。虐殺を生き延びた在日朝鮮人の思いにふれたことがある人。そこには無数の「千田是也」がいた。
1973年9月、こうした多くの人々の思いを集めるかたちで、朝鮮人追悼碑が建立された。碑は東京都に寄贈され、以来、毎年9月1日には追悼式典が行われ、歴代の都知事が追悼文を寄せてきた。
あの石原慎太郎でさえ寄せた追悼文を拒否した人物がいる。小池百合子。その背後には、追悼碑の撤去を求める勢力の執拗な働きかけがある。彼らは当時の戒厳司令部さえ否定した「朝鮮人暴動」の流言こそが事実だと言う。無念の死を遂げた死者を、何度冒涜すれば気が済むのか。
それぞれの土から
陽炎のように
ふっと匂い立った旋律がある
愛されてひとびとに
永くうたいつがれてきた民謡がある
なぜ国歌など
ものものしくうたう必要がありましょう
おおかたは侵略の血でよごれ
腹黒の過去を隠しもちながら
口を拭って起立して
直立不動でうたわなければならないか
聞かなければならないか
私は立たない
坐っています (茨木のり子「鄙ぶりの唄」)
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