ココアのひと匙

biwap

2017年10月17日 17:51


 海の彼方にある「常世の国」。そこに続く門戸が「熊野」。古来、黒潮に乗って多くの人々が来往した。この「熊野」の名をとどろかせた事件が起こる。


 大石誠之助。1867年11月29日、紀伊新宮に生まれる。大石家は、蘭医や漢学者を輩出した新宮きっての名家。誠之助も早くから医者を志す。同志社英学校で英語を学んだ後、25歳で、長兄・余平の援助を受け渡米。オレゴン州立大学で苦学しながら医学を学ぶ。
 その途中、よき理解者であった大石余平夫婦が、美濃大震災で亡くなった。余平の長男・伊作は、とっさに母親の胸にかばわれ助かった。


 誠之助は1896年に帰国。新宮の町で開業する。母方に引き取られていた甥の西村伊作を引き取り育てる。西村家は、大身代の地主。後に、誠之助たちの運動を財政面でバックアップすることになる。
 誠之助は、1899年に伝染病研究のためインドへ留学。イギリス帝国主義の圧政下にあったインドの民衆。カースト制度のもとで徹底的に差別されていた不可触選民たち。その貧困と抑圧の実態を目の当たりにし、社会のあり方を考えるようになった。
 帰国後、再開業。医者としての優れた手腕から、「ドクトルさん」として町民から慕われた。また、他の医者が相手にしなかった被差別部落の人たちを、親身になって世話をした。誠之助は多彩な才能の持ち主で、渡米中にはコックをした経験もあり、「太平洋食堂」というレストランも開店している。そんなことが機縁で、堺利彦らと交友するようになる。


 誠之助は、「平民新聞」などの新聞・雑誌に社会主義的な論説を寄せるようになる。運動への金銭的援助も惜しまなかった。新宮には、堺利彦・幸徳秋水・森近運平・新村忠雄などの社会主義者が誠之助を訪ねてきた。やがて「新宮グループ」が形成されていった。
 娼館設置が新宮で強行されると、医師であり文化人でもあった大石誠之助、僧侶の高木顕明、牧師の沖野岩三郎らが、人道の立場から廃娼を主張して立ち上がった。社会主義的な「牟婁(ムロ)新報」も、管野スガや荒畑寒村に論陣を張らせ、詩人・佐藤春夫ら若い世代を燃えあがらせた。これに幸徳秋水らが加わる。


 沖野岩三郎は、誠之助と共に「新聞雑誌縦覧所」を始めた。「町の図書室」のはしり。抒情詩人・佐藤春夫も新宮で育ち、ここをよく利用した一人だった。彼は幸徳秋水が新宮を訪れた際、たまたま旅行に出かけていた。この事件の難を逃れることになる。
 浄土真宗の僧侶・高木顕明。既成仏教の堕落を批判し、搾取と差別の社会を変革しようとした。寺の宗徒の多くは、被差別部落民であった。彼らと寝食を共にし、戦争反対や部落解放を訴えた。
 1909年夏。幸徳秋水は、土佐から上京する途中、長年の胸の病気を大石ドクトルに診てもらうべく新宮に立ち寄った。浄泉寺で30名ばかりを集めて、秋水を中心とした講演会が開かれた。その後、熊野川に舟を浮かべて秋水を慰労した。これが後に「共同謀議」の場とみなされることになる。
 1911年1月のある夜。上京二年目の佐藤春夫は、停留所で号外売りの鈴を聞いた。「号外!号外!大逆事件の逆徒判決の号外!」「死刑12人、無期12人」。判決後わずか6日で、絞首刑が執行された。「大石誠之助は殺されたり」と言う第一節から始まる詩を、佐藤春夫は書いている。


 神聖不可侵の天皇に対する反逆。でっち上げられた「大逆事件」。逮捕された26名の中には、実に6名もの「新宮グループ」がいた。
 逮捕された大石誠之助に面会すべく、甥の西村伊作は最新鋭のオートバイをすっとばして東海道を上京したという。親族や友人の悲しみのなか、表だって葬儀を行うことも、墓石を建てることも許されなかった。大石誠之助。今は新宮の町はずれにある小高い丘に眠っている。


 強権の吹き荒れる時代。石川啄木はこう詠った。
「時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことに かく思ふかな」
「はてしなき議論の後の 冷めたるココアのひと匙をススりて そのうすにがき舌触りに われは知るテロリストの かなしきかなしき心を」



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