ボクラ少国民
『勝ちぬく僕等少国民』(1945年、作詞:上村数馬、作曲:橋本国彦)
「1.勝ちぬく僕等少国民 天皇陛下の御為に 死ねと教へた父母の 赤い血潮を受けついで 心に決死の白襷 かけて勇んで突撃だ
2.必勝祈願の朝詣 八幡さまの神前で 木刀振って真剣に 敵を百千斬り斃す ちからをつけて見せますと 今朝も祈りをこめて来た
3.僕等の身体に込めてある 弾は肉弾大和魂 不沈を誇る敵艦も 一発必中体当たり 見事轟沈させて見る 飛行機位は何のその
4.今日増産の帰り道 みんなで摘んだ花束を 英霊室に供へたら 次は君等だわかったか しっかりやれよたのんだと 胸にひびいた神の声
5.後に続くよ僕達が 君は海軍予科練に 僕は陸軍若鷲に やがて大空飛び越えて 敵の本土の空高く 日の丸の旗立てるのだ 」
1945年8月15日、敗戦。「ボクラ少国民」の作者・山中恒(ヤマナカヒサシ)。
「全く突然に8月15日の敗戦がやってきた。僕らは最後の一人まで戦うつもりであった。だからこそ、国民義勇兵に志願したのである。敵の弾丸を一発でも多く消耗させるなら、たとえ正規軍の単なる弾除けに使われようと、それが天皇陛下の命令とあれば、喜んでそうしようと思った。
僕らは、物心ついてから戦争する国に育ち、戦争のための行き届いた教育を受けてきた。その教育の中で、日本が負けるとは一言半句も教えられなかった。
日本は神国で絶対負けないと教えられてきた。日本が負けるときは、宇宙がパンクすると教えられてきた。 陛下のご宸襟を安んじ奉るため、がんばってるのに、それができないんじゃ不忠の極みだろう。だったら自決すべきだろうと僕は考えた。ところが同級生が。負けたら死ねといった先生が、まだいるじゃないか。大人に、先生に、二重にたぶらかされて、負けたんだ。そのせつなさ、情けなさ。
大人が、神国日本として、ずっと締め付けて教育してきたものが、だんだん化けの皮がはがれてくるし、国も俺たちをだましてきたんだなあと思うと、よい少国民だったことが次第にいやになってくる。ものの見事にだまされたピエロのような気がして恥ずかしい。そういう思いが強烈に襲ってきた」
大日本帝国憲法。すべての「臣民」は兵役の義務に服さねばならなかった。そんな中、子どもたちは「少国民」として、軍事訓練や軍国主義教育を受けた。「少国民」とは、日中戦争から敗戦までの日本で、銃後の「子どもたち」を指した言葉。ヒトラーユーゲント(ヒトラー青少年団)、「Jungvolk」の訳語である。
ヒトラーユーゲントは、1938年来日。靖国神社を参拝している。
関連記事