見れども見えなかったもの

biwap

2015年05月25日 06:11


「それがし一心に屠家に生れしを悲しむ、故に物の命は誓うて之を断たず、又財宝は心して之を貪らず」
 室町時代、作庭の名手・善阿弥の孫である又四郎が語った言葉として『鹿苑日録』に記されている。又四郎は屠家(河原者)に生まれたことを嘆く。賤視されているがゆえにこそ、誓って「物の命」を大切にし「財宝」に心奪われないと自らの「矜持」を語る。


 禅の境地を具象化しようとした作庭は、「石立僧」と呼ばれる禅僧たちが担った。庭づくりの主役は「石」。その石の配置については厳密なルールがあり、石の移動は呪術的な行為そのものであった。


 やがて新しい技術者たちが登場する。「山水河原者」。八代将軍足利義政に重用された善阿弥はそうした中世被差別民の一人であった。目に見えない地中の世界を透視し、小宇宙の世界を築き上げる異能者たち。彼らは畏怖の対象でありながら、同時に賤視の対象となった。慈照寺(銀閣寺)の庭園は善阿弥の子及び孫の又四郎による作品である。


 龍安寺石庭。相阿弥の手になる。彼のまわりには多くの山水河原者がいた。石庭の東から二番目、二群の石の背面には「小太郎」「清二郎」と刻み込まれている。河原者と考えられる彼らの名がなぜ刻まれたのか。歴史の闇から浮かび上がった謎は、依然として沈黙を守っている。


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