海より渡り来し人々

biwap

2017年11月20日 23:21



 広島県福山市「鞆(トモ)の浦」。古くから、「瀬戸内」海上交通の要衝として栄えてきた場所だ。


 鞆の浦には廻船問屋、貿易商人として財を築いた豪商たちがいた。様々な旅人が、この地に上陸し、集まり、また四散していった。




 2017年10月、日韓共同で申請していた「朝鮮通信使に関する記録」がユネスコ記憶遺産に登録された。そこには、「鞆の浦」にある「福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料」6点も含まれている。


 江戸時代、朝鮮王朝から派遣された外交使節・朝鮮通信使。通信使の一行は「鞆の浦」の福禅寺に宿泊。客殿を「対潮楼」と名付けた。


 第8回目の朝鮮通信使の従事官・李邦彦(イ・バンオン)。鞆の浦の宿舎である対潮楼(福善寺)で憩った。対馬から江戸までの旅程の中で最も景色がよかった所として「鞆の浦」を挙げ、自ら「日東第一形勝」なる書を揮毫(キゴウ)し対潮楼に残した。


 海から渡り来たりし人々は、「鞆の浦」に着くと、ほっとして旅衣を脱いだ。牛頭天王もそんな渡来人(渡来神)の一人だったに違いない。


 多島海の島影を縫いながら、人とモノが行き交う。そこは、行疫神と恐れられる伝染病が上陸する場所でもあった。武塔神(牛頭天王)が、玄界灘を渡り、瀬戸内の海から上陸した場所が「鞆の浦」だった。


 港からすぐの山の中腹にある沼名前(ヌナクマ)神社。「鞆祇園宮」の別称とともに、「祇園さん」の通称がある。


 「鞆の祇園」と呼ばれ、祇園信仰の古い歴史と伝統の深さを持つ。牛頭天王信仰(祇園信仰)は、まず初めに鞆の浦に足を下した。京へと向かう、牛頭信仰の旅の出発点である。


 製鉄関連の小さな工場が目についた「鞆の浦」。「海の道」という大動脈の、確かにここはその結節点だったのだ。「鞆の浦」を後に、瀬戸大橋を渡り四国讃岐へと向かう。


 翌朝、杖を片手に「こんぴらさん詣で」



 「金毘羅(コンピラ) 船々 追い手に 帆かけて シュラシュシュシュ 回れば 四国は 讃州(サンシュウ) 那珂(ナカ)の郡(ゴオリ) 象頭山(ゾウズサン) 金毘羅大権現(ダイゴンゲン) いちど まわれば」




 金毘羅権現。ガンジス川に棲む「ワニ」が神格化され、「クンビーラ (金毘羅) 」となった。役小角が象頭山に登った際、天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住む「クンビーラ」の神験に遭ったというのが開山の由来。


 クンビーラはガンジス川を司る女神ガンガーの乗り物でもあることから、金毘羅大権現は海上交通の守り神として信仰されてきた。


 特に舟乗りから信仰され、全国各地の大きな港を見下ろす山の上に、金毘羅宮・金毘羅権現社が建てられた。その総本宮が香川県琴平町の金刀比羅宮である。天狗の面を背負った白装束の金毘羅道者が全国を巡って金毘羅信仰を普及した。
 明治の神仏分離令によって象頭山松尾寺金光院は廃寺に追い込まれ、国家神道の琴平神社(金刀比羅宮)に強制的に改組。主祭神の名は大物主と定められた。


 金毘羅は江戸時代には門前町としての姿を整え、以後庶民による信仰の高まりの中で発展していった。そこは、敬虔な信仰の場というよりも、異形の民を抱え込んだ有象無象のパワースポットと言うべきものだった。
 旅の最後は、そんな民衆のパワーを感じさせる芝居小屋「金毘羅大芝居」。


 約200年前に建てられた日本最古の芝居小屋を移築復元したもの。


 金毘羅信仰の全国普及に伴い門前町の形態が整っていった江戸時代中期。仮設小屋での歌舞伎興行から常設を求める庶民の声を後押しに、定小屋として建てられた。


 1985年から「四国こんぴら歌舞伎大芝居」が開催。四国路の春を告げる風物詩となっている。昔ながらの芝居小屋での歌舞伎を、次の春には是非見てみたいものだ。
 海で隔てられたのではなく、海の通路が大きな人の流れを作っていた。こんぴら船でやってきたのは、神であり、人であり、異類異形の民であった。単一ではないから、単色ではないから、その危なげな世界に心が躍るのである。

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