伽耶への旅

biwap

2018年04月19日 00:51


 20時10分、関空発のティーウェイ航空。1時間もすると大邱(テグ)国際空港へ着陸。友人のL氏が車で迎えに来てくれていた。



 楽しみにしていた朝食をたっぷりといただき、車は大邱から釜山の方向へと南下していく。


 洛東江(ナクトンガン)。韓国最長の河川。太白山脈に端を発し、大邱市、釜山市などの主要都市を貫流して朝鮮海峡に注ぐ。川の両岸に栄えたのが伽耶。河川名の由来は、駕洛国(現在の金海市)の東側に位置していることによる。


 伽耶は、百済・新羅・倭の人間が行き交う土地だった。紀元前1世紀頃に部族集団が形成され、1世紀中葉に「狗邪韓国」(金海市)とその北に位置する「弁韓」諸国と呼ばれる小国家群が出現。首露王により建国されたとされる「金官国(狗邪韓国、駕洛国)」が統合の中心となっていく。今回訪れたのは、その金海(キメ)市。


 町の中には伽耶文化祭を知らせる旗や幟が目につく。


 あいにくの雨だったが、しっとりと落ち着いた町並みには似合っていたのかもしれない。


 朝鮮半島の南端にあった伽耶。『三国遺事』の中の「駕洛国記」によると、始祖の首露(スロ)王は、天から降りて来たとされている。



 金海市中心部に首露王陵が整備されている。


 全体が美しい公園になっているが、その一角に6つの卵を形どった石のオブジェがある。


 紀元42年、天から紫色の紐が地上に垂れてきた。その紐の端には紅い布に包まれた小盆があり、それを開けてみると、黄金の卵が六個あったという。卵からかえった一番上の童子が初代駕洛国王(カラコクオウ)となった首露王。残りは他の五伽倻の王となったという。金の卵から産まれた為に姓を金と名乗った。金海金氏の始祖。


 首露王陵の北側にあるのが国立金海博物館。壁の一枚一枚のパネルは鉄である。伽耶は「鉄の国」だった。


 滋賀県草津市の製鉄遺跡を思い出す。原料の鉄は、この伽耶から来たもの。



 鎧、兜、馬具、金冠。日本の古墳からの出土品を連想する。いや、間違いなくここがルーツなのだ。


 博物館の横に首露王妃陵がある。妃・許黄玉は、インド・サータヴァーハナ朝の王女といわれる。古代の海岸線は金海市のすぐ近く。この地域は豊かな鉄産地と海運の良好な条件に恵まれていた。


 博物館横の道を登っていくと、亀旨峰(クジボン)に着く。


 亀旨峰(クジボン)は、先程の6個の卵が降りてきた場所。古事記・日本書紀では、「天孫降臨」をもって日本建国の前段階としている。アマテラスの孫ニニギノミコトがおりた場所は、九州高千穂の「クシフルタケ」。「亀旨(クシ)」の名前を借りていることは明白。降臨したニニギは「この地は韓国に向かい、笠沙の御前をまぎ通りて……」と言っている。天とは韓国をさしていることを自ら語っているのか。


 韓国ドラマ『鉄の王 キム・スロ』は遊牧民族匈奴の一部族である祭天金人の族長の息子として生まれたという設定になっている。
 考古学の語るところによると、3世紀終わり頃に北方騎馬民族が金海のあたりに移動し先住民族を征服した。5世紀に入ると支配者集団の墓は急に築造されなくなり消えていく。金海にあった金官国に代わり、5世紀後半には大加羅国(慶尚北道高霊郡)の力が強くなっていく。
 戦後の日本古代史学界に大きな波紋を広げたのが、江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」。江上は、日本民族の形成と日本国家の成立を区別し、民族の形成は弥生時代の農耕民族に遡るものの、日本の統一国家である大和朝廷は、4世紀から5世紀に扶余系騎馬民族を起源とし朝鮮半島南部を支配していた騎馬民族の征服によって樹立されたとする。


 5世紀初めころに河内平野に巨大古墳が登場する。それまでになかった馬具・武具が発掘される。初代・神武天皇と同じく、巨大古墳の主・応神天皇は九州から近畿に攻め上り権力を掌握したとされている。
 天孫が天から降臨したというのは、騎馬遊牧民族に共通する特徴的な神話である。「騎馬民族征服王朝説」の当否は別としても、「天皇家の祖先」が伽耶諸国から渡来したという仮説には否定しきれないものを感じる。


 L氏ご夫妻との楽しい旅の最後は小さな港。海産物を売る小さなお店が軒を連ねている。韓国はどこへ行っても、小さなお店の活気に圧倒される。市場の賑わいに圧倒される。地方の元気に圧倒される。そして、いつの間にかわが国と入れ替わってしまった民主主義の清新さに圧倒される。
 「鉄の国」伽耶が、古代日本の国家形成に想像以上の密接な関わりを持っていたことだけは確かだ。小さな一つ一つの船たちは、海の大動脈を駆け抜ける血液なのだ。その時間と空間の流れの中に私たちは生きている。


関連記事