解放の哲学

biwap

2020年05月21日 23:41


 一人の友人がアポロン神殿の神託を知らせにやってきた。「ソクラテスにまさる知者はいない」。ソクラテスは首を傾げた。自分はそんなに知恵があるとは思っていない、でも神が偽るわけはない。そこで、当時アテネで評判の知者たちを訪ね歩いた。「ほら、この人の方が私より知恵がある」。真偽はほどなく明らかになるだろう。しかし彼らと問答している内にソクラテスは気づいた。彼らは自分では知っていると思っているくせに、本当はよく知らない。自分も知らないのだが、そのことを自覚している点では相手よりすぐれている。
 では、知らないことを知っている方が賢いということなのか。いや、知識の量ではない。「何を知らないか」が問題なのだ。たしかに相手はたくさんの事を知っている。でも、「物知り」であることと「賢い」ことは違う。人間にとって本当に大切なことが何なのか。それに気づいているかどうかだ。一番危険なのは、大切なことを知らないのに知っていると思い込んでいること(ドクサ=臆見)。
 ドクサが、なぜ危険なのか。自動車の運転を知らない人は、運転することが危険なことを知っている。でも、人間がどう生きるべきかについては、改めて問い直そうともしない。大切なことを何でもないと思い込み、何でもないつまらないことを大切なことだと考えてしまう。
 本当に大切なこととは何か。そんなものは人それぞれだ。人間の判断は各人のおかれている条件によって異なり、認識や価値は相対的なものだ。そうソフィストたちは主張する。しかし、そこに落とし穴はないのか。
 多様な価値観を認めるとは、みんなそれなりに正しいということ。でも例えば、明らかな差別やヘイトが行われている時に、どちらの立場も尊重されなければならないのか。「表現の自由」「多様性」という言葉が、「ヘイトの自由」「差別する自由」を容認してしまうことだってある。何が間違っているのか。
 人を傷つける自由はないはずだ。どっちもどっち、何をしようとその人の勝手だという相対主義は、自由に見えて、実は欲望や感情の奴隷となっていることがある。正義が相対化されると強者が正義となってしまう。普遍的価値を追い求めるのをやめた時、そこに待っているのは人間の存在を根底から蝕むニヒリズムという病だ。それは、絶望や暴力の源泉となり、自由な社会の本当の「自由」を破壊する。
 ドクサが、なぜ危険なのか。それは私たちが本当に大切なことをわかっていないのに、わかっていると思い込んでしまうことだ。相対主義の中に、思考停止してしまうことだ。ソクラテスは永遠の問いかけをしているに過ぎない。ドクサに微睡(マドロ)もうとする耳元で、うるさく音を立てる「虻(アブ)」なのだ。哲学とは、ひたすら知を愛し求める営みだと言われる。


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