「猪飼野(イカイノ)」。JR 鶴橋駅・桃谷駅の東方、平野運河の両側一帯あたり。在日コリアンの街として有名。現在の地図に地名はない。
「日本書紀」仁徳十四年条、「猪甘(イカイ)の津に橋わたす、すなわち其のところをなづけて小橋という」。この「猪甘津(イカイツ)の橋」が猪飼野の由来とされる。ここは、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部(イカイベ)の住居地であった。「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタのこと。
同じく渡来人のもたらした優れた技術により、文献上日本最古の橋である「猪甘津(イカイツ)の橋」が架けられたのである。時代が下って江戸時代になると「つるのはし」と呼ばれた。現在の「鶴橋」の地名の由来となる。
このあたりは、百済からの渡来人が多数居住した。百済は663年、唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされ、百済から大勢の人が日本へ渡来。「日本書紀」には、「百済王」一族が難波に居住したと記されている。この一帯に、「百済郡」ができた。現在に残る地名。生野区の林寺にある「百済」バス停、JR関西の「百済駅」(現在は東部市場前駅)、旧平野川はもと百済川といい、旧生野村の南に北百済村、南百済村があり、市電にも百済停留所があり、四天王寺のすぐ東に百済村の字名もあったという。
室町期、猪養野庄と呼ばれた時期があるが、近世以降は猪飼野村になる。村はほとんどが農家。田は稲作一毛作。畑は主に綿作。余業として、木綿稼ぎ・わら仕事。これが明治期まで続いた。
近代に入り、鉄道が開通。大阪の急激な市街地化と人口増の波が、郊外である猪飼野まで押し寄せる。農業生産向上と洪水対策を目的にした平野川の改修工事も、整備された農地は住宅地となっていった。
1910年、韓国併合。日本の植民地支配が始まる。「土地調査事業」の名のもとに、朝鮮の土地の多くは日本の国有地とされ、多大な米が日本内地に奪い取られていった。生活基盤が解体し生活に困窮した朝鮮人。半島北部の人は満州・中国東北部に渡り、南部の人は日本に職を求めて移住した。
猪飼野に朝鮮から移住する人が増えたのは、平野川開削工事の際に多数の朝鮮人が集められたというのが定説だった。しかし、平野川の工事開始前に、すでに朝鮮人密集地区が数箇所あったという証言もある。『異邦人は君ヶ代丸に乗って』(金賛汀著・岩波新書)によると、それまでに茶屋・皮染色工場などで働いていたが、条件が良かったので、平野川開削の人夫募集に応じたと記されている。むしろ、済州島・大阪間に定期航路が開設されたことが最大の要因だという。
日本の植民地支配は、済州島においても大きな荒廃をもたらした。日本の近代漁法は漁場を荒らし、日本の大規模紡績工業による安価な綿布の流入は、唯一の有力産業である綿花栽培・手紡家内工業を壊滅させた。済州島民たちは極貧に苦しんだ。それでなくとも、韓国本土からの差別を受けていた済州島の人びと。生活の糧を求めて、日本に向かった。
1920年代、大阪・済州島間に定期航路が開かれる。定期船の船名は「君ヶ代丸」。植民地の民がその支配者の国に移住しなければならない時に、乗せられた船の名前に「君ヶ代」が使われるという皮肉。済州島から朝鮮人が大量に渡航し、猪飼野に住みついた。
大阪に渡航してきた済州島出身者を労働者として雇うという零細工場が、猪飼野地域周辺にあった。家内工業の街として、ゴム・セルロイド・金属加工などの零細な産業が発達。働く場と生活する場が同じという地域家内工業。多くの朝鮮人がこの地に集まった。
猪飼野に住みはじめてからも苦難は続いた。差別により住居を貸してもらえず、ようやく探してからも1畳あたり平均2人ほどのぎゅうぎゅう詰めの暮らし。露店は警察に水をかけられ、開いた夜学も暴力的に警察に閉鎖させられ、職場でも労働条件や賃金に差を付けられた。彼らの受苦がいかばかりのものだったか、今は想像する他ない。
鶴橋駅周辺は、高架下を中心に商店街が複雑に入り組んでいる。戦前このあたりは、主に小さな町工場と住宅であった。戦争の激化に伴い、駅付近の強制疎開が実施。建物は撤去され空き地となった。敗戦後、近鉄ガード下を中心に、いも・にぎりめし・古着などを売るバラックが建っていった。無断で自由市場が開かれ、許可なしに統制品・禁制品などの自由販売を行う闇市場となった。
そこで店を出す人も、在日コリアンが大半。警察が総動員となり、闇市場の閉鎖と撤去が断行された。バラックは全部取り壊された。その後、卸売専門商店街にするために本建築の店舗が建てられたが、1947年2月の大火でほとんどが焼失。しかし、交通利便な地であることから、すぐに復興・整備される。商店は最初、卸売専門で発足したが、徐々に小売りも行われ、店舗が所狭しと並んでいく。
「国際市場」と呼ばれる駅の東側は「在日」の店舗が多く、華やかな民族衣装店やチヂミ専門店などが並ぶ。在日コリアンの街。衣料品から食材まで、その独特の雰囲気でいまや観光名所としても注目を集めている。
1917年6月。猪飼野の借家で妻と義弟と共に電球ソケットの製造・販売を始めた人物がいた。新型の電球用ソケットを考案し、当時勤めていた大阪電灯に採用を具申したが受け入れられず会社を退職。当初、ソケットは売れずに困窮。その後、アタッチメント・プラグ、二灯用差込みプラグのヒットにより、経営は軌道に乗った。アタッチメント・プラグと二灯用差込みプラグ発売前後の1918年には猪飼野を離れ、北区西野田に住居兼工場を構えた。松下電気器具製作所(後のパナソニック)。猪飼野は、松下幸之助デビューの地でもあった。