人は矛盾に満ちた存在だ。福沢諭吉。1835年、中津藩の下級武士の子として生まれる。
ある時、神様の御札を踏んづけ、便所に捨ててみた。いっこうに神罰は下りない。稲荷社を開けてみる。御神体はただの石ころ。他の石ころと交換すると、それを知らない大人たちが真面目に拝んでいる。小さい頃から迷信を信じない合理主義者だった。
父親は諭吉を坊主にしようと考えた。封建制度は引き出しのたくさんあるタンスのようなもの。いくらゆすっても混じりあうことはない。家老は家老、足軽は足軽、中津藩1500人の武士には100の身分があった。才能あった父親も、身分制度に恨みを飲んだ一人だった。後年、諭吉はそれを知る。「門閥制度は親の敵(カタキ)でござる」。
寺にはやられず、チャンスが巡ってくる。1854年(19歳)。ペリー来航。封建日本の片隅にあるこの藩にも衝撃が押し寄せた。砲術修業が必要だ。そのためには、原書を読まなければ。長崎への蘭学修業の機会が訪れる。喜び勇んで出かけていく。
蘭学修業は身分秩序から抜け出す糸口。諭吉は中津へ帰ろうとしない。1855年(21歳)。大坂へ出て緒方洪庵の適塾に。橋本佐内・大村益次郎など多彩な人物を世に送り出した蘭学塾での青春時代。
1858年(23歳)。江戸の藩邸へ呼び出される。ここで、蘭学塾を開いた。その後の「慶応義塾」。1859年(24歳)。外国の空気を吸いに横浜へ行く。オランダ語はほとんど役に立たない。これからは英語の時代だ。チャンスがここから始まった。
1860年(25歳)。咸臨丸で渡米。幕府翻訳方として太平洋を渡った。まるで牢屋に入って毎日毎晩大地震にあっているようなものだった。やっと着いたアメリカ。「ワシントンの子孫はどうなっているのか」と問う。誰も知らない。バカな、日本で言えば徳川家康の子孫だろう。ワシントンも普通の人間だと言う。政治の仕組みが全く違うのだ。こうした疑問に解答が与えられるのは、二度目の洋行の時。
1862年(27歳)。幕府の遣欧使節の翻訳方としてヨーロッパに。「選挙」や「議会」とは、いったい何なんだ。保守党・自由党はいわば敵同士。お互い勢力を争っているはずなのに、同じテーブルで酒を飲んでいる。資本主義文明、その政治形態としての議会政治・デモクラシーにめざめる。
ヨーロッパ旅行から帰国してとりまとめた「西洋事情」(1866) がベストセラー。1867年(32歳)。2回目の渡欧。帰国後、「慶応義塾」を開く(慶応4年、明治改元の前なので慶応義塾)。授業料をとってびっくりさせた。教授もやはり人間の仕事だ。人間が人間の仕事をして金を取るに何の不都合がある。塾を授業料で運営。上野戦争。横で戦争をやっている間も授業を続けた。鉄砲を撃っている最中、経済の講義。だいぶ騒々しいようだ。生徒が面白がって屋根の上に。福沢は叫ぶ。「日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりである」「オランダはナポレオンの乱にて国が亡ぼされ、海外の領土が取り上げられ国旗を揚げる場所がなくなった。世界中に一ヶ所残ったのが日本長崎の出島である。されば慶応義塾は日本の洋学のためにオランダの出島と同じく命脈を絶やさない。慶応義塾は1日も休学したことはない。この塾のある限り大日本は世界の文明国だ。世間に頓着するな」
明治維新。政府は福沢に出仕の要請をするが、民間人にとどまる気骨を見せた。その名を全国にとどろかせたのが「学問のすすめ」。20万部という驚異的な大ベストセラー。冒頭の「天賦人権」思想。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずといえり」。福沢みずからの言葉のように言われるがこれは誤り。アメリカ独立宣言を福沢流に訳している(「…といえり」)。原文は「All men are created equal」。「上下の差別がないのにもかかわらず実際には賢愚、貧富の差がはなはだしい。それは、学問の力あるとなきによる(決して天から定められた約束事ではない)。しかもその学問なるものは人間普通日用に近き実学である。それによって我が身一身の独立と自由を達成できる。国家の場合も同様である」
第2編、「同等とは有様の等しきを言うにあらず、権理通義の等しきを言うなりなり」。人間は平等ではない背の高い低い、肌の黒い白い等がある。しかし権利においては平等だ。「他の妨げをなさずして達すべきの情を達するはすなわち人の権理なり」。己のやりたいことをやるのは人の権利ではないか。
自由、平等、個人の尊重。これこそが近代市民社会の原理。この立場から旧幕府時代の差別への痛烈な批判が加えられる。この封建の悪風俗の根源は、政府の人民に対する圧迫・暴政なのだが、それを招くものこそ人民の無知に他ならない。「愚民の上に苛き政府あり」。暴政を避けて、自主独立を全うするためには、学問を志し、知徳を高くし、「政府と相対し、同意同等の地位に登らざる可らず」と結ぶ。
封建思想・儒教道徳を痛烈に批判した。物議をかもしたのが「権助楠公」論。忠臣蔵の義士を批判。主人の敵討ちのために華々しく一命を捨てるのは、世に益することのない犬死。権助が主人の使いに行き一両の金を落として途方に暮れ、並木の枝にふんどしをかけて首をくくるのと同じ。楠正成を忠臣というなら権助も忠臣。何で宮殿を建てて祀らない。
あまりにも型破り。脅迫状が舞い込んだ。「人たる者は他人の権義を妨げざれば自由自在に己が身体を用いるの理あり。あるいは働き、あるいは遊び、意に叶わざれば無為にして終日寝るも、他人に関係なきこと」。俺の勝手だろう。個人主義の信条を述べ、封建諸道徳を痛撃した。
福沢諭吉は、良くも悪くも近代精神の体現者であった。民権論から次第に国権論へ傾斜していった。福沢の「変質・裏切り」と言われるが、実は福沢自体の中に両方の要素が内在していた。日本を文明富強国にするためには、封建秩序を打破する必要がある。「文明化=資本主義化=西欧化」はワンセット。それへの最短距離が、軍備充実、租税増徴、官民調和。国権の拡張のためには民権の制限もやむをえない。自由民権運動にも反対だ(官民調和)。
そして、西欧の国がそうであったように日本も植民地獲得競争へ。明治政府の朝鮮・中国侵略政策を全面的に支持。日清戦争では主戦論の立場を取る。「文明の戦争」と言った。「脱亜論」を展開。アジアを脱して西洋の文明に移るべき。アジアの悪友である清国・朝鮮とは謝絶すべき。
傲慢な大国主義への傾斜。果たして、この道しかなかったのだろうか?
1901年、20世紀最初の年の2月3日。死去。